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「あー……暑っちい……」

 車を小さな駅の裏道に停めて靴を脱ぎ、ダッシュボードに足を乗せると、下半身に溜まった血流がゆるゆると巡り始める。内蔵のエアコンの出力を最大にして、狭い車内を急速に冷やした。そのままシートを最後まで倒して、出勤前に買っておいたおにぎりを寝ながらほおばる。行儀の悪さは自分でも認めるが、こんな場所で誰に見咎められることもないだろう。昼休みの間くらいは自分一人で過ごしたかった。

「屋上はいっつも誰かしら生徒がいるからなあ……ぼっち高校生の思考回路ワンパターンすぎ」

 車内の、あからさまに工業的な匂いに鼻が慣れてくると、自分自身さえも車の一部品になった気がしてくる。あまり誇らしくはない想像だったが違和感はなかった。正午の呆れ返るほど青い空が、煤けた窓ガラスの雑音を乗せて、ただ時間をゆっくりと満たしていた。

 偶然にみつけたこの場所はほどよく静かだ。淡い陽光と空気だけが、街路から街路へきまぐれに移りかわっていく。年季の入った駅舎からは単線が十分にのび、それを追えばまたどこか同じような駅舎に辿り着くのだろう。礫も鉄道柵もていねいに整備されているとはいえなかったが、そんな鷹揚さがどこか心地よかった。

 高校という場所が密すぎるのだと思った。あの空間で求められるのは完璧さだ。教師は生徒に。そして生徒は教師に。とにかく常に完璧であることを要請し続け、それがやむことはない。

 きっと俺は不良教師なのだろうと思う。学生の頃から必要最小限のことしかしてこないような人間だった。教師になったのも、大学で然るべき科目を受けさえすれば不毛な就職活動を回避できるという目論見のもとだった。だけど教師という役割が要求されるのは最小限ではとても満たされないものばかりだ。今なら分かる、俺が必要最小限だと思って選択してきたことすべてが、ほんとうは俺にとっての限界だった。それ以上の力を出そうとしても、そんなものは持ち合わせてなどいないのだということに、いつだか俺は気がついてしまった。

「だからって、なあ……」

 受容体が少なすぎると思った。

 この狭苦しい運転席を心地いいと思う自分が、適切さをもってあの輝かしい空間に接続できるはずがない。



 白夜の中を生きている。決して沈まず、俺という木を照らし続ける。それを鬱陶しいと思ってはいけないと思った。そうして高校生だった俺は、ただ歩くように生きていた。

 学校はただただ退屈で、だけど同時にその退屈さに没入することが心地よくもあった。手ざわりの希薄な日々のいちいちが、きっかり一日ぶんの速度で過ぎていくのを感じていた。

 そんな中でひとつだけ、俺を形成しているものがあった。ひとことでいえば、俺は完全犯罪をしてみたかったのだ。警察沙汰になるような悪質なやつでなくていいから、高校の誰の記憶にも残るような事件を起こして、それを自分だけのものにしたかった。あの柔らかくも強靭な薄膜に風穴を開けるような出来事をあのころ誰もが期待していて、俺はその当事者になりたかった。完全犯罪にこだわったのは、単に俺が犯人として目立ちたくなかったというのもあるけれど、真相が解明されないこと、それこそが重要だと感じていたからだ。解明されてしまえば、馬鹿やった奴がいたなあというだけで終わって、記憶の奥底に格納されてしまう。傷跡は修復されてしまう。それは本意ではなかった。未解決のままならば、誰かがそれに思いを馳せるたび、その破壊はいつまでも続いていくと思った。

 一年目と二年目は空想だけで楽しめた。俺は空想の中でいくつもの作戦を完璧にこなし、幾度となく架空の喝采を浴びた。それらはいずれ実現不可能なものばかりで、だからこそためらいなく消費することができた。

 三年目になって焦りが生まれた。小さな水滴のように生まれたそれは、止まることなく一滴一滴と脳をひたし始めた。残された猶予に反比例して時間が加速していくように感じた。にもかかわらず、体は動かなかった。いつしか水滴は瀑布になっていて、俺を流し去ろうとするその力はあまりにも巨大で、あらがうことさえできなかった。そうして結局、気づけば俺はなにも為すことなく高校を卒業していた。

 本心ではなにひとつ起こす気が無かったのだ。そう知って、だから結局、俺は何者でもないことを知った。最終的に俺が描いたのはなにひとつ傷跡のない完全なる軌跡だ。不恰好ではないが、美しいとも思えなかった。

 傷跡がないという傷跡がついている。囚われる意味も必要もないと信じていたはずだった。そんなものに結局は囚われている。それはこの身に穿たれた透明な楔だと思え。遠くなっていく感覚を呪いだと思え。

 青く青く、遠く、積み上がった空を仰ぐ。

 今週がとある流星群の活動のピークであることは耳に入っていた。あの向こうでは今も星が降り注いでいるのだと思った。青空が邪魔で仕方なかった。あの青空に傷をつけたら、夜空と星が漏れ出して、すべてを埋め尽くしてくれるような気がした。

 午後の始業までまだ三十分もある。

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