第10話大切にする

手のひらで包んで持ち帰った桜の花を、水を張った茶碗にそっと浮かべた。


優しくつつくと、バレリーナのように可愛らしく回る。


これをずっと大切に残しておきたいと思った。


水が溢れないように、蓋ができる容器に移して…。


「う~ん…ずっとは無理だなぁ。そのうち散って茶色くなっちゃうよ」


可奈子が頭をポリポリと掻きながら言った。


さくらは花を食い入るように見ていた頭をぱっと上げた。


「そうなの?…。でも…、…。」


さくらは子犬のようなつぶらな目で可奈子の顔と花を交互に見て、やがてかくっと肩を落とした。


滅多に望みを言わない娘が、一輪の花のためにしょぼくれた顔をしている。


何とかしてあげたいものだ。


可奈子はしばらく唸って考えた後、「押し花にするかぁ」と呟いた。


「おしばな?」


「綺麗なうちに、重石をのせてぺっちゃんこにして水気を抜くんだよ」


「ぺっちゃんこ?!いやだ!かわいそうだよ!」


さくらは悲痛な叫びをあげた。




「ただいま。入園式どうだった?」


「良さそうな先生だったよ。ひろくんも同じクラスだったし。」


達弥はスーツを脱ぎながらおや?と首を伸ばして部屋の奥を覗いた。


いつものさくらなら、玄関の戸を開ける音に反応して走って出迎えに来る。


もっと早ければ、鍵を開ける音や、その前の階段を上ってくる音、自転車を停める音にさえも「おとうさんかえってきた!」と敏感に察知して待機しているはずなのに。


机に、小さな背中が団子虫のように丸くなってくっついている。


「寝てる?」とさくらを指して小声で訊ねると、可奈子が苦笑しながら首を振った。


「見たかったな~さぁちゃんの晴れ姿。やっぱ有給とればよかった。」


「卒園式は有給とりなよ」


「もう卒園の話する?」


さくらが机に乗せていた顎を上げて振り向いた。


「おとうさん、おかえり…。」


「あ、起きてた。さぁちゃん、ただいま~!髪の毛可愛くしてもらったんか~。」


達弥はさくらの頬を両手ではさんでむぎゅと潰した。


「さぁちゃん、明日から幼稚園楽しみだな。頑張ってな!」


「ん…」


「どしたん。珍しく悄気てるじゃん」


「今日ね、なんか情緒不安定なの。」


可奈子は入園式の帰りに急に泣きだしたことを話し、今は博晃に貰った花が綺麗に残せないことに落ち込んでいるようだと説明した。


幼稚園が不安なのかな。さぁ、どうだろう?そうかもね。と二人は首を捻った。


「さぁちゃん、どうした?なんか嫌なことある?」


「おはながね、かれちゃうのがね、かなしいの。」


「それはなぁ。仕方ないからなぁ…。よし、今度父ちゃんがさぁちゃんのために色んなお花摘んできたる」


達弥はぐんとさくらを抱き上げ、そのまま一緒に畳の上にごろんと横になった。


「うん…ありがとね…」


達弥の胸の上にだらんと伏せ、頬がぐにゅっと潰れた顔で力なく礼を言う。


その様に達弥も可奈子も大笑いした。


「ひろくんが摘んできてくれた方が、さぁちゃんは嬉しいよねー」


「何なに。二人は付き合ってるんですか?大きくなったらトトと結婚する~!とかは永久に言わないんですか?」


―花はね、いつか枯れるものなのよ。いくら頑張って水や栄養をあげてもね。命ってそういうものよ。


―そうなんですね…。ひろくんがくれたから…大事にしたかったなぁ…。


―あらぁ~!もう、可愛いこと言って~!


レイがさくらの頬をつついた。


達弥は胸に乗せたさくらの背中をトントンと優しく叩きながら、スマートフォンを弄りはじめた。


規則正しい胸の音と体の温もりが伝わってくる。


さくらはコウが作ってくれた靄細工の桜を瞼の裏に思い出した。


ふわりと細工が解ける時、靄は微かな熱をテンの掌に移して沈んでいった。


思い返すと、先を歩くコウの後ろ姿はどこかそれに似ていた気がする。


「あ、これいいんじゃない」


しばらくして達弥が声を発し、さくらは目をパチッと開けた。


手招きされて来た可奈子が「へぇ~。こういうの家でできるんだ」と興味深げに画面を覗いた。


「さぁちゃん、見てみ。ちょっとよれよれになっちゃうかもしれないけど、こんな風に残せるみたいだよ」


「…!これやりたい!」


画面に表示されている写真を見て、さくらは目を輝かせた。


瓶の中に、細かな透明のビーズ様のものと一緒に花が綺麗な状態で入れられている。


さくらは字が読めず何なのかわからなかったが、それは乾燥剤でドライフラワーにするという方法だった。


―なるほど、ミイラにするわけね。こんな方法があるのね。


―みいら?


