4
この広大な世界において、関知するのも馬鹿らしくなるほどの膨大な生がひしめいている。まるで宇宙だ。俺の目に見えるものは限られている。だから視野に入るものすべてが一等星だ。その中にあってなおまばゆい。
俺は櫻井のことを彗星のようだと思ったことを思い出していた。彗星は周遊し、邂逅もまた巡る。われわれの距離はその度に近しくなる。
「……先生、お久しぶりです」
櫻井は最初、わずかに困ったような顔をしたものの、すぐに笑みを浮かべてそう言った。挨拶こそ軽やかだったが、身につけた衣服は汚れにまみれ、頬は痩せこけて人間の荒廃した印象を抱かせた。ただしその目には爛々と光源が宿り、四肢はピリピリと帯電しているかのようで、傍目にも尋常ではない活力を漲らせている。櫻井のそんな異様な圧にやられて俺は言葉をみつけられずにいた。
だから数秒、間のびした空白の時間があった。それを訝しんだのか、再び口火を切ったのは櫻井のほうだった。
「……なにかを待っているんですか?」
その声音には警戒の色が混じっている。どうやらこの場に、他にも誰かが駆けつけるのではないかと思っているようだ。そうじゃない、と俺は答えた。ここには他に誰もこないから安心していい。しいていえば、俺が落ち着くの待ちだ。
なんですかそれ、と櫻井は苦笑したようだった。櫻井をとりまく電撃が薄れ、少しだけ空気が軟化したと感じられた。対話はそのように始まった。
「……それで先生。なぜここが?」
「……消去法、というか。違うな。いや、別に、偶然だ。ただもし俺が、文化祭で何かを起こそうとするなら……ってな。本当にいるとは思わなかった」
至極まっとうにも思えるその質問に比べて、俺の答えはやはり曖昧で頼りないものに思えた。しかし櫻井と話すにあたっては、できるだけ正直なことばを使いたかった。
「こうやってここにいるってことは……やっぱり失踪したのは自分の意志だったんだな。何をするつもりか知らないが……」
そこまで言って、俺は押し黙ってしまう。櫻井がいまここにいること、それ自体がもう俺の中で強力な答え合わせになっていて、それ以上を尋ねるのはどうしても、途方もなく無粋なことに思われてしまう。
だとすれば、もはや認めないわけにはいかない。俺は櫻井に--一人の生徒のその在りように憧れを抱いている。鈍り落ちた隕石からは決して届かない高さで、悠々と輝いている星を見上げて羨んでいる。それが今の俺だった。
少し迷ったような素振りをしてから、櫻井が口を開く。
「貴方には関係ないでしょう……と言いたいところですが……先生は僕の担任だ。きっとこの件では少なくない迷惑をかけてしまったことでしょう。だから、少しだけなら話してもいいと思ってます」
一から十まで説明するわけにはいきませんが、と前置きして櫻井は続ける。
「それにたぶん僕がここで何を言っても、先生は他言したりはしない人ですよね」
そこまで言って少し、櫻井の声色は意地悪げなものに変わる。
「少し見ていれば分かります……平先生は他の先生ほど真っ当に真面目じゃないし、正義感とかもない」
「余計なお世話だな」
俺は苦笑したが、その特性が今だけは喜ばしいものであることを自認している。少しだけ考えてから、教師として、最も重要だと思う問いかけを放つ。
「……教室に戻ってくる気はあるのか」
「ありません」
返ってきたのは短い、けれどはっきりとした拒絶だった。
「場所は明かせませんが……この後すぐ、海外に発つんです。ネットで知り合った仲間と会社を立ち上げることになっていて……誘われているんです」
だから、と櫻井は続けた。
「この際だから、戸籍も何もかも捨ててみようかなって。向こうだと必要ないんです、そんな些細なことなんて。むしろこれからしていくことを思えば邪魔ですらある。本当は人は、自由に生きるのに必要なぶんだけ自分を持っていていいんです」
「じゃあ、失踪した理由っていうのは」
「失踪というか……なんて言えばいいのかな。僕がここからいなくなることを決めたとき、この今の環境において僕は……ある意味で無敵の存在になったんです。何をしても自由なんだって。そうしたら自然と……こうしなきゃいけないなって」
わかりますか? と櫻井の目が、その黒々とした宇宙が何かを確認するように揺らめいている。その瞳は俺を値踏みしている。
櫻井はきっと、俺には分からないだろうと諦めている。なぜなら俺は高校教師で、つまり完璧な行いの代行者だからだ。それでも俺には、それが分かってしまう。俺が櫻井について何も知らなかったように、櫻井も俺を知りはしない。
「高飛びするならさっさとしてしまえばいい……そうしなかったのは今日の計画のためです。ここで身を隠していたのは、一つはもちろん今日の"準備"のため……もう一つは僕の存在を希釈させることで僕に注意を向けさせないようにするためです。きっと教室ではもう誰も僕の話なんてしていないはずだ……」
それに、と櫻井は続ける。
「先生はきっと……僕を強い人間だと思っているかもしれません。一人で何でもできて、どこでも生きていける……それを否定はしません……ただ一つだけ、誤解がある」
櫻井の声のわずかな震えが、俺にだけは聞こえている。
「先生、僕は弱い人間なんです。本当は分かってるんだ。この後に及んで学生生活なんてものに未練がある。このまま人並みの道を歩めなかった思い出だけがずっと残る。いつかその感情は僕を追い詰める。だから全部壊さないといけないんです。できるだけ盛大に。それだけが、そうすることだけが、決別の手段だから」
俺の耳元に近づいて、櫻井は短く、計画の全容を語った。
そのアイデアは、俺を。
完膚なきまでに。
ああ、それは、まるで、俺が追い求めた。
完全、な。
驚きのあまり、俺は櫻井の顔を見た。彼は上気し、為そうとしていることに自分でも興奮を隠しきれないようで、それを誤魔化すように薄く微笑んでいた。
「今日ここで見つかってしまったのは計算外でした。さっきはああ言いましたが、先生にすべて任せます。僕を見逃してもいいし、見逃さなくてもいい」
そんなことを言わないでくれ。と叫ぶことができたら。
「俺は……見逃すよ。当たり前だ。なんなら手伝えることがあれば手伝ってもいい」
「いや、それは困ります。共犯者は少ないほうがいい。お気持ちだけ受け取っておきます」
「こんな話を聞かされた時点で共犯だろ……もう」
そうかもしれないですね、と櫻井はうそぶいている。彼にそのつもりがなくとも、その周りには電撃が蘇っている。俺の目を通して極限まで増幅されている。天を、地を、焦がすほどに。
「僕を見つけたのがあなたでよかった」
そう言ったときにはもう、櫻井はこちらに背を向けている。
「もう戻った方がいい。先生まで怪しまれますから。ああそれに、安全面は心配しないでください。ちゃんと対策できているはずです」
だからそれで終わりだった。うながされるままに、俺は黙ってその場を去った。もう二度と櫻井に会うことはないのだと思った。その事実だけが、どこまでも克明に満ちている。
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