第50話 手繰り寄せる糸
「行く手を遮る者は問答無用で排除する!」
宗像一心は巻き上がった砂埃がひいた瞬間にそう宣言した。
銀色の髪をなびかせている彼の容姿はそれだけで『朔』という存在を主張する。
空気が凍り付いた。でも、それはある一部の人間にのみ起こった衝撃だったとを僕は瞬時に察知した。
心の中でさっと線引きがなされた感覚がして、僕はほんの少しだけ僕自身が残酷な判断をすることができる部分があると悟った。
朔という存在は僕らの敵からしたら邪魔者であり、もっとも呼び寄せたくなかった存在そのもののはずだ。
一心は『俺の存在だけでも十分試金石となるだろう』とそう言っていた意味がわかった。
封じたはずの朔と僕がここへ戻ってくることは緊急事態。
予定されていた舞台に招かざる客が来てしまったようなもので、しかも、その招かざる客はすべてのシナリオを一瞬でひっくり返してしまうほどの異物。
一心の姿を見る彼らの顔、いや、目の動きを僕はじっとみていた。
「行く手を遮らなければそれが何であれ攻撃対象にはしない!」
僕より数歩前に居た静音がその後に続けて口を開いた。
この二人、どうみても息がぴったりというか、生き物として同じというかと僕はため息を漏らした。
『敵味方の概念を一度とっぱらうぞ』
一心は突入前に僕たちにそう告げていた。
敵に見えても敵ではない場合があるように、味方に見えても味方ではない場合もあるからだ。
ただ結果だけを見る。
言葉や行動、立ち位置など何もかもを排除して、結果だけを冷静に見極めるのだ。
『悪鬼であろうと、冥府であろうと、春夏秋冬であろうと、向かってこない者は攻撃しない。 つまり、敵であろうと目的のために共闘できる者は排除しない。 逆に、味方であろうと目的が一致しない者は排除するということだ。 これは例外なく宗像であろうと容赦しないということだぞ?』
もっともらしい言葉を並べ、笑顔でさとし、お前が心配だと口にしてくれる。
だが、行く手を阻むのなら、結果、その人間は敵だ。
命を奪うぞ、殺してやると口にして、明らかに敵側に属し、攻撃をしてきたとする。だが、行く手を阻むことをしないのなら、その人間は味方と判断する。
「許しなく、我らに近づく者は誰であれ斬る!」
一心が寒々とするほどの威圧感たっぷりの声をだした。
悪の親玉の演技のつもりなのか、素なのか判断に困るがわかりやすいまでに空気を凍り付かせることに成功していた。
ここからは、親兄弟、親類縁者、春夏秋冬、冥府という枠組みを外し、共闘できるのが誰であり、攻撃・排除するべき対象が誰であるかをあぶりだすまで姿勢を崩してはいけない。
「例外はない。 先の宣言の内容を無視した者を攻撃対象と認識する」
一心と静音の間を通り抜けて前に出た僕がゆっくりと言葉を発した。
珠樹と雅の顔色が一気に失われた。何を言っているのかわからないというような困惑がぴたりとはりついた表情だ。彼らの激しい動揺が手に取るようにわかった。
理由をたずねようと、かけよろうとした珠樹と雅の身体が一瞬で吹き飛ばされた。
二人を数メートル後方へ吹き飛ばしたのは、静音だ。
本当に問答無用でやりとげるつもりなのだ。
内心、もう少し、手加減してくれよと思ったが、僕も悪の親玉2号なのでぐっと飲み込んだ。
僕はもう良いと片手をあげて、静音を制した。
「言っただろう? 許しなく、近づくなって」
壊した岩盤の隙間から流れ込んでくる寒風が僕たちの髪と羽織を吹き上げ、絶妙のタイミングで揺らした。
僕たちが身に纏っている装束はここにいる誰もが目にしたことのないものであり、独特の威圧感を与えるには十分すぎる演出だ。おそらく父はこれを計算して、僕らにも身に着けさせたのだろう。
わざとらしいまでに諸刃の日本刀をかちゃりと雅と珠樹にむけてみせる一心の横では静音がどう考えても体に見合っていないサイズの単槍を肩にかけて睨みつけている。
なだれ込んできている悪鬼の群れには目もくれない二人に僕は少しだけはらはらしていたが、宗像壱貴が奏太と共にそれを薙ぎ払っている姿を確認し、手出しすることをやめた。
