第7話 恋しい

さくらと博晃は同じ集合住宅に住んでおり、健診以来互いの家に行き来するのが習慣になった。


博晃はコウの転生した姿である。


しかし当のコウの記憶はない。


その事実のために、さくらは博晃との接し方に戸惑いあぐねた。


眩しいほどの笑顔にどう反応したらいいのかわからなかったし、初めて博晃からハグをされた時は、驚きと恥ずかしさのあまりその場で真っ赤になって固まってしまったものだ。


それは「コウさんがテンを抱き締めたー!」と叫ぶサカのせいでもあった。


しかし、相手はコウではなく博晃というただの人間の小さな可愛い子どもであると割り切り、そして自分も本当はたださくらを通して人間を俯瞰してみているだけの存在なのだと言い聞かせることで、ぎこちなさもなく受け入れられるようになった。


そんなさくらの様子を愛は「なんか仏様みたいだよね」と表現した。


普通の子どもとして博晃のことを好きになる一方で、ふとした時にコウのことを考えると、なんとも言えない寂しさが湧く。


まるで大事にしまっておいたはずの宝箱が、知らないうちに空になっていたかのような喪失感だ。



二人が歩けるようになると、近所の公園へ行くことも増えた。


夏は暑さの和らいだ夕暮れ時に出掛けて遊んだ。


一歳半を過ぎたある日、空を見上げたさくらは「オオー!」と興奮気味な声を上げた。


空高く一面に広がる、絹のように薄くなめらかな雲。


それが夕陽で赤紫のグラデーションに色づいていた。


「うのー!」


「ん?ああ、本当だー雲綺麗だねぇ!」


―ウノ!ってコールするゲームあるわよね。


―ありますね。天界の待機霊たちがやってるの見たことあります。


「おちぃ!」


さくらは空を見上げながら手をポンポンと叩き合わせて「ちょうだい」の合図をした。


「欲しいねぇ。でもね、雲は取れないの。」


可奈子はふふっと笑いながらさくらの頭から落ちた帽子を拾った。


ああ、そりゃそうだ。


雲に手が届かないことは、さくらもわかっていた。


しかし手を伸ばさずにはいられず、ベンチの上に立つとぐんと腕を上げた。


肩幅ほどの木の板の上でよたよたとふらつくさくらに、サカが「危ないよ~」と注意をした。


可奈子がぱっと支えると「届かないねぇ。取れたらいいね」と言って膝の上に座らせ、さくらの前髪をたくしあげてタオルで汗を拭いた。



―さくら、残念ながら雲は食べられないよ?おいしそうだけど。


サカがそう言ったのは、さくらがよく食べ物の話をするからだ。


―いやなんか、懐かしくて、つい…。


よちよち歩きの子どもが懐かしいと話すことにレイは可笑しさを感じたが、それからすぐ「ああ」と納得したように頷いた。


―天界の靄のことね?


―はい…。


―あ~なるほど。でも絶対こっちのほうが綺麗だよ。下界の夕暮れの空って本当いいですねぇ。


サカがしみじみと言った。


博晃は裸足で砂場を歩き回り、手足を砂の中に潜らせたり砂を握ったりして遊んでいる。


博晃の手から砂がさらさらとこぼれていく。


その様子を見ていると、さくらはふと天界にいた時のコウを思い出した。


―コウさんって、靄細工上手でしたよね。


―ん?そうだった?


天界の靄は触れることで様々なものに変化させることができる。


それは絵の上手下手と同じように細部までしっかりイメージ出来ているか否かで再現の精度が変わるのだ。


―うんうん、確かに上手かったですよ!一瞬で細かいところまで作り込むもんね!


