89話 悪霊の瞳に映るは、歓喜か、絶望か?
◇
都市魔法によって防壁外郭を攻撃していた黒母は全て消滅した。幾らかの残党として動く黒針に止めを刺しながら、ミケは天異界の宙を不意に見上げた。
ぞっとするような悪寒と、押しつぶされるような威圧感。それは黒魔術師の接近を意味していた。
見上げた宙から、黒魔術師が流れる星となって降ってくる。
「ミケ、部隊編成だ。この場所は都市防壁魔術に覆われる。都市の外壁門にて黒魔術師を向かえ撃つ」
ランドウの指示が飛び、ミケが生返事で答えた。ランドウの言うように都市全体を包む防壁魔法に黒魔術師がぶつかり、ばりばりと衝撃音を打ち鳴らしている。その音が降り注ぐ下をミケは再編される場所の方角を確かめて、ノインを連れていこうと背後にいる彼に振り返った。
しかし、ミケの横を悠然と歩く少年の姿が目に映った。
「ノ、ノイン君!?」
ミケは黒魔術師が間近に迫っているなかで、すこしも顔色を変えずにいる少年に驚き、おもわず彼の名前を呼んでしまう。ノインはミケの呼びかけなど耳には入っていないようで、歩みの速度を落とすことなく外郭の端に向かって歩いていき、
「素晴らしい」
「え?」
何を言っているのか分からずミケは疑問の声を出した。ノインはその防護壁のぎりぎりの端に立ち止まり、両手を大宙に掲げて喜びを表している。
「なんと美しい光景でしょうか。新たな目覚めを待つ者たちがこんなにも馳せ参じている。正しき道を歩むための扉を叩かんと欲しているのですね」
感激の雷撃に貫かれたかのようにノインは、歓喜に打ち震えている。「ミケさん! 彼らを迎えに行きましょう」ノインは振り返りミケに告げると、そのまま自身の両肩付近から黒赤色の枝を伸ばしていく。ちょうどそれが異形の翼を成したと同時に、期待に胸を膨らませた子どもの様に黒魔術師の大群に向かって飛び去って行った。
あまりの唐突さとその異形にミケの体も魂も強張り、ミケは呼吸が止まってしまう。これは彼女が今まで経験したことのない恐怖‥‥‥いや、これに似たような感覚を味わったことはあった。だが、これほどまでの怖れを抱いたことはなかった。
ミケは何とか自分の呼吸を取り戻し、大きく咳き込む。
「まさか、あの黒赤色の枝はネキア様と同じもの? でも、ネキア様のとは全く違う。あれは、あの異質さは―――」
その先の言葉が怖くて唇が震える。あまりの恐怖に涙が滲み、力が抜けてその場にへたり込んでしまった。そう、アレは世界を滅する悪霊そのものの姿だったのだから。
呆然とするミケの頭上の宙では、ノインが連樹子の翼を広げた紅い姿が点となって漆黒の中で光を放っていた。
ランドウもまた宙を見上げて、呟く。
「あの少年が悪霊の域に到達していようとはな。しかも
◇
ノインは自分のもとにやって来るであろう幾万人の黒魔術師たち、その一人一人を祝福せんと連樹子の杭を練り上げていた。
「この世界に生まれ出でて、より良き生を生きる。それこそが最善なのだとペルン師匠は僕に教えてくれました。貴方がたも僕と同じように良き生を送りましょう」
そう言っている間に黒魔術師が漆黒の制御式を編み上げ、魔術の弾雨をノインに射当て続ける。戦闘技量の未熟なノインが攻撃を避けれないのは当然であり、単騎で黒魔術師の軍団の最前に立つのは、誰が見ても無謀を通り越す愚かさを感じずにはいられないだろう。その攻撃の被弾により損傷した部位を自己再生機能で手荒く回復させる。そして、なおもノインは連樹子を創り続けていく。それはまるで何かに憑りつかれたかのように。
自由都市エーベと天異界を覆う闇の、その中間にノインはいた。
大海原に
しかし、そのノインに必至で呼びかける者があった。
「ノインちゃんっ! 黒魔術師の前に出ちゃ危ない。待ってて、私がすぐに助けに行くからっ!」
ココはすぐにノインが黒魔術師の宙域にいることに気付き、原典系譜からノインに呼びかける。しかし、その声はノインには届いていなかった。瞬時に理解したココは踵を返してノインがいる場所へと、飛行魔動器の炉が限界の悲鳴を上げるのも無視して、彼のもとに急ぐ。だが、そのココを黒母が逃すわけもなく、黒針がココの進路を塞ぎ、閉じ込められ、ココは傷ついて行くのだった。
ノインの姿を見つめつ者がもう一人あった。エーベの中枢において遠目の魔術で覗く来訪者ネキア。彼女はノインが練り上げている連樹子を注視する。「連樹子の常時稼働。それなのに自身の存在滅失に至らないなんて。まさか、まさか本当に悪霊だとでも言うの?」ネキアから思わず漏れ出でてしまった言葉。その言葉にネキア自身が改めてぞっとする。身の毛もよだつ忌み深き名称に嘔吐感が込み上げてくる。悪霊‥‥‥魔女と同じ存在。いや魔女ですら悪霊には届かなかった。もし、あの少年が本当に悪霊なのだとしたら、この世界はあの時と同じように再び滅びに落ちてしまうのか。だが、その疑問は中枢司令部にけたたましく鳴り響く警報に掻き消されていくのだった。
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