反対方向に目をやると、コルリと伊織が何者かとつばぜり合いを繰り返している姿が目に入った。
「あれが、モズか……」
一心がコルリと伊織が向き合っている対象をちらりとみてつぶやいた。
僕も静音もはじめてみる敵の姿だった。
「モズは見向きもしない。 なるほどね」
父の言葉に僕らははっとした。
ここへ突入する直前に一心から言われていたことがあった。
『まっさらな眼でみろ。 姿形にこだわらず、行動だけで判断しろ』
僕らのやろうとしていることには見向きもしないというモズの行動からは攻撃対象除外という判断ができる。
冷静に状況をみると、モズには殺気がない。モズは伊織やコルリを殺す気がないのだとわかり、手に汗を握った。嫌な予感しかしない。僕はこれまでの自分が迷いなく信じて来たものを一気に崩されてしまうかもしれないと不安を覚えた。
「こっからだぞ、誰が動く?」
一心の言葉に静音がゆっくりとうなずき、槍を握る手に力を込めているのがわかった。
「なんてったって、俺がここにいることにひとつも驚かんかった奴ばっかりだから、嘘つきだらけの面白いショータイムになるぞ?」
この状況下で一心は喉を鳴らした。
嘘つきだらけとはどういう意味だと僕が父の方をみると、彼は舌を出した。
「騙しあいも突き抜けた方が勝ち。 甘い方が泣くだけだ」
嘘をつきあって、騙しあって、欺きあって。その先に何を求めると言うのだろう。
「泣いて済むなら僕はそれでも良いよ」
僕の素直な気持ちだった。
僕の言葉に父と幼馴染は小さくため息を漏らしてから、同時にこう言った。
『甘い』
勝ったとしても、心が泣いてしまうような結末なら、何と言われようと僕は嫌だ。
敵が居て、僕をどうにかしようというならばその理由を知りたい。
僕を殺したい人、封じたい人、そんな人たちにもきいてみたい。
優しい言葉なんかなくたって良いから、直球で理由を教えて欲しい。
「貴一、完膚なきまでに勝つことがここでは重要だ」
僕は父の言葉にえっと視線をあげる。
「もう気が付いてしまっているはずだ、お前の本能は何もかもを悟っている。 信念を貫きたいなら、四の五の言わずに勝つことだ」
一心の言葉は僕の心を深くえぐった。
ここへ戻った瞬間から気が付いていなかったとは言わない。
だけれど、僕は頼むと祈る気持ちでいた。だが、その祈りは無残にも砕かれた。
やめてくれと思っているのに、悪鬼を背にして奏太と壱貴がゆっくりとこちらに身体を向き変えた。
終わったと僕は目を伏せた。
悪鬼は彼らを攻撃しない。それが意味することは明快だ。
「この状況、理解しているか?」
一心の言葉に僕はうなずく。
「討ち取れ……」
僕はあっさりと一心と静音に命令をくだしていた。
敵だとわかったというより、違和感しかなかっただけだ。
仲間であるのなら朔の登場は歓喜に沸くはずなのに、彼らはわずかな反応もしなかった。それどころか、どうして今なんだと言うように気配が凍り付いたのも見逃せなかった。
捕らえておくかという一心の問いに僕は首を横に振った。
「お前はあいつらに何だかんだと聞きたいのかと思ったが……まぁ良い」
一心はにやりと笑んで、僕に向けて念を押すように指を刺した。
動くなという意味だ。
わかっているよ、僕は何もしないのが仕事だ。
一心と静音が僕のそばから離れていくのを静かに目で追った。
「俺達とやりあうつもりか!?」
壱貴が目を丸くしてこちらを見ている。
そう、あなた方を僕は敵として判断したんだ。
「一心、刀をひけ!」
奏太が怒鳴りつけるように声を張り上げているが、一心は歩みを止めない。
「なに、びびってんの!? 望くん」
一心が日本刀の切っ先を向けたまま彼らに近づいていく後ろ姿が哀しい。
だが、ここで僕は予想外の展開を目にすることになった。
コルリが動いたのだ。
「こちらは僕が引き受ける!」
突如としてコルリが動き、その刃が貫いたのは壱貴の下腹部だった。
壱貴の腕が、コルリの首をとらえる。コルリはそれすら予測していたように、逆の手で炎を繰り出し、壱貴の腕ごと吹っ飛ばして見せた。
さすがの一心もこれには驚いて、静音の襟首をつかんで退避した。
「あなた方は本物のそばを離れてはいけない!」