「よし。綺麗なうちにやらなきゃな。ええと、専用の乾燥剤と…密閉できる容器ある?タッパーかなんか」


「あるある」


「じゃ、乾燥剤だけだな。」


達弥はさくらを下ろして「ちょっと待っててな」と頭を撫でると、「ホームセンター行ってくるわ」と車の鍵をとった。その声はどこか楽しそうで、はりきっているようだ。


―パパさんさくらに甘々ね~。


―大変ありがたく申し訳なく思います…。


―大丈夫よ。パパさんもさくらの願いを叶えてあげられるのが嬉しいのよ。さくらは全然我儘言わないもの。


そういえば達弥はよく「おみやげだよ~」とさくらの好きな菓子やパンを買ってきては「晩ごはん前にこんなの見せないで」と可奈子に注意されている。


そしてその度に「だってさぁちゃんの喜ぶ顔が見たいんだもん」と子どものように言い訳をするものだ。


しばらくして達弥が乾燥剤を買って帰ってきた。


淡い青の砂粒をさらさらとタッパーに移していく。


スマートフォンでやり方を確認した可奈子は、嬉しそうなさくらと反対に、心配そうに口を開いた。


「さぁちゃん。この方法でもね、ずっと綺麗には残せないみたいなの。1ヶ月ぐらいって書いてあったから…。それに、さっきの写真みたいにできるかわからないよ。この桜は落ちてたやつだし、すぐ花びらが取れちゃうかもしれないでしょ。」


さくらはきょとんと可奈子を見た。


なんでそんな困った顔をしているんだろう。

そして、自分がほんの少し前に、ずっと残しておきたいと言い、綺麗に残せないことを嘆いて落ち込んでいたことを思い出した。


「うん。もうね、うれしいからね、だいじょうぶなの!かれちゃってもね、ずっとだいじにするの」


にっこり笑うと、可奈子も安心したように笑顔になった。


タッパーに乾燥剤を十分に敷き詰めると、その上に桜の花をそっと乗せた。


そしてまた乾燥剤をかけて埋めていく。


「うめちゃうの?」


苦しくないかな?ごめんね。と言いながらさくらはさらさらと少しずつ乾燥剤をかけた。


レイは「そりゃ苦しいも何も、殺す方法だもの」と思ったが、言わないでおいた。



密閉して一週間。


青い砂の中にすっかり水気の抜けた桜の花を見つけた時、さくらはもの悲しい、申し訳ない気持ちがした。


「あら、綺麗に出来てるね。さぁちゃん、良かったねぇ」


ほんのりと淡いピンクはほとんど褪せず、縒れることもなく、五枚の花弁も全てガクについたままだ。


可奈子は菓子についていたビーズ様の乾燥剤を薬の空き瓶にあけ、ピンセットで慎重にドライフラワーになった桜を入れた。


さくらはその様子をじっと見ていた。


あのまま、あの艶やかでしっとりと柔らかかった花のまま、少しずつ茶色く朽ちていくのを見届けた方が良かっただろうか。


可奈子に渡された瓶の蓋をさくらはきゅっと閉め、パリパリの桜の花を眺め続けた。


(さくらさん。新しいおうちだよ)


小さめの瓶だが、桜の花を一輪だけ入れるには広い空間だ。


ずっと変わらず大事にすることを望んで、それが確かにここにあるというのに、どこか寂しさを感じるのはなぜだろう。


まるで瓶の中に時の止まったひとつの世界があるようだ。


「別れ」に、直に触れている。


そんな気がする。


(きれい…)


この瓶は、一生大切にしよう。さくらは静かに心に決めた。



翌日、幼稚園から帰った後で、さくらは博晃に瓶を見せた。


「ぼくがあげたやつ?わぁーうれしい。だいじにしてくれてありがとね!」


博晃が満面の笑みで礼を言ったので、さくらは嬉しくなった。


「うん!ずっとだいじにするね」


愛は「こんな綺麗にできるもんなんだね」と感心した。


博晃とさくらは机の上に腕を組み、瓶に顔を近づけて眺めている。


可奈子と愛は微笑ましく二人の様子を見ている。


「またさくらがさいたら、ぼくとってあげるからね」


「ありがとう!」


「桜はまた来年、4歳になってからだね。もうすぐツツジとか紫陽花が咲くよ。」


「でもね、さぁちゃんはね、さくらがいちばん、にあうとおもう」


博晃はぴょこぴょこ跳ねながら言った。


「そっか。さくらちゃんだもんね」


「ううん。さくらちゃんじゃなくても、さくらがにあうよ。おひめさまみたいにね、ひらひらってふってくるのが、にあうの」


博晃は両手を挙げてチラチラと振り動かした。


さくらは「ああ」と思った。


コウとは似ても似つかないこの無邪気で優しい笑顔の男の子は、確かにコウなのだ。


実感したのは初めてかもしれない。


両耳の付け根に残る天界のイヤリングの痕が間違いなくそうだということを示しているのはわかっていたが、なぜか今までコウと博晃を切り離して考えていたようだ。


「ひろくん…。」


「ん?」


「えへへ。ありがとね!」


「どういたしまして!」



(ひろくん。生まれてくる前に、ひろくんが桜の花のことを教えてくれたんだよ。それで私、生まれてくるのが楽しみになったんだよ)


この可愛らしい瓶の中の桜の花を、出来るならコウに見せたい。


天界に持ち帰ることは叶わないけれど、伝えたい気持ちを、帰還するまでのあと何十年もの間、色褪せさせることなく留めておきたい。


天界に還ったらコウは今のことをどのくらい覚えているだろうか。


コウはきっと恥ずかしがって思い出したがらないだろう。


それでもコウに伝えたい。


桜のことを教えてくれてありがとう。


私のために花びらを集めてくれてありがとう。


似合うと言ってくれて嬉しかったです。


桜の花は可憐で、優しく包んで、守りたくなるような花でした。

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