分流点

遠原八海

分流点

 ノヴォロシースクに四日も滞在することになるとは思っていなかったので、僕はすっかり手持ち無沙汰になってしまっていた。ここに来るまでの予定が大きく乱れて、予約していた飛行機の出発までのスケジュールがぽっかりと空いてしまったのだ。予約変更の追加料金を出し渋ったのは失敗だった。この港街での生活に不自由なところはなかったが、観光にはまったく不向きだった。

 幅のそう広くはない運河の上を緩慢に滑るようにして、一隻の小舟がすぎさっていった。布で巻かれた積み荷が中央で三段に重なっていて、そのかたわらで櫂を握っていた黒い口髭の男がこちらの視線に気づいて大きく手を掲げたのだが、僕は軽く会釈するにとどめた。小舟は運河の描くうねりに忠実に寄り添いながら遠ざかっていき、やがて遠景にまぎれて見えなくなった。それを見届けてしまうと、気を紛らわすものはもう何も無くなってしまったので、僕は早々にホテルに戻ることにした。

 中心街にあるホテルはエントランスを進むとすぐフロントに迎えられる。ロビーでは四人組の老人たちと年若い男女がそれぞれソファに腰掛けているのが見えた。市名を冠したホテルは、近代的といえば聞こえはいいが、量産型で、のっぺりとした、あまり気の利かない印象を与えた。こうした印象はロシアの地方都市に共通して見られるもので、今さら僕の内心を動かすことはなかったが、後付けで華やかさを演出しようとして失敗したような趣味の悪いロビーの内装には少々辟易していた。僕は二〇時にルームサービスを寄こすようフロントに言いつけて部屋に戻った。

 印刷した論文を読み終えて煙草を吸っていると、まもなくルームサービスの夕食が届けられた。手際よく料理が並べられ、最後にワインボトルとグラスが置かれた。

「待ってくれ」と僕は驚いて言った。「ワインは注文していないのだけど」

「三〇八号室のお客様から、こちらの部屋に届けるよう伝えられております」

ボウイはそう慇懃に答えた。

「なぜだろう。心当たりがない」僕は首をかしげた。「これは安全なのか?」

「他のお客様にもお出ししているものです」ボウイがまた答えた。「ご不安であれば下げましょうか」

「いや、単なる厚意なら素直に受け取っておくことにしよう」

 ボウイは一礼して去っていった。僕はそう答えはしたものの、まだ送り主の思惑を測りかねていた。とりあえず料理を食べ終えたあと、ボトルを開ける前に、礼も兼ねてボウイに告げられた客室を訪問することにしたのは、だから自然な成り行きだった。

 呼び鈴を鳴らすとすぐに声が返ってきた。「どうぞ、開いています」部屋に入ると、若い男が立ち上がって僕を出迎えた。「お待ちしていました」

 男は青年と少年の境界にいるような顔立ちで、僕よりも一回りほど若く見えた。余裕のある風を装いながら、どこかぎこちなさを感じる所作だった。部屋の奥では男よりもさらに若い女が、ベッドに腰掛けたままうつむいていた。部屋の中は少しだけすえた匂いがした。僕は彼らに見覚えがあった。ロビーに二人で座っているのを何度か見かけていた。

「ワインは召し上がっていただけましたか」僕を注意深く観察するように、彼は口を開いた。「ノヴォロシースクには評判のよいワイナリーがあると聞きました。お気に召していただけるとよいのですが」

「実を言えば、ふだんワインは飲まないんだ」僕は手のひらを上に向けて、すまなさそうにそう言った。「貧乏舌でね。ワインの良し悪しなんてとても分からなくって、それが少し癪なんだ」それから安心させるようににっこりと笑顔を向けた。「けれどもこの場合は、君が味を担保してくれるというわけだから、あとでありがたくご馳走になるとするよ」

「それはよかった」彼は微笑んだ。

 僕は彼の態度をいまだ掴みかねていた。「それでまだ、君のご厚意のわけを聞いていないね」

「単純です。こうすればあなたと話せると思いました」彼は言った。「お願いがあるのです。大切なお願いです。そして、あなたはこころよく受け入れてくれると確信しています」

「どうかな」と僕はうそぶいた。「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにせよ、まずはその内容を聞かなくては」

 男はうなずいた。「トーシャ」そう彼が呼ぶと、今まで無言でベッドに腰掛けていた女が立ち上がり、のろのろと男の元へやってきた。小柄な少女で、透き通るような白い髪を揺らしていた。茫洋とした、視線の定まらない目つきをしていて、意思がひどく希薄に感じられた。

