第17話 コミ様降臨

今泉裕美子は、非常に真面目で優しい45歳の人間の女性である。


天界からは「信仰が厚い」と判定されているが、宗教に熱心なわけではない。


偶像なく漠然と「神様どうか世界が平和になりますように」と日々祈っているのである。


今日も消防車のサイレンを聞いて「火災がすぐに収まりますように。誰にも被害がありませんように」と祈願した。


それだけではない。


「全ての人が今もこれからも幸せであってほしい」という心持ちが、彼女には恒常的にあるのだ。


裕美子が洗濯物を畳んでいると、背後からふいっと緩やかな風が吹いた。


裕美子は閉め切っているはずの窓の方を振り向いた。


やはり窓はしっかりと閉じられている。


ふいに「良い所に住んでるわね」という言葉が頭に浮かんだ。


すると突然まばゆい光が差し、裕美子は目を細めた。


その源が部屋の中だと気付いたと同時に光が弾け、そこに体長20センチほどの人が二人現れた。


真っ白な衣を纏い、頭上には光る輪が浮かんでいる。


裕美子ははっと息を呑んで二三歩後退りすると、その場に膝をついた。


―お、このぐらい実体化すれば見えるのね。

「か、神様…?」


―カミじゃないわ、コミよ。


コミは腕を組んでじろりと裕美子を睨み、それをホキがもう少し人間に敬意をもって接するようにとたしなめた。


―お仕事中突然すみません。今泉裕美子様ですね?


「は、はい。そうです。」


―我々は貴女様にお願いがありまして天界から参りました。こちらはコミで、私はホキと申します。


「まぁご丁寧に…。何なりとお申し付けください。あ、どうぞこちらにお掛けになってください。」


裕美子が座布団を二つ並べ、いそいそと二人の大きさに合いそうな湯飲みを探した。


コミはドスッとあぐらをかき、ホキは受け入れるのが早いなぁと思いながら正座をし「お構い無く」と言った。


―この度、このコミが人間の体を持って活動をしたく、その為に憑依という形で裕美子様の体を使わせていただきたいのです。


「私の体を…。お役にたてるなんて光栄です。どうぞお使いになってください。」


ホキは裕美子の畏敬に満ちた眼差しと言葉を受けて「すみません、全然そんな大層なことじゃなく…」と謝った。


―あの、名目は一応ですが昆虫の生態調査になっていますので、たまに昆虫採集など行いたいのですが、虫は触れますか?


「虫…。あの…ゴ…台所のやつとかもでしょうか…?殺虫剤をかけて…素手でなければ…。いや、実は正直見るのもちょっと…名前を口にするのも…。」


―ああ、えーと、学名でいうとBlattodeaですね?伝説の!


―Gカブリね。


コミは小さく切られた栗饅頭の一切れをもぐもぐと頬張って言った。


裕美子はぞわぞわと体を震わせ、「かぶり?伝説?」と首を捻った。


―あれほど完成された昆虫はいないわ。何億年の間、どんなに環境が変わろうともほとんど手を加えられていない伝説の…


―Gカブリは我々変異課の観察対象にはあがりませんので大丈夫です。昆虫が苦手でしたら我々が実体化して研究しますので心配ありません。活動にあたっては、契約により裕美子様の霊力を分けていただくことになりますので多少の疲労感があらわれると思いますが…。


裕美子はほっとため息をついて「それなら大丈夫です」と言った。


―裕美子様は霊感体質というわけではないようですね。契約すると霊能力を抉じ開けることになってしまいまして。


「何か不都合なことがあるのですか?」


―はい。例えば血みどろの…


「あ、なるほど。たぶん虫よりは大丈夫です。」


―へぇ、珍しい人間ね。


―恐れ入ります。なるべく裕美子様の目につかない内に私が天界へ案内するようにしますので。


ホキは書類を取り出した。


―契約は憑依…即ち霊の共存という形で、裕美子様が主となり、コミの出入りを許して頂くことになります。妨げになる場合は裕美子様の意思で追い出すこともできます。「眠れ」と念じていただければコミの意識が閉じます。


ホキは憑依の仕組みや注意事項などを説明し、「それと、」とコミを一瞥してから言う。


―コミは大変勇猛果敢といいますか、猪突猛進で暴虎馮河で傍若無人な性質でありまして裸で柚の木にも登りかねないの者なのですが、体力的には?


コミが「あら、下着くらいはつけるわよ」と反論した。


「そうですね、できれば柚の木は避けてほしいですけど…。同世代の中ではそれなりに体力はある方かと思います。保育園や幼稚園で体操を指導しておりましたので。」


そう言って、裕美子は体を縦にくるんと回転させる新体操の技を見せた。


コミとホキは「おおー!」と感心してパチパチと拍手した。


―すごい。何今の動きどうなってんの?


「ふふふ。憑依してる時にまたやってみましょうか。」


裕美子がにっこりと微笑んだ。


―じゃ、契約成立ってことでいいのね?


