点滴
真っ白に塗り固められた部屋で、ゆっくりと滴っていく点滴を、ぼんやりと眺める。
いってき、にてき、さんてき…
100まで数えても眠くはならず、ため息を噛み殺しながら美春は寝返りをうつ。点滴のチューブを巻き込むこともなく、慣れたものだ。注射を繰り返した腕は刺せる場所が無くなり、今は肘の裏側に刺している。
ひょいと悪戯心が顔を出し、肘を曲げると、規則正しく落ちていた液が堰き止められる。
それが何となく可笑しくて、クスクスと笑っていると、廊下を歩く声が聞こえた。1人でいる病室は静かすぎて、なんでも聞こえるような気がしてくる。ビルの3階という高さを物ともせず、見たこともない小鳥が外の手すりで羽を休めてくれた時、その声が聞こえやしないかと耳をそば立ててみたが、流石にそこまでは聞こえてこなかった。
(隣の部屋の音とかはよく聞こえるのに)
と少女は顔をしかめると、部屋の扉が静かに開かれた。
「やあ。調子はどう?」
そう言って父はぎこちなく笑う。私の腕に点滴が刺さっているのが不満でたまらないらしい。
(こんなの痛くもなんともない)
女の子は綺麗な瞳を空想に浸した。
私は王子様になって、姫を救いに行くんだ。父さんは、よくやった、と言って、漢の鏡だ、と言ってくれて、泣いてくれてる。パパを感動で泣かせるくらいに強く、傷なんか痛くないと平気な調子で笑うくらい、ぼくは強いんだ。絵本に出てくるような悪党たち、宝石を守るドラゴン、城の黄金を狙う盗賊なんか目じゃない。斬りつけられても、炎でちょっと焼かれようとも、心を折ることなく、戦うんだ。
(女の子になんて生まれるんじゃなかった)
そう考えた拍子に気持ちが暗転する。
(あっ!いけない!)
そう思って王子を、女の子を取り戻そうとしてももう遅い。どんどん遠ざかっていき、見えなくなった。
代わりに、ママを怒鳴りつけて、蹴って、壁を破壊するパパが、私の前に立ち塞がった。
絵本の中の悪者と、パパの顔が重なっていく。パパは悪党になって、ドラゴンになって、盗賊になって、でも、結末は子供の瞳を持たない大人の描く物語。最後に良い人がバカを見て、何もかもをうしな
「美春?」
パパの声。はっと少女は瞳を切り替えた。
「大丈夫か?」
心配そうに見つめる父親の手にはもうナースコールが収まっている。無機質なそのボタンと父親を見て、彼女は悟ってしまった。
(そうか、私の生死は父さんや母さんが決めているんじゃないんだっけ)
途端に地面に穴が空いた。どんどん落ちていく恐怖の中で、
「大丈夫だよ!」
と明るく言う、大人の自分の声が聞こえた気がした。
しばらくあとに、誰かが入ってきた。「辛さの原因を教えてほしい」と言ったので、話した。
今まで一度も話したことがなかった。
ひどいことをされたわけじゃないし、もっとひどい人は沢山いるのだと母親に小さい頃から大人になるまで教えられてきたから。
でも、何となく話してみようと思った。
そのあと、「こんなの普通ですよね」といつものように笑って、
「もう思いつめたりしません、頑張ります」
って謝るつもりだった。
「それは普通じゃない」
雲が晴れてから、美春は女でも戦が出来ることを知った。
父に、母に、何度でも自分の意見を言った。自分の意思を否定されたと反射で怒り狂う父と母に怯まず、頭の中でどうしたら説得できるのかと無意識に考えて、極力気持ちを抑えて、戦い続けた。
勝てるのか、勝てないのか、逃げるが得策かは誰にも分からない。
苦しさは、消えない。
愛とは?なんだ?
ぼくは今でも考え続けている。
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