自分で話を出しておきながら、さくらはぼーっとしてしまって話を聞いていなかった。


サカが「もしもしさくら?聞いてる?」と確かめる声も届いていない。


もしコウの記憶があったなら、よちよち歩きで片言しか喋れないこの時をどのように共にしていただろう。


(そういえばコウさんは、もともと日本語もちょっとわかるんだったっけ)


さくらは逆光で輪郭がキラキラと光って見える博晃を眺めながら、ぼんやりとコウのことを考えた。


(コウさんの記憶、どこに行っちゃったの…。)


さくらの様子を見て、レイとサカは少し困ったような視線を交わし合った。



コウの記憶をどうにか呼び戻せないだろうか、ということをさくらは何日か考えていた。


そして、もしかしたら今になって記憶が戻っているかもしれない、念声が使えなくて困っているのかもしれない、という可能性が頭に浮かんだ。


博晃と遊んでいる時、少しの期待にドキドキしながら、レイとサカに聞こえないように小声で話し掛けた。


「こーしゃん…?」


呼び掛けに博晃がぱっと顔を上げ、さくらは「もしかして」と思った。


「どーじょ!」


博晃は晴れやかな笑顔で、遊んでいた車のおもちゃをさくらに渡した。


ニコッと笑って受け取ると、博晃はさくらに無邪気にぎゅっと抱きついた。


さくらは、ああこれはコウではないなと確信し、頭に浮かんでいたコウのことをかき消しながら、「これはひろくん、普通の赤ちゃんのひろくん」と心の中で唱えるのだった。


それからも時折、レイやサカが母親たちの世間話に混ざっているのを確認すると、博晃にこっそり「おもいだちた?」と聞いてみたり、念声で「もしもしコウさん、起きてください」と呼びかけたりもした。


しかし当然のように期待する反応は返ってこず、何も知らず天真爛漫に笑う博晃に、似たような笑顔を作って返すほかなかった。



―やっぱりコウの記憶があってほしかった?


ある日さくらがぼんやりと絵本の猫を眺めていると、ふいにレイが訊ねてきた。


「えっ!!」


博晃にコウのことを探っていたのが聞こえていたのだろうか。


もしかしたらコウのことばかり考えていたから念声に漏れていたのかもしれない、と思いさくらは恥ずかしくなってなぜか慌てて絵本を閉じた。


―ごめんね。テンに苦労させるはずじゃなかったんだけど。


あたふたしているさくらにレイがため息をついて謝り、さくらはきょとんとレイを見た。


―えっ?何も謝ることなんかないですよ。しょうがないことだし、私は別に困ってないです。ただ…


さくらは言葉に詰まった。


まだ自分がどういう気持ちなのかも整理しきれていないので、言い表すのは困難だ。


―前のコウさんに、あと何十年も会えないのがなんか…寂しくて…。そこにいるはずなのになぁ…って。博晃くんも好きだけど、丸っきり別人みたいだし…。


言いながら、自分の言葉に納得したような、しかしやっぱり少し違うような気もして、さくらはう~んと唸った。


コウが聞いたら歓喜しそうだな、とレイはひっそり興奮しつつ、「そうねぇ」と腕を組んだ。


―コウの霊体が天界に戻らないことには、記憶も引き継げないのよ。方法もなくはないんだけど。


―なにか方法があるんですか?


考え込むレイにさくらは目を丸くした。


―寝てる間に霊体を引っ張り出して連れてくのよ。乳幼児は剥がれやすくてね。でもタイミングが悪ければ戻ってくるまでに肉体が死んじゃうこともあるから


―ええええぇダメです嫌です絶対連れて行かないでくださいね!


さくらは首をブンブンと横に振った。


―仮に死んじゃってもまた愛さんの次の子として転生させることもできるわよ。


―いや、だって、ひろくんとして生まれたからには…


くりくりの目も、繋ぐと柔らかく温かい手も、永久に失われるということ。


二度と動かない博晃、朝気付いたら冷たくなっていた博晃を抱えて絶望する愛、を想像した。


深い悲しみに、二度と同じようには笑えないかもしれない。


さくらの目にじわりと涙が浮かんできた。


レイは言ってから「しまった」と思った。


たくさんの魂を流れ作業のように送り出す天界の仕事を見てきたせいで、人間一人の人生の重さというものが頭から抜けていたようだ。


―そうよね。大丈夫、やらないわよ。怖いこと言ってごめんね。


レイがさくらの頭をポンポンと撫で、さくらはひっくひっくと泣きながらお願いしますよと念を押した。

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