第9話 桜吹雪

透き通るような晴天に、鳥の鳴き声がよく響いている。


入園式の案内には「駐車場に限りがあります。お近くにお住まいの方は歩いてお越しください」という一文が添えられていた。


さくらたちが住むマンションから幼稚園までは歩いていけるが、三歳児が往復して途中で抱っこをせがまないかと考えると悩ましい距離であった。


しかし博晃が「歩いて行きたい」と希望したことと、堂々たる晴れマークを印す気象予報が決定打となり、徒歩で入園式に向かうに至ったのだ。


―さくら、その制服超似合ってる~!可愛い!三つ編みも似合うわ~!超可愛い~!


―ありがとうございます!


ベタベタに褒めるレイにさくらはエヘヘと照れながら黒い制帽をきゅっと深く被った。


蝶を追いかけようとする博晃を愛が「ばてちゃうから」と言って繋いだ手をぐいっと引いて制止した。


川沿いの桜並木は、前日の強風のために満開だった花弁が散り落ちて、残された花蘂や新緑が目立っていた。


母親たちは「だいぶ散っちゃったね」と残念がったが、道中に花びらが散らばっているのをさくらは「キレイ!」とはしゃいだ。


たくさんの遊具。園庭を囲むように建てられた園舎。優しい木の匂い。


さくらはこれから始まる幼稚園での生活に胸を踊らせた。


担任の教師に名札とコサージュをつけてもらうと、さくらは嬉しそうに顔を綻ばせ、博晃は少し緊張した面持ちで、終始さくらの隣を譲らなかった。


明るく和やかな雰囲気の中、無事入園式を終えた。


「クラス一緒で良かったね。先生も明るくて優しそうだったし。」


「ねー!本当、一安心だわ。これ紅白まんじゅうかな。」


「若干持ちにくいよね。やっぱ車で来ればよかったかな。たぶんうちら車で来ていい距離だよ。」


「だね。でも意外とちびたち歩けたね。良かったー」


行きがけも通った川沿いの道に公園があり、遊びたいとせがむ博晃を「帰りに寄ろうね」と宥めていたので、そこで一休みすることにした。


さくらはブランコに乗った。


正面にある桜の木の合間から向こう岸の菜の花たちがひょこひょこと顔を出すのがおもしろくてぐんぐん漕ぐと、可奈子も愛も上手上手と手を叩いて褒めた。


博晃は道でしゃがみこんでは何かを拾い、新品の通園リュックに集めているようだ。


後ろで愛が見守り、横からレイとサカが「これが新しくてきれいよ」とか「こっちに吹き溜まりがあるよ」と聞こえもしない博晃に向かって教えあっている。


ブランコの揺れによる目まぐるしい景色の変化に、さくらはだんだん気分が悪くなってきた。

しかし地面に足が届かない。


「おかあさん、とめて~!とまれない~」


可奈子が掴まえて止めると、さくらはブランコから降りて「うーん」と唸りながらその場にしゃがみこんだ。


「さぁちゃん、さぁちゃん!見てて!」


博晃が嬉々として、頭をふらふらとさせているさくらの元に駆け寄ってきた。


そして横に立つと、さくらの頭上にリュックを掲げた。


「なぁに?ちょっとこわい…」


えいっという掛け声とともにリュックをひっくり返したが、何も出てこず、博晃はあれぇ?と首を傾げる。


リュックの出口に引っ掛かっているようで、見かねた愛が持ち方をアドバイスし、博晃が「もう一回いくね!」と再びさくらの頭上に掲げた。


数十枚の桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。

「わぁ…!」


緩やかな風に乗って、さくらの正面の地面を撫でていく。


回りながらちらちらと揺れ落ちる薄紅色を見て、さくらははっと息を呑んだ。


(そうだ。コウさんが教えてくれたんだ)


