第3話 教育係の水瀬さん

 安井塾で働き出して1週間が経った。


水瀬みなせさん、これ終わりました」

「こ、高山こうやまクン!あッ……ありがとう」


 この1週間、秀介は雑務メインで仕事をしていた。まずは簡単なことからやって職場の雰囲気に慣れろ、と塾長のけいに指示されたからだ。なので受け持ちの生徒はまだいない。


 仕事に関することは教育係の雫を通してやっている。初日の頃なんか、質問おろか書類の提出にしに行くだけでも雫はかなりテンパっていた。これでもマシになったほうだ。

 本人曰く男性に慣れていないから、なんて言っていたがこの世界の女性全員が全員そんな反応なのだろうか。


 塾長と初めて会った時はそんな風には感じなかったんだけどなぁ。


 今来ているスーツも新しく店に行って買ったのだが、入店した途端軽いお祭り騒ぎになった。男性用のスーツは置かれていなかったので困っていたところ、「超特急でオーダーメイドを仕上げます!!」と店員さんが意気込んでいたのでお任せした。


 まさか、頼んだ日に出来るとは……。予想外の対応力に軽く引いた。


「高山クン。この書類なんだけど」


 再び作業をしていると、隣の席にいる雫が秀介を呼ぶ。


「はい、何ですか?」


 そういうと、秀介はオフィスチェアに座りながら軽く地面を蹴る。オフィスチェアにはローラーが付いており、ゆっくりと雫の側に寄っていくはずだったのだが──。


「うおっ!」

「ひゃ!?」


 予想よりも勢いがついてしまったようで、つい秀介の肩が雫の肩へと密着する。突然の接近に雫の顔が茹でダコのように赤く染まる。口が半開きで硬直しており、目の泳ぎっぷりがヤバイ。


「す、すみません!つい勢い余って」

「……い、いえッ」


 「だ、大丈夫だよ!」とブンブン両手を振る水瀬さん。……本当に大丈夫なのだろうか。少なくとも、水瀬さんが教育係になってから分かったことがある。彼女はとても仕事熱心で生徒想いだ。俺より3つ歳が上ということもあってか、はたから見てるととてもクールで頼れるお姉さんって感じがあり、生徒からもかなり慕われている。そんな水瀬さんが俺に対し、まるで後ろめたいことを隠すような行動をとるなんて……。


「もしかして!」


 秀介は雫のおでこに自分の手をあてる。


「ひゃあッ!!?」


 突然の秋介の行動に、雫は驚きの声を隠せない。

 その二人の様子を遠目で京が見ている。


「……やっぱり」


 秀介は確信した。


「水瀬さん、熱があるんじゃないですか!無理しないでくださいよ!」


 水瀬さんのおでこはとても熱かった。きっと熱気味だと申告してしまえば、後輩である俺が心配すると考え、我慢をしていたんだ。教育係は水瀬さん担当だから、きっと仕事という意識から言えなかったのだろう。


「そういうことですよ、塾長!」

「……オマエのせいだ、バカ」


 京は呆れ顔で呟く。


「……1週間見ていて何となくオマエがどういう奴なのか分かったが、もう少し女性に対する振る舞いを考えろ。特に距離感」

「え……普通なのでは?」


 京の言葉に秀介は首を傾げる。側にいる雫は恥ずかしさのあまり机に突っ伏している。


「……メンド臭ぇ」


 京は少し、秀介を雇ったことを後悔した。

 



 時刻は21時。

 この時間になると生徒の対応はもう終わっており、オフィスには京、雫、秀介の3人だけとなった。


「よし、今日はこのくらいにしておくか」


 京はそう言って席を外した。


「水瀬さんも、もうあがります?」

「あッ……高山クンは聞いてないのよね」


 何のことだろう、と考えている内に先ほど席を外した塾長がビニール袋片手に戻ってきた。


「ほらよ」

「うわ!……て、冷たッ」


 京が何かを放り投げたので受け取る。手にした途端、ひんやりとした感覚が掌に広がる。缶ビールだった。


「……これは?」

「フフッ、今日は高山クンの歓迎会をしよう、て京さんがね」

「そういうことだ。ま、オマエが真面目に働いてなかったらやるつもりは無かったけどな」


 京はケラケラと笑いながら言っているが、その言葉を聞いた秀介は少し認められたような気がして嬉しかった。


 程なくして、歓迎会が始まった。

 他愛もない話をしながら、ちびちびとお酒を飲んでいく。話題は安井塾の話になった。


「そういえば、あまり生徒さん来られないんですね」

「今が春休みシーズンってのもあるが、ウチはそもそも大人数向けって訳じゃないからな」


 なるほど、と秀介が頷く。

 京の後に雫が続いた。


「でも、その分一人の生徒をしっかり見れるから私は好きですよ」


 秀介自身も講義形式よりかは、一人と向き合う方が好きなので雫の意見に同意した。


 場が和んできたところで、ふと秀介が口を開いた。


「ハハ、でもこういう歓迎会って居酒屋とかでやりたくなりますよね」


 その瞬間、京と雫の動きがピタリと止まった。

 そして二人とも「何言ってんだコイツ」と言わんばかりの視線を秀介に向ける。


「高山クン行ったことあるの!?でも、それは……」

「無理だろ」

「え!?何で?」


 京がやれやれといった様子で秀介に話す。


「あのな、男ってだけでも珍しい上に酒のある席に行ったらどうなる?中には男に飢えた節操のないやからもいるんだぞ。そんなの、ライオンの群の中にウサギを放り込むようなもんだ」


 そう言うと京は缶ビールを一気に飲み干した。


「わ、私もやめといたほうが良いと思うなー」


 水瀬さんも苦笑いしながら答える。


「でも、現にこうして皆さんと飲んでるじゃないですか」

「まぁ、アタシは人間が出来ているからな。でも……」


 京がニヤニヤしながら雫を見る。


「雫はどうか分からないぞ。もしかしたら、酒の勢いでオマエに迫ってくるかもな!」

「ちょ!け、京さん!やめてくださいよぉ!」


 大きな声で笑う京に、雫が頬を染めながら必死に否定する。


「アッハハハ!ま、男のコイツからしたら女の誘いの一つや二つ、どうってこと……」


 そう言いながら京は秀介の方へと目をやると、そのには真っ赤に染め上がった秀介の顔があった。

 その様子を見た京と雫は固まった。


「……そ、そんな。水瀬さんみたいな綺麗な人……俺なんかと、全然……釣り合いませんよ。むしろ、俺の方が緊張して……ていうか」


 口元を抑えてたじたじとする秀介の姿に、雫の頭がショートした。


「……きゃ、きゃわ……いい」


 手に持っていた缶酎ハイを床に落とし、目を血走らせながらバタリと倒れる雫。その顔の筋肉は完全に緩み切っており、薄らと鼻血が垂れているようだ。

 その光景に秀介は、ハッと我に帰り雫の側にかけよる。


「じゅ、塾長ォ!水瀬さんが!え、一気に酔いが回ったんですか!?さっきまで、そんな風には……」


 あわあわと慌てる秀介の様子を見た京は、ぐったりと椅子に背をもたれ、拳をおでこにぶつける。


「……あの顔は反則だ」


 あーもう、と京はくしゃくしゃと頭を掻き、溜息をついて一言。


「とんだ鈍感野郎だな、オイ」



 こうして、秀介の歓迎会は幕を閉じた。

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