コルリがそう叫んだ。
僕にとっては耳を疑う言葉だった。
コルリは僕にとってグレーの判定だったからだ。彼は壱貴の腹心のはず。それなのにどうしてと言葉が思わずこぼれ落ちた。
見たものが全て、理由を考えるな。
まったなしで状況は動く。だから、丸腰の僕を見逃すはずはない。
「来たか」
僕の後方に何者かがすばやく動いた。
これで良いんだ。
ゆっくりと僕が振り返る。その先にいる人物を僕はもう何となく理解していた。
突き出される刃の切っ先がスローモーションのようにゆっくりと見える。
今の僕に武器はない。何もするなと父から言われているから、本当に丸腰だ。
『窮地に陥っても絶対に何もするな』
だったら、助けろよなと思いながらも、僕は父の言葉を死守する。
僕の盾になるのは誰だ。本当にそんな奴がいるのかと、拳を握りしめた。
僕に何一つ気配を悟らせず、殺気を感じさせることもなく、すぐそばに近づいていたまた別の何者かが僕の肩を思い切り突き飛ばした。そのおかげで、繰り出されてくる切っ先は僕には届かなかった。
突き飛ばされた僕は尻もちをついたまま、視線をあげると、そこには知らない誰かの背中がある。
一心や静音が戻るより早く、僕のために壁になってくれた人物がいた。
ポトリ、ポトリと赤い雫が落ちていく。
僕の代わりに肩を深くえぐられていた。それでも、絶対に僕の前からのこうとせず、追撃を刃で受け止めている。
「退がって、貴一……」
僕をかばうように立っているのは『モズ』だ。
どうしてと混乱する頭。
僕に攻撃をしかけてきたのは奏太で、盾になっているのがモズ。
一心と静音がこの成り行きを見て、ゆっくりと戻ってきた。
「余裕だな。 私が貴一を殺すかもしれないと思わないのかい?」
一心はモズの横にたつと、声をあげて笑った。
「天地がひっくり返ってもお前が貴一を傷つけることはない。 ご苦労。 こっからはかわるわ。 奏太には色々と聞きたいことがあるからな」
モズの肩を後方へ引き、奏太の足元を狙うようにして、一心が攻撃にでる。
一心の強さは桁違いであることを僕は知っている。奏太では一心の相手にはならないはずだった。それが互角に見える。僕の知っている奏太の動きじゃない。
「巽、湊! 春の雪を抑えろ!」
モズが大声で鵜戸の二人に指示をだすと、彼らが躊躇なくその指示に従っている。
「何がどうなっている……」
モズとつばぜり合いをしてみせていたはずの伊織がモズとアイコンタクトをしたかと思うと、すばやく悠貴の背後へ戻り、結界を張りなおしている。
僕が事態を把握するより早く物事が動いている。
僕以上に大混乱しているであろう雅と珠樹の方へ視線を動かすと、やはり呆然と立ち尽くしている。
コルリ、巽、湊が春の雪と交戦し、奏太と一心が目の前でぶつかり合っている。
まっさらな眼でみるんだと僕は唇をかんだ。
『理由など問うな。 結果だけを見ろ』
一心の言葉を反芻する。
でも、モズにだけは聞いてみたかったことがある。
どうして津島を狙うのか。
どうして椿を殺したのか。
どうして鵜戸の連中を動かせるのか。
僕はモズの背中に声をかけた。
「あなたは誰なんだ?」
ゆっくりと振り返るモズ。
ほっそりとした体躯の大人の女性。ボブの髪は黒褐色、吊り上がり気味の目尻には白銀のきらきらした何かが塗られており、瞳の色はぞっとするような赤銅色。僕はこの女性を知らない。だけれど、肌で感じる空気は知っている人間のもの。
「あなたは憑依師なのか。 もう術を解いてくれるよね?」
モズがふっと笑ったその瞬間、姿がふわふわと揺れ始める。
憑依師のトップランクであればできることがある。それは別人の器を纏う技だ。
本体をねかせることも、魂魄を飛ばすこともしないで、ただ、別の器を服を着替えるように纏うのだ。
憑依師のトップランクなんてそうそういない。強い強いと言われている親世代にすら存在しない憑依師のトップランク。僕が知り得る限り一人しかいない。
「何でだ……」
ローズゴールドの長い髪がぱさりと肩に落ち、瞳の色が琥珀色へとかわる。
僕は思わず目を閉じた。
静音だ、モズは未来の静音だったのだ。