さくらは天界でのコウとのやりとりを思い出した。


それは転生が決まったすぐ後のことだ。




「テン、気を付けてね。日本人は、規律から外れると二度と表に出られなくなるまで責めてくる集団だから。絶対に隙を見せたらいけないよ」


サカが眼鏡をぎらりと光らせて真剣に忠告した。


サカとしては、人間になってから想い描いていたものとのギャップでテンがショックを受けないように、との親心のようなものだった。


テンは戸惑い肩を強張らせた。


「ってサカさんに言われました…」


書架で資料を集めていたコウに、テンがしょんぼりと告げた。


叱られたあとの仔犬のような目をしたテンを見て、コウは少し困ったように笑ってから手に持っていた本を棚に戻した。


テンを見ると、ついそのふわふわの髪を撫でたくなってしまう。


ともすればうっかり抱き締めてしまいそうになるので、コウは努めてテンを見ないようにしていた。


顔をふいと背けてから心の中で「あー今危なかった」などと思っているのだ。


「日本は…四季があって綺麗なところだよ」


サカが言うほどではなくとも、生きていれば必ず辛いこともあることに間違いはないだろうと思うと、無責任に「大丈夫だよ」とも言えず、当たり障りのないことを言って騙しているような罪悪感が少し湧いた。


「シキ?」


「うん。春夏秋冬。春は暖かくて桜が綺麗なんだ。夏はめちゃくちゃ暑いらしいから気を付けたほうがいい。秋には暑さが和らいで、木々が黄色や赤に紅葉する。冬は寒くて雪で真っ白になるんだけど…、俺らが行くところはそんなに降らないかな。これで一年。そんでまた春になる。」


「サクラ…ってなんでしたっけ?」


「木の名前。葉が出る前に花が咲くんだよ。こんなかんじの」


コウは噴水のように吹き出る靄を一掬いして撫でると桜の花の形に模して、テンの手のひらに載せた。


蘂や花粉などの細部や質感まで造り込まれていて、テンは桜の花が間違いなく再現されているのだろうと思った。


しっとりとした手触りの可憐な薄紅の花にテンは感嘆した。


「日本は今んところ4月始まりだから、入学式の時にちょうど桜が綺麗に咲いてたりする。それが風とかで散るんだよ、ひらひらって。」


言いながら指をちらちらと動かして桜が舞う様子を表現する。


「テン、似合いそうだな、桜吹雪」


コウがテンの頭にぽんと手を置いてフッと笑った。


そして手を離してから「今のはセーフ」と言い聞かせるのだった。




正午を知らせる音楽が公園のスピーカーから辺り一帯に響き渡る。


「そろそろ帰ろうか」と可奈子が言った。


公園を出る時、散らばった花びらが心残りでさくらは振り返った。


できれば拾い集めて持ち帰りたいと思った。

コウが靄で作ってくれた桜は、時間がたつと元の靄に戻って消えてしまった。


テンはそれがとても残念だったのだ。



「みて!きれいなやつがおちてたよ。」


博晃は嬉しそうに拾うと、「あげる」と言ってさくらの掌に載せた。


一片も散っていない桜の花だ。


「さぁちゃんは、おやいづさくらだから、さぁちゃんのおはなだよね」


さくらの目に映る手のひらの中の桜が、以前にコウが靄で再現してくれたものとぴったり重なった。



「ここ、あしたもとおる~!」


「明日からはさぁちゃんやほかのお友達と一緒にバスで通うんだよ」


―あれっ?さくらどうしたの?


―花が目に入った?


さくらは口をへの字に曲げ、顎をしわしわにして目を擦り涙を堪えていた。


それがついに堪えられなくなって、えぐえぐと泣き出した。


「あらら、さぁちゃんが泣くとは珍しい。どうちたのー。バスで通うの不安になっちゃった?」


可奈子が抱き寄せた。


「バスがこわいの?」と博晃が訊ねた。


違う。たぶん違う。と思ったが、実際のところなぜ泣いているのか、さくら自身もわからなかった。


嬉しいのか、悲しいのか。


よくわからない感情の波が押し寄せて、喉の奥のほうから込み上げてきたのだ。


「さぁちゃん、だいじょうぶだよ。ぼくがいっしょだからね」


博晃がさくらの頭を優しく撫でた。


さくらは可奈子の腕の中でぐしゅりと鼻をすすりながら「うん」と頷いた。

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