夏と星群
遠原八海
1
櫻井のことは何も知らなかった。運転中の車の天蓋越しに、街中に星が降る夜。
成績は抜群に優秀だった。なぜ優秀だったのだろう。考えてみたこともない。俺は優秀な成績の取り方なんて知らなかった。頭のいいやつは勝手にいい成績を取ってくるもんだと思っていた。能力と成績は一意に紐づいていて、それが視覚化されるだけだと思っていた。実際そんな簡単な話ではないんだ。能力が高いやつというのはどんな成績でも取れるんだ。自由度が高いから選択することができる。能力の高さとはただ単に選択可能な範囲の広さのことなんだ。
櫻井はどうして高い成績を取ることを望んだんだろうか。もっともらしい理由は山ほど思いつく。けれどその内のどれなのかはさっぱり分からない。それとも俺なんかが考えつかないような、驚くべき理由があるのだろうか。
何ひとつ分からない。成績が良かったという一面だけを取ってもこの通りだった。想像で補おうとしても、推理するだけの材料が全然足りなかった。俺は櫻井のことは何も知らないのだ、そう気付かされた。あれだけ目立っていたのに、撒き散らしていたものはよくよく考えるとあまりに幽かで、いつの間にかするりとどこかへ行ってしまった。彗星のような男だった。
「うい、おつかれ。いつも通り午後からは準備にあててくれ」
午前の終わりを知らせるチャイムが鳴り、俺は担当の授業をそう締めて教室を後にする。
櫻井が失踪して一ヶ月が経った。教室を好き勝手にかき混ぜ続けた動揺はすでにおさまりつつあった。日に日に関心が風化していく様子は高校生の生きているスピード感を如実に表していて寒気がしたのは事実だが、担任の俺としては都合がいいのだった。ホームルームでは月初めを理由に席替えを行い、それに乗じて櫻井の席を教室の隅に移動させた。教壇の視界から欠落した空白が取り除かれて、ようやく、事態は収束に向かうことを了解したようだった。
文化祭まではもう一週間を切っていて、それが人生の一大事だということを理解している高校生たちは、櫻井に構っている暇もないようだった。各々が自らの役割を果たすことに、あるいは、そう錯覚できる程度に忙しくふるまうことに一所懸命なのだった。それは正解するための行為だった。まだ僅かにしか生きていない彼ら彼女らが、だというのになぜそれが正解だと知っているのか、俺は今も昔も不思議でならない。俺が過ごしたのは確信を持てずに終わってしまった学生生活だった。きっとその感触は似ても似つかない、けれどそれこそが俺にとっては、唯一のものであることは疑いようがない。
襟口で汗を拭う。気がつけば夏が始まっていた。狭い職員室の中、二十八度でエアコンから吐き出される温風だけが、夏に立ち向かっていた。
「平先生、ちょっといいかな」
割り当てられた机の上に収まらなくなってきた教材を整理しようと格闘しているところへ、学年主任が声を掛けてくる。
「平先生は赴任してから二年目だったっけ。この時期はやること多くて忙しいでしょ」
「ですね……会議も多いし、文化祭が終わったらすぐ考査も控えてますし……午後授業が無いのだけが救いですよ」
「ハハ、あったらみんな倒れちゃうよ」
学年主任はそうやって機嫌よく笑ってから、周囲に人が少ないことを確認して声をひそめ、本題に入る。
「それでさ、櫻井君のことだけど……やっぱり見つからないかな。文化祭当日まで失踪が続けば、来賓や保護者会のお歴々になんのかんの言われるのは目に見えているし、それを考えると今から胃が痛いよ……キミもそうだろ、担任なんだから」
「ええ、それはまあ……」
「いやね、ここだけの話……彼はもう生きていないんじゃないかと思ってるよ。単なる家出なら目撃証言が一つも無いってのは不自然だし、誘拐なら要求があるはずだけどそれも無い……となると事故か殺人か、もしかしたら自殺って線も……」
「いや、流石にそれは穏やかでは……」
ゆるやかに諌めようとしたが、学年主任の持論は止まらない。櫻井のことは確かに自分も心配だった。けれど、学年主任は櫻井の安否とは別のことを心配しているように思えてならない。そしてそれはきっと、実は比べものにならないくらい重要なことなのだ。
俺はそのまま二言三言を交わし、会話の切れ目を見つけて逃げるように立ち去った。
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