あなたは誰だと問うた瞬間に、本当はもうわかっていた。
そうでなければ良いのにとどこかで祈っていた。
モズが静音という現実から今すぐに目を逸らしたかった。
「嘘だと言ってくれ……」
モズが静音であったというのなら、未来の静音が津島を狙ったということになる。
津島雅を狙い、津島椿を葬ったのは静音。
神様と言葉がこぼれ落ちた。
鼓動が早鐘をうつ。
「嘘だ……」
もう一つわかったことがある。
静音が津島を敵視した理由は一つしかない。それは未来の僕を傷つけたのは津島という可能性があったということだ。
「どうして……」
身体が震えだす。涙が頬を伝い落ちていく。
静音の手を汚させたのは僕だ。
僕は立ち上がることができないまま、自分自身の両手をみつめる。
血などついているはずもないのに、真っ赤に見える。
「今は理由を問わない。 その約束だったでしょう?」
ひょいと僕のそばにしゃがみこんでくる静音の顔を見た。
モズと同じロースゴールドの長い髪、琥珀の瞳をしている。
僕はおずおずとその頬に手を伸ばした。
静音のあたたかな体温を指先に感じることができる。
「今すぐ、やめろ……。 何があってもやめてくれ……」
静音がわかったよ、言い聞かせてみると困ったように笑った。
僕はモズの方へ視線をうつすと彼女もまた困ったように笑っている。
「もう少しだけ我慢してくれると助かる」
すっと僕の前に膝を折って、ゆっくりと僕の右眼あたりに指を這わせて、綺麗に笑った。彼女の指先は冷たい。そして、少し震えている。
僕の名前を何度も何度も彼女は口にして、涙を一筋だけ流した。
「今度こそ、絶対に救ってみせるから……」
僕の右の瞼にゆっくりとモズが口づけた。
ぴりっと静電気が走ったような感覚の後、僕の右眼がうつしだす世界が赤く染まった。あたたかな赤い何かが流れこんでくる。
「我慢して」
モズが赤い流れをぬぐおうとした僕の腕を抑え込んだ。静音もすぐそばに居るのに、止めようとしない。
「これ……なんだ?」
胃が急にしめつけらるような痛みがして、すぐに嘔気に襲われた。
急激な嘔気にさからうことができず、僕は嘔吐した。吐しゃ物の色は黒一色。その色を見て、僕が絶句していると、モズが僕の背をさすってくれた。
まだ襲い来る嘔気に逆らうなというように僕に何度も何度も黒色の何かを吐き出させる。最後の最後に、吐き出したのが真っ赤な鮮血だったことを確認したモズがよしっとうなずいた。
「僕は……何を?」
常闇の血を排除したんだよとモズが答えてくれた。
モズが袖口で僕の右眼をぬぐってくれる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、あまりに視界がクリアで唖然とした。
「よく見えるだろう? もう二度と油断するんじゃないよ。 この右眼が護られていたのなら、全ては大きく変わるんだから」
モズに思い切り抱きしめられ、僕は呆然としてしまう。
ようやく解放されたと思ったら、モズは静音にアイコンタクトして、ゆっくりと雅の方へと足を向ける。
まさか、雅を殺すつもりなのかと僕が立ち上がろうとした瞬間、静音が僕の腕をひいた。
「私が雅を殺すと思う?」
その言葉に僕は静音の顔をみた。
「雅が敵にまわると思う?」
いいやと僕は首を振った。
爆音が洞窟内に響き渡り、地割れの隙間から悪鬼があふれ出してくる。
その悪鬼を薙ぎ払うことができるのは、雅と珠樹だけだ。
雅と珠樹がそれを察して、槍を振り回している。
その雅の表情に緊張が走る。
モズが近づいてくるのだから当然だろう。
「津島雅、記憶を整理しろ」
モズが雅に声をかけた。
雅がゆっくりとモズの方へ向き直った。
「お前に妹などいない」
えっと声をあげた雅の動きが止まる。
「根の泉から召喚できる異能は遺伝ではなかったはずだ。 誰から譲り受けた?」
雅の表情が凍り付いた。
「お前の父の顔をして近づいたのは誰だ?」
雅がその場に膝を折って、ぺたりと座り込んだ。
