鍋と世はこともなし
遠原八海
1
京都の冬は寒いぞ、というのはさて誰だったか、課程長だかセンター長だかの言だったはずだが、もはや記憶の彼方へと過ぎ去ったぴかぴかの一回生の時分の中で、秋学期の始まりに聞いたその言葉だけはよく覚えている。
京都の冬は化けもんだ、殺す気でかかってくるから死ぬ気で迎え撃て――などとあまりにも大袈裟な弁舌を振り回すので、まさか新潟や北海道でもあるまいしと当時の私は聞く耳をはなから放棄し、まったく余計なお世話だとその親切な忠告をバサリと切り捨て、何の対策も立てず、三年後の今もこうして下宿の布団にくるまれて震えながら四限終了時刻を迎えているのである。
悪評高き京都の冬である。
我が家には炬燵も暖房の類も無く、薄いボロきれのようなカーテンは窓からの冷気を手厚く歓迎し、立てつけの悪い玄関などからは隙間風が吹き荒れる始末の中で、布団だけが私を暖かく包み込み癒してくれている現状、私が今生きていられるのも親友たるこの布団君のおかげだと言ってもいささかの過言も無かろう。お友達料の十数単位など安いものである。
布団の中で足裏を擦らせて暖をとる。確かに単位は大事だが、命と引き換えにするほどのものでもあるまい。そもそも大学までが遠すぎる。百万遍の下宿から松ヶ崎まで自転車を漕ぐのに片道二〇分かかったのでは辿りつく前に凍死してしまう。
いっぽう大学の近くに引っ越そうにも金が無い。ブックオフのバイトは先月首になったところである。なぜこんな場所に居を構えたのか。私は数年前の自分の愚かで薄っぺらい自尊心を呪わぬ日はない。
十八の春、私は長年の念願だった京都大学の入学試験にこてんぱんにやられ、その門戸を叩くことなく尻を巻いて逃げ出し、敗走の果てに泣く泣く左京の北にある京都むにゃむにゃ云々大学なる理系単科大学の一員となった。天下に名を轟かす国立大ではあるものの、天下たる京都の外での知名度は悲しいかな地を這いまわる虫に等しい。
周りの連中は互いに合格を喜んでいる風であった。しかし、中学の頃から地頭もよろしくないくせに京大に入ると心に決めこみ、青春の高校生活を見事灰色に染め上げた私にとっては、この結果はついぞ納得できるものではないが、しかし浪人というのもみっともない。私がその時点で選ぶべき道はもはや一つしかなかった。京都ホニャホニャ云々大学に通いながら次年度での京都大学合格を見据えての受験勉強、いわゆる仮面浪人である。
これが功を奏し、新入生としての輝かしい一年を景気よく棒に振り、実験や必修といった大事な授業をサボりにサボり、さあどうだと再度挑んだ京大入試には見事連敗を喫した。後に残ったのは雀の涙程度の取得単位と濡れた枕、あとは成績不振による奨学金の停止通告くらいのもんである。
私のメンタルはそこらへんほとんど豆腐のようなものなので、流石に二度続けて落ちた大学が私を必要としていないことくらいはほんのりと察するし、さあもう一年いってみようなどとポジティブに笑うほど豪気ではない。男子十九にして挫折を知る。かくしていち京都チンプンカンプン大学の学徒として身を固める決心を決めたのである。
ところで問題になってくるのが我が住処である。仮面浪人を決めた時分の私は一種の興奮状態であった。アドレナリンをどばどばとだらしなく垂れ流し、もう既に京大生になったかのような気分になって、どうせ来年からは京大に通うのだからと京都大学学舎の目と鼻の先、華の百万遍から今出川通を東に数十メートルの安下宿に部屋を借りた。京大生でもないのに恥知らずもいいとこである。春の陽気にやられた脳足りんの所業と言う他ない。
季節は移ろい、その春の麗らかさでとろけた脳味噌も寒波の吹き荒ぶ時節になれば少しは引き締まるというもので、少しは大学生活の現実が見えてくる。ここを毎朝の散歩コースにしようと見定めた哲学の道にも三度と足を運んでいない。
朝起きて時計を見ると一限が始まっている。こいつはまずいと二度寝する。再び起きると二限も終わりかけている。その頃にはお腹が空いてくるので、渋々と寝床を脱出し自転車を二〇分漕いで大学に向かいカツ丼を食らう(付設食堂のカツ丼は量よし味よし値段よしの絶品である)。三限四限を寝ながら受け、五限の教室に向かう頃にはもう帰りたいという気持ちで胸がいっぱいになり、とても授業を受けられる状態ではない。
これが大学生活の持つごくありふれたリズムである。幼少の頃夢見ていたキャンパスライフとはいささか違うがこれが現実だからしようがない。郷に入れば郷に従わざるを得ないのである。誓って言えるのは、私は日々を一生懸命生きているのであって、非難される謂れなどないということだ。
かといって誇るべき点も特に見つからない。
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