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 ドンドンドンドンドン! といきなり戸が叩かれた。

 大家である。声を聞かずともわかる。大家のばばあがノックをするときは必ず五回であるし、そもそも我が家をノックする人間は大家を置いて他におらぬ。

「日下部さーーーーん! いますかぁーー!」

 ドンドンドンドンドン! 間髪入れずに遠慮のないノックが鳴り響く。玄関をぶち破る勢いである。おおかた溜まった家賃の取り立てであろう。私は心の中でいませんと答える。しかしあんまりにも強く叩くものだから、玄関へ出向いて扉が壊れたと難癖をつけ弁償させてやるのも面白かろうと思ったが、大家の財布がちょっぴり痛むだけで私には何ら得益のないことに思い当たり、やめた。布団をよりいっそう深く被りやり過ごすことにする。


 繰り返しになるが金がない。一回生の頃は潤沢だった仕送りも、その壊滅的な成績表が実家に送られると同時にパタリと止んだ。こいつは生死に関わると踏んだ私は三重の実家に弾丸帰省を決行、およそ六時間に渡るお涙頂戴の熱弁と土下座によりなんとか学費に充てるだけの額面は確保した。しかし奨学金を止められた今、貧相な仕送りだけでは生活費が賄えぬ。

 ならばバイトをするしかない。学生の本分はバイトである。しかし悲しいかな、私には労働の才能というものがとんとなかった。ひと月も続けば上出来なほうで、たいていの場合、五日も行けばもう面倒臭さが限界に達して次からは行かなくなってしまう。それでも五日分の給料は手に入り、これがだいたい福澤先生二枚分くらいなので、贅沢をしなければひと月ぶんの生活費は賄えてしまう。次の月には金が無くなるのでまた新しいバイトを見つけ、同じく五日で辞める。こういうサイクルが成り立って経済を回している。

 しかし、ここで当然の帰結に直面する。家賃の支払いに充てる金がどこにもないのである。

 家賃自体は京都大学構内まで徒歩一分という好立地のわりに月二万五千円と破格だが、四か月も積み上げれば十万円である。ここまでくると絶望感に目が回ってくるというものだが、ちなみに現在積み上がっている未納総額は三十二万五千円にものぼる。こちらとしても早く払って楽になりたいのは山々だが現実的に無い袖は振れぬ。基本的には滞納を申し入れ、運よくバイトが長続きした折などには少しずつ払い込んではいるものの、焼け石に水ではないかと巷でもっぱらの評判である。


 一度、大家の侵入を許したことがある。あれは三回生の夏であった。ミンミンゼミが甲斐甲斐しく鳴いていた。京都は冬は寒いが夏は暑い。秋は銀杏臭いが気候的には過ごしやすい。春に関しては文句の付けどころがない。しかし京都の四季というものは驚くべきケチ臭さを持っており、実感として一年を分けるとするなら夏冬がそれぞれ五カ月、それに対し春秋はわずか一カ月の期間しかない。一年のほとんどは暑いか寒いかである。盆地に都など作るからこうなる。

 とにかく、私が三年目の猛暑を氷枕一つで乗り切ろうと躍起になっていた頃である。少しでも外気を取り込もうと戸を開け放っていた私は、愚かにも大家のばばあの侵入を許してしまった。大家は皺の寄った爬虫類のような顔のばばあである。動きについても爬虫類のそれで、蜥蜴のようにぬるりぬるりと移動し杳として気配を悟らせない。

 私が突如として部屋に出現した大家に気付くのと、大家が戸棚の上に恭しく置かれた五人の福澤先生に気付くのはほぼ同時であった。

 それは私が、これこそが生涯の大事であると計画していた童貞卒業を果たすための資金であり、および童貞卒業を祝す一人焼肉大宴会を催すための資金であった。三カ月に渡り血汗の滲む積み立てを成し遂げ、やっと掴んだ虎の子であり、家賃に附すなど言語道断であったが、大家のばばあにはそんなことはまるで関係がない。静止する間も与えず、ごく自然な動作でその虎の子をかすめ取った。私はほとんど半狂乱になり、やめろこの人でなしの強盗犯とぎゃあぎゃあ喚くが大家はどこ吹く風、懐に金を納め颯爽と去っていき、残された私は乱暴された乙女のごとくしくしくと滂沱の涙を流すほかないのであった。


 そんなこともあり、私は大家を激烈に嫌っていた。玄関の外には『大家お断り』の張り紙が威風堂々掲げられている。向こうからしても頑として家賃を払わぬ貧乏学生への好感度は同じようなものだろう。このままいけば強制退去として追い出される日はそう遠くないと踏んでいるが、その来たるべきⅩデーまでは一歩も譲らず戦い抜く所存である。

 阿呆な決意を固めているうちに、気付けばノックの嵐も止んでいた。どうやら諦めて帰ったらしい。安堵ののち、カレンダーの今日の日付に勝利の花丸を書き込んでおくとする。

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