雅に立てと声をかけながら、ひっぱりあげようとしている珠樹に悪鬼の刃が届きそうになる。その寸手のところで、正気に戻った雅が珠樹の身体を引き寄せて、自分の槍でその鉤づめを受けた。悪鬼を蹴り飛ばして、姿勢を整え、首を一瞬で斬り飛ばした雅の眼に光がない。珠樹がその肩をつかんで、振り向かせると、雅は悲し気に笑っていた。
「津島は……常闇の支配を受けた?」
そうだとモズが静かに答えた。
乾いた笑い声をあげた雅は苛立ったように髪をかきむしった。
「いつからだ!? 俺は……どうして気が付けなかった!?」
気が付くも何も相手が巧妙なのだから仕方がないことだとモズは雅に告げた。
「だから、私がお前の呪縛を裂き、間髪入れずに貴一に支配の糸を渡した」
敵に悟られることなく、雅の身体に解除の楔を打ち込んでいくには春夏秋冬に潜り込むのが最善だったとモズは言った。
「お前が死の淵に立てば、貴一がとる方法は一つしかないからね」
確かに、雅を救うために僕ができた方法は一つしかなかった。
支配の糸とはそういうことか。
「雅に支配の糸をかけるのなら、悠貴と珠樹も自動的にそうなる。 朔の復活が遅れた時の保険だったけどいらなかったな」
保険とはどういう意味だと僕が問おうとしたが、モズが雅に何かを耳打ちしてすばやく身をひるがえし、瞬間移動した。
まるでこの場で起こることが分かっていたように、モズは一心と奏太の間に割って入り、奏太が繰り出した血で描かれた八卦陣の外へ一心を蹴りだした。
間髪入れずに、八卦陣の一端に自らの血を落とし、一部を破壊した。
舌打ちをした奏太は腕に封呪を纏わせ、一気に拳を突き出した。
一心が危ない、どけと声を上げたが、モズがそれをきつくにらんだ。
「この役割は私で良い!」
鈍い音が響き、奏太の拳がモズの腹部に深くねじ込まれた。
皮膚も筋肉も裂いて内臓をも傷つけてくる奏太の腕を抑え込んでいるモズは大声で怒鳴りつけた。
「ここが正真正銘の分岐点だ!」
咳き込みと同時に多量の血を吐いたまま、モズが奏太の腕をしっかりとつかんでいる。
「まだここでは……ダメだ!」
モズが念を押すように怒鳴りつけた。
頼む、退がってくれという願いの声にも聞こえた。
「毒蜘蛛の糸にからめとられるのはあなたであってはならない!」
何かを悟った一心の顔色がかわり、わずかに動きを止めた。
モズはうなるような声を上げ、渾身の力で奏太を吹き飛ばした。
奏太の腕に貫かれていた腹部から、音をたてて血液が零れ落ちている。
「構うものか……。 未来などいくらでも変えられる」
モズはくすりと笑った。
何度でも壁になってやると彼女は微笑みながら、その場に倒れた。
身体を横たえながら、じわじわと広がっていく血液を使い、彼女は指先で何かを描いている。
その指先は桜の花を描いていた。
これほどまでに真っ赤な桜があるだろうか。
「貴一、桜を……誇れ!」
かすれきった声が僕の耳に届いた。
右眼がうずきはじめる。呼吸が早くなり、鼓動も加速してくる。
「吾、桜の主たる月に血を捧げん……。 月の刃は風にのり、花を纏わせ、雅な炎となるだろう」
モズはゆっくりと血で描いた桜の花に腕をつっこみ、何かを引きずり出して笑った。
彼女の手には檜扇がある。板一つ一つに丁寧に描かれているのは絵が重なり合うと月にてらしだされた一面の桜吹雪になる。親骨にあたる部分は血珊瑚で装飾されており、房には深紅の組紐が結ばれている。
「貴一、手に取って……これがお前を護るから」
モズの元へ僕は思わず駆け寄っていた。
傷だらけの彼女の手から、僕はその扇を受け取った。
「盈月扇……という」
檜ではなく、樹齢1000年の枝垂れ桜でできているとモズは笑った。
「お前のための扇だ。 他の人間には触れることも叶わない……」
モズは僕の顔を見上げるとゆっくりと目を閉じていく。
「お前の代わりなど……いるものか……」
あぁ、死んでしまうと僕が彼女に手を伸ばした瞬間、僕の身体は父によって拘束された。あっという間に距離を離され、モズの姿が小さくなっていく。
『貴一、奪われるな……お前の人生を誰にも譲り渡してはいけない』
モズの声が聞こえた気がした。
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