第3話 黒百合1

「本当に……本当に素敵でしたね……」


 劇場近くのレストランの個室にて、サラは観劇の余韻に浸ったまま、もう何度目か分からない甘い溜め息をもらした。

 そんなサラを、オレールはにこやかに見守っている。

 食事を終えた二人の前には、湯気の立ち上るティーカップが置かれていた。


「喜んで貰えて良かった。本当はボックス席が取れたら良かったんだけど……今の僕にはこれが精一杯。ごめんね」

「そんなことないです。とっても見やすい席でしたわ。この人気ですもの、席を取るだけでも大変だったでしょう?」


 申し訳なさそうに眉を下げるオレールに、サラは即座に言葉を返す。


 マイエ子爵家は代々財務省の文官を務める家柄で、オレールも成人すると同時に、当主である父親と同じく文官になった。

 公正で堅実と評されるマイエ子爵家だが、目立った特産品のない小さな領地しか持たず、独自の事業も行っていないため、その生活は貴族にしては慎ましい。


 そんなオレールが今日のために取ってくれた席は、一階席のちょうど真ん中の辺りだった。実際、悪くない席だが、最前列やボックス席に比べて見劣りすることは否定できない。

 おそらく、父の名前を出せば、ボックス席に変更して貰うこともできただろう。アルマン・ブロンデルにはそれだけの伝手と財力がある。だが、サラは父の名前を利用するのは好きではなかったし、何より、オレールが自分のために苦心して席を取ってくれたことが嬉しかった。


 だから、サラは本心から満足していたのだ。この想いが伝わりますようにとの願いを込めて、サラは真っ直ぐにオレールの瞳を見つめる。

 オレールは安堵と照れの混じった笑みを浮かべた。目尻にくしゃりと優しい皺が寄る。


「ありがとう、サラは優しいね」

「そんな。お礼を言うのはわたしの方です。誘って下さって本当にありがとうございました。観たいと思っていた演目だったんです。前世からの運命の恋って、子どもの頃からの憧れで……」


 今夜の劇の演目は、前世で恋人同士だった二人が今世で再び出会い、身分差を乗り越えて結ばれるという恋物語だった。

 前世と絡めた恋物語も身分違いの恋物語も、昔から根強い人気がある。中でもこの演目が爆発的な人気を博しているのは、王弟殿下とその妃との実話を基にした物語だからだ。


 王弟殿下が、幼い頃に定められた婚約者との婚約を解消し、平民の娘を妻に迎えたのは、今から十年前。王家がそれを発表したとき、国民は大いに驚き、興奮した。王弟殿下とその妃となった平民の娘が、前世で『契りの腕輪』を交わした恋人同士であったことが、併せて発表されたからだ。


 『契りの腕輪』――それは、この国の者なら子どもでも知っている有名なおまじないだ。

 夫婦や恋人同士が、来世でも共にあろうという約束と共にお揃いの腕輪を交換して添い遂げると、来世で再び結ばれる。古くからそんな言い伝えがあるのだ。

 実際に、『契りの腕輪』のおかげで今世でも結ばれたと語る男女は時々現れ、そのたびに若い娘たちの口の端にのぼる。

 それらの噂によれば、『契りの腕輪』を交わした者は、同じ時代に生まれ変わり、再び巡り会うことができる。そして、ひとたび再会すれば、どんなに姿が変わっていようとも、それが契りの相手と分かるのだという。

 そんな噂話に憧れて『契りの腕輪』を交わす男女は昔から後を絶たないが、その数に比して、今世で再会できたという話は圧倒的に少ない。その理由は、再会してもそれが契りの相手だと気付けるのは『記憶持ち』だけだからだ、と言われている。それも、『記憶持ち』なら何でもいいわけではなく、前世の自分と相手のこと、そして『契りの腕輪』を交わした記憶を持つ者に限られるのだそうだ。

 劇中でも、王弟殿下とその妃となる娘は、いずれも『記憶持ち』として描かれていた。


「それにしても、『記憶持ち』ってやっぱり特別なんですね。平民が王族と結婚するだなんて、普通では考えられないことですもの……」


 ほぅ、と未だ夢の中にいるような表情で、サラは吐息を洩らす。

 この国の歴史上、男性王族が平民の娘を正妃に迎えた例は他にない。その極めて例外的な結婚を王家が認めたのは、『記憶持ち』を尊重する意思の現れだと言われている。『記憶持ち』が持つ前世の知識や技術を国のために活用する以上、『記憶持ち』が前世で交わした契りを尊重しようと、そういうことらしい。

 もっとも、まかり間違っても平民出の娘を王妃にするわけにはいかないということなのだろう。王弟殿下は結婚と同時に王位継承権を放棄し、現在は小さな領地を賜って妻と静かに暮らしているという。

 いずれにしても、この王弟殿下の恋物語が知られるようになって以来、若い娘を中心に、『契りの腕輪』や『記憶持ち』への憧れは高まっていた。

 以前はサラも、若い娘らしく、「君こそ『契りの腕輪』の相手、僕の運命の人だ」と、輝くばかりの貴公子に求婚される自分を夢想したものだ。

 そう、目の前で微笑む婚約者と出会うまでは。


「ふふ、サラだって『記憶持ち』じゃないか」

「でも、わたしのはちっとも役に立ちませんもの」

「そう? 花の名前が分かるって、素敵なことだと思うけどな。人生が豊かになる気がするよ」

「それは、そうかもしれませんけど……」


 もし『契りの腕輪』の相手に再会しても気付けないような、中途半端な記憶しかないんですもの。

 口には出さず、サラはほんの少し残念に思う。

 オレールと出会って以来、存在するかどうかすら分からない『契りの腕輪』の相手との再会を夢見ることはなくなっていたのに、久しぶりにそんなことを考えてしまうのは、観劇の余韻のせいだろうか。


 『契りの腕輪』の相手と再会するのはどんな気持ちなのだろうと、サラはふわふわと浮かれた頭で想像する。

 劇は、王弟殿下がお忍びで王都の下町を訪れたときに『契りの腕輪』の相手の生まれ変わりの娘と出会い、顔を合わせた瞬間にお互いに気付いたという筋書きだった。

 しばらく言葉もなく見つめ合い、やがて互いに引き寄せられるように歩み寄るも、王弟殿下の護衛達に阻まれて手を握ることすらできず引き裂かれるというシーンは、劇の序盤最大の見せ場だった。

 それから劇中の二人は、互いだけを想い、様々な困難を乗り越えて、ついに結ばれるのだ。


 『契りの腕輪』の相手というのは、きっとあんな風に、ひとたび再会すれば互いに求め合わずにはいられないものなのだろう。そんな想像は、サラをひどく甘い気分に浸らせた。


「ねぇ、オレール様。わたし、もし前世で『契りの腕輪』を交わした相手がいたとすれば、それはオレール様なのではないかって、そういう気がするんです。オレール様はわたしの運命の人なんだって」


 いつになく甘いサラの言葉に、オレールは僅かに目を見開き、それから蕩けるように微笑んだ。


「そうだね、うん、そうだったらいいね。……あのさ、サラ。僕は『記憶持ち』じゃないし、前世のことは分からないけど、もしサラさえ良ければ、来世のことを誓わせてくれない? これを、受け取って欲しいんだ」


 そう言いながら、オレールが懐から取り出した小箱。ビロードの布貼りの小箱の中身に、サラは息をのんだ。

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