「妹です」

「妹さんか。恋人かと思っていた」言ってから、僕は少し気まずくなった。「いや、他意はないんだ」

「いえ、無理からぬことです」彼は少女を壁添いのチェアに座らせ、優しく髪を撫でた。「妹はすこし、頭が弱いんです。生まれた時からずっと」

 どうやらそのようだった。僕の人生の中で、この二人はまだ関わったことのないタイプに思えた。弱火のように静かに熱烈な興味が芽生えたのを僕は自覚した。それは単なる同情でも、卑しい好奇心でもなく、そこにたちあらわれたなにか偉大なものに対する、憧憬とも、嫉妬ともつかぬ複雑な感情だった。

「なるほど」僕は誤魔化すようにあいまいな身振りをした。「家族旅行ではなさそうだ。わかった、家出だろう」

「違うとは言い切れません」彼が言った。「続けますか?」

「降参だ」と僕は言った。「ぜんぜんわからない」

 彼は少しのあいだ黙ったまま、少女の髪を撫で続け、そしてふいに目線が遠くに向いた。

「両親が死んでから、僕たちは施設で育ちました。そこでの暮らしは決して悪いものではなく、質素ではあるけれども、穏やかな場所でした。しかしもはや、その生活を続けることは叶わなくなりました」

 冷たい沈黙がそれからずっと続いた。ふしぎと僕は目前の二人が、見た目よりずっと子供であるように思えた。彼らをいま守護しているその静謐さを邪魔することは何よりもためらわれた。

「訊ねてもいいですか」長い時間をかけて彼は言うべき言葉を見つけたようだった。「とりとめのないことです」

「いいよ」と僕は答えた。

「世界でいちばんうつくしいものをご存知ですか」

「そうだな」僕が記憶を巡らせると、子供のころ、家族でノルウェーに旅行に行ったことがいちばんに思い出された。「オーロラは知っているかな」

「祖父に聞いたことがあります」彼は答えた。「祖父はアルハンゲリスクの出身でした」

「アルハンゲリスクか」僕は言った。「知り合いが一人いる。アルハンゲリスクはジャズが盛んなんだ。べつに、有名な演奏家がいるというわけでもないんだが、市民性なんだな。それに、大きな港があって北極海航路に通じていたはずだ。もし街中で見られなくても、洋上ならきっと綺麗なオーロラが見られると思う」

 僕はそこで少し目を閉じて考えた。それからまた目を開けて、青年と少女の顔をかわるがわるに見た。

「ふむ。どういうことなのか、なんとなく分かった気がする。つまり君たちはここから消えてしまいたいと思っている。どこか遠く、君たちにふさわしい場所へ行きたいと思っている」

 彼は沈黙で答えを返した。深い覚悟を閉じこめたようなまなざしに力が入ったのが見てとれた。

「そういうことなら先にはっきり断っておくけど」僕は言い聞かせるように言葉を投げた。「資金の援助はできない。申し訳ないが、僕はそれほど裕福でもなく、こちらにメリットが見出せない」

「それは……残念です」僕の言葉に、彼は素直に身を引いた。ショックを受けたようすはあまり見られなかった。「とはいえ、対話に応じて頂けただけでも感謝しなければなりませんね。なにかお礼をさせてください」

 彼はいちど妹の手を強く握り、離した。それから、わきに置いていた鞄を掴み、出口へと向かった。「夜は冷えるでしょう。あたたかい飲み物を買ってきます。すこし待っていてください」

 僕は言われたとおり数分待ってから、おもむろに立ち上がった。胡乱な少女の手を引いて僕は部屋を出た。男がもう戻っては来ないことはわかっていた。



 あの青年の言葉には嘘が多分に含まれていたが、この少女の白痴は演技ではないようだった。彼が僕を選んだのは慧眼だったと言わざるをえまい。なぜなら僕は与えられた役割に深く満足していた。この時点で、僕は自分のすべきことについてすべて承知していた。自分の部屋に戻ると、大学の同僚に連絡をとり、理由をでっちあげて、帰還が一週間ほど遅れることを伝えた。ノヴォロシースクからアルハンゲリスクまでは三〇〇〇キロ近く離れていて、空路でモスクワを経由するのが一般的だったが、今からだと切符が取れる保証はなく、電車での長旅になることを予感していた。

「トーシャ」

 僕は小さく少女の名前を呼んだ。彼女はうつろな目で僕をじっと見上げた。たやすくこわれてしまいそうな夜空をその目の奥にたたえていた。「トーシャ」もう一度そう呼んで、僕は彼がやっていたように彼女の髪を静かに撫でた。「安心して、僕に任せなさい」

 やがて少女は眠ってしまったようだった。ふと気になって調べてみると、運ばれてきたワインの銘柄はノヴォロシースクのワイナリーでも、もっとも格落ちのものだった。「やれやれ、高い買い物だ」僕はそう呟いた。

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