アネクメーネ
遠原八海
Anökumene
森に入った直後から視線を感じている。心地よくはないが、仕方のないことだと私は思う。森は幽霊の住処だから、彼らの領域を侵犯する
彼らにわれわれの無害を表明するため、私は腕に抱えた冷たい姉の体をより一層高く掲げる。視線が一斉に姉にそそがれ、まるで流水に洗われるように一点に集まっては離れていく感覚がよどみなく繰り返される。
冷え切った空洞の体を見て彼らが興味をなくすのは、彼らが命の存在を肯定しているからだ。そうした価値観は私たちとは相入れないけれど、いまこの場に限ってしまえば、彼らが一方的に結ぶ合意が私たちにとっては都合がいい。姉の体を交通手形がわりにして、私は森をまた一歩、薄暗いほうへと進んでいく。
そのうちに土のぬかるみに足を取られてしまう。ずるりと大きく滑りそうになり、とっさに蔦を掴んで持ちこたえる。ぬかるみだと思ったそれは何匹もの腐った蛇の死骸だった。私はひどく頭にきて大きく蹴り飛ばす。腐った肉片が前方に散らばり白い骨が露出する。とっさに投げ捨てたせいで姉の体が腐肉で汚れてしまった。気にする必要はないはずで、それでも気にせずにはいられない。水の湧いている場所を見つけたらきれいにしてあげようと心の裡で思う。
森の中に分け入るたびに呼吸が苦しくなる。巨大な生物の胎内にいるみたいにあらゆる方向から圧迫されている。意識的に深く呼吸をしてみる。肺胞のひとつひとつまで私たちは森になっていく。
…
午後の教室で、日差しは揺りかごだった。
「ねえ」
姉は私と同級生で、だけど双子ではない。十一ヶ月だけ年上の彼女は、まるきり同じカリキュラムを受けて育ったはずなのに、なぜだか私の知らないことばかり知っていた。私が知ろうとしないこと、知らなくていいと思っていること。私に言わせれば、彼女の知識構造にはそういう無駄が多い。
「なに」
「自殺は悪いことだと思う?」
「わ、唐突」
姉の問いかけは、彼女の考えを再確認すること以外の意味を持たない。だから私はいつも真面目に答えてあげない。姉が姉であるための武装を否定しないために。
「悪くはないんじゃない」
「どうして?」
親や友達が悲しむから。未来の可能性が潰えるから。生まれ変われなくなるから。
本当はもっとわかりやすい記号的な理由。
「自殺すれば可哀想だと思ってもらえるから」
「たしかに悪くないね」
閉じた唇が弓の形に曲がり、鼻腔がわずかに膨らんだ。姉の笑い声は大変小さいので、教室中の大勢の雑音に押し潰されて、私にはちっとも届かない。
教室の窓からは給水塔が見える。一度あそこまで登ったことがある。毒を混ぜる勇気はなかったし、そもそも手に入らなかったから、かわりに犬の糞を投げ込もうと思った。私以外の全員がちょっとずつ汚くなればいいと思った。早朝、誰にも見られないように屋上に忍び込んで、どきどきしながら給水塔の蓋を開けたら、中はからっぽで、もう何年も使われていないようだった。
「体なんてものがあるから、命があるように見えるんだ」
授業が始まり、チョークを黒板に打ち付ける音がする。
姉のことを自分の贋作だと思ったことはあまりない。同様に、自分を姉の贋作だと思ったこともない。けれどいつか、どちらかは贋作になる。物事には絶対的に正しい基準があって、同じ人間はひとりもいないから、最終的には重複のないユニークな順位が割り振られて、低い方の負け。
定量的な評価は怖い。だから定性的で記号的な評価によって覆そうとする。終わり方でタグをつけて、その付加価値で勝負しようとする。そんなもの、ほんとうは自慰ですらないのに。
『ねえ。』
板書を写すタイミングで、姉はノートの隅にそう走り書きして私に筆談を持ちかける。私は教科書を全て捨ててしまったので、いつも姉に見せてもらっている。
私の目の前で、ノートに長い矢印が引かれる。
『これが時間の流れだとするでしょ、』
『うん。』
矢印の下に長方形が描かれる。
『これが四次元上の私たちなんだよ!』
…
姉は大学に進むと同時に余命を告げられた。姉の体の一部が取り除かれるたびに少しだけ寿命が延びたが、それもすぐに呆気なく使い果たしてしまった。
一人では寝返りも打てないほど削ぎ落とされた姉は、このままずっと夢を見ていたい、と言った。
「夢って記憶なんだよ。おかしいよね、経験は固体なのに記憶は流体なんだ。死んだあとはどうなるか知ってる? ずっと夢を見続けるの。人生っていうのは、ヒトの一生っていうのは、死んだあとに見続ける夢の材料を集めることなんだ」
病室のサイドテーブルの上を姉の指先がゆらゆらと探るのを見て、私はそこにあったCDケースを姉に渡してやる。視覚も聴覚も、そういう便利なものは全部、もう姉には備わっていない。
「流れていない音楽は死んでいると思う?」
姉の抱いていた哲学はきっと死にゆく彼女を幸福にできたはずだ。
…
もう一歩も歩けないことを悟り、私は立ち尽くした。森の中に沈み続けて、ようやく底に辿り着いたようだ。このままここに沈着し、根が生えるまで待つのもいいと思える。
やわらかい土の下にある硬い岩盤に根を下ろし、苔をまとって、森の一部になった私と姉を想像してみる。私たちの表面を虫が這い、染み込んだ雨粒が体組織をほどいていく。私たちはもう終わっていて、ゆえに保たれている。命と思考は等価だ。そして思考とは変化であり、変化とは時間微分にすぎないのだから、三次元上の私たちだけが持つことのできる特権的な錯覚だ。
姉に
四次元上に印刷された私のかたちは見るに耐えずとも、きっと姉より少しだけ、きれいな断面をしている。
アネクメーネ 遠原八海 @294846
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