裕美子が「はい」と返事をすると、コミが「それじゃあ」と裕美子の手をとった。


そして自分の頭上の輪を引っ張り、裕美子の手首に通した。


柔らかな光を放つ輪が、手首の周囲のどこにも触れることなく浮いている。


よくお祭りの時に子ども達が光るブレスレットをつけていたけど、その高級版みたいな感じだなぁと裕美子はそれを眺めた。


「これでコミ様が私に憑依できるんですか?」


コミは裕美子のお腹をじっと見て「うーん」と唸ると手を離して頭を掻いた。


―精神に私が入れる器を用意してもらう必要があるわね。今入り込んで裕美子さんが主導権握れるかっていったら微妙なところだから。そしたら違反になっちゃう。


「器ですか?どうやってやればいいんでしょう?」


裕美子は自分のお腹をぺたぺたと触る。


―手っ取り早いのはアルコールを摂取する方法ですね。人間が「酔う」と表現している状態です。精神に隙間が空くので、そこに我々のような霊体が憑け込むのですよ。


―そうそう。天界の憑依係が酔っ払いに憑依して家まで連れてってあげたりしてんのよ。良くない霊に憑け込まれる前にね。


「そうだったんですね。よくうちの父がお世話になってたみたいで。ありがとうございます。」


―裕美子さん、半分酔った状態で自分を保つみたいなことできる?


「…ごめんなさい、私お酒飲めなくて」


―裕美子様ならご自分で器を拡げられるのでは?なんせこの地域で一番の候補者ですからね。


ホキがパラパラと書類を捲って目を通す。


―何が評価されてたんだっけ?口寄せ?


―信仰深さですね。


「信仰ですか?特に宗教はやってないんですけど…なんとなくお祈りしているだけで」


裕美子が申し訳なさそうに言い、ふむ、とホキが頷いた。


―祈祷をしてみてもらえますか?


裕美子は自信なさげにおずおずと座り直し、両手を組んで静かに目を閉じた。


その瞬間、裕美子から透明な波紋が風のように駆け抜けていった。


コミとホキは目を見張った。


辺りの空気が清らかになったのが、コミたちにははっきりと感じられる。


二人は感嘆のため息をついた。


―道理でこの辺空気がいいわけだわ…。


―なるほど…。それでここが新しい光の道の拠点に選ばれたわけですね。澱みがなくて天界人も無理なく住めますから。


コミは裕美子の輪がついている手を取った。

「あ、これで器ができましたか?」


―うん、でもなんか…。入っていいのかしら、こんな…。茶室の作法がわからないから入りづらいみたいな感じよ。


―確かにコミさんが入るとぶち壊しですね。警報器があれば鳴りそう。


―否めん…。違反になる?最近コンプラ厳しいじゃない。


―大丈夫でしょ。


「よくわかりませんけど、ご遠慮なく。」


―それじゃ、お邪魔するわね?


「はい、どうぞ」


コミは実体化を解いて裕美子の体に潜るようにするりと入り込んでいった。


裕美子は一瞬ぬるま湯が胸に流れ込んだような感覚を覚えた。


「今私の中にコミ様がいらっしゃるのですか?」


―いるわよ~。


「あっ!脳内に直接…!おお…凄い…不思議です…。ふふっ。どこを向いて話したらいいのか迷いますね。」


―適当でいいわよ。念声のやり方教えるから慣れていってね。


とても安らかで、優しく温かく居心地がいい。


それでいて自然と背筋が伸び、きちんとしていたくなるような空気。


清く正しく美しい。


こんな人間がいたものだなぁ、とコミは思った。


―いや~。これは寝れる。


―コミさん、裕美子様の妨げになるような真似はしないでくださいね。


ホキは「くれぐれも」と強調した。


「あ、虫取はどこでもいいのですか?それともどこか特定の野山に?」


―ああ、調査の件はお気になさらず。我々は遠隔でも動けますから。…野山といえば、この辺りで山火事が起きたようですけど。そもそも、それで我々来たんですよ。来てどうするのかって感じですけど。


「ああ、火事ありましたね。先ほど無事消し止められたようですよ。」


―そーなの?良かった良かった。そんなことより、この辺に円部りい先生住んでるの知ってる?月刊少女きゅんきゅんの。


―コミさん実は山火事とかどうでもよかった説。


「マルベリー先生は存じ上げませんが、きゅんきゅんなら娘が以前購読してたのが押入れにありますよ。3年ぐらい前のですかね。」


―え~!円部りい先生がデビューする前じゃないの!もったいない!


「お買い物に出る予定ですけど、きゅんきゅん買ってみましょうか。コミ様、体替わられますか?」


―えっいいの?わーい!


コミが体の権利を受け取ると、柔和だった裕美子の顔付きが凛々しく変わった。


「おー!人間の体、久々!」


コミは裕美子の体でそばにあったテレビのリモコンを持つと刀のように振り回した。


―わっ!凄ーい!おもしろーい!VRみたい!


コミが裕美子に憑依する大義はもはや何も無いように思えるが、二人とも楽しんでいる様子だしまあいいや、とホキはお茶を啜った。

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