第48話 朔という光

「貴一!」


 濡れた前髪にゆるやかに氷がまとわりつき、指の感覚が失われていた。

 目の前で起きていることに必死すぎて、自分の身体がどんな状況に置かれているかなんか気にしていなさ過ぎた。

 芯から身体が冷え切っていて、慌てて駆け付けようとした足が簡単にもつれ、前のめりに綺麗に転んだ。両腕をついたつもりだったが、実際にこらえようとしていたのは右腕だけだったのだ。

 急ぎ上体を起こし、片膝をついたところで、異変に気付いた。

 だらりと垂れたままの腕をつたいおちていくあたたかな雫に目をやる。

 未来から来たというあのもう一人の貴一の刃を受けた左肩の傷は思うより深かった。傷は肩から上腕へと続いており、傷口から拍動にあわせて血液が流れ出している。骨を砕かれたのか、動けと命じてもピクリとも動かない。


「くそったれ!」


 髪を結い上げていた組紐を手早く解き、その端を口でくわえた。自分が下手に血を失うのは得策ではない。後に貴一に使える血液を一滴たりとも無駄にするわけにはいかない。

 痛み何てどうだって良いんだと組紐の端をさらにきつくかみしめて、一気に傷口をきつく縛り上げた。激痛に脂汗が浮かんだが、そんなことで私は屈さないぞと声を殺した。

 貴一は彼の父の腕の中にいる。でも、父であったとしても、彼が貴一の半身であるわけではない。半身でない者に命を託すわけにはいかない。


「静音、お前はガキのくせに……いっちょ前に、主を護るためなら、何でもしますって目してやがるな」

 

 貴一とどこか似ているが彼よりも数段怜悧な美貌をもっている銀色の髪の男の目がすっと細められた。

 朔は美丈夫だと父から話しをきいていたが、さすがにここまでとは思っていなかった。思わず見とれてしまう寸前で踏みとどまることができたのは、その腕の中に世界で一番大切な者がいたからだ。

 ゆっくりと抱き上げられた貴一はぐったりとしている。その唇には血液がはりついたままだ。蒼白い肌と力のない四肢。肩で息をしており、時折、苦しそうな声がもれている。美しい琥珀の双眼は瞼の下に隠されてしまっている。

 もう誰が敵で誰が味方足りえるのかがわからない。

 朔であろうと、何であろうと、確実な味方であると言い切れる自分自身を除く誰かに委ねることは落ち着かない。

 大混乱の中、一つだけわかっているのは、私の一番大切な者が苦しんでいるということだけだ。

 怖いもの知らずの攻撃一辺倒の本能が朔を目の前にしても退くなと背中を押してくる。

「何をしましたか?」

 私の質問に、貴一の父である一心が驚いたように目を見開いた。

「おいおい、まるで俺が何かしたみたいに言うなよ」

 一心は心外だぞとぼやくと、彼は滝の方へと私の視線を促した。

 敵意むき出しの私に無防備なほど簡単に背を預けて歩き出した朔の雰囲気は私の中の敵か味方かという概念を瞬時に粉砕した。

 とても不思議な感覚だった。味方でしかありえないのだと徐々に魂の奥が安堵してきているのだ。

「誰も疑うなとは言わん。 だがな、いきすぎた防衛本能は大切な者を簡単に蝕むってこと、自覚しておけよ」

 空気が澄んで感じる。足音が脳裏で鈴の音のように響いて、心地よい。

「存外、敵は思うほどおらんもんや」

 ふわりとあたたかい春の風が頬をかすめた気がして、その横顔に目をやった。

 貴一と同じ色の瞳なのに、一心の瞳はほんの少しだけ色が濃いだけでなく、研ぎ澄まされたような透明感が増している。

「本物の敵ってのはな、魂の核を貶めてくる奴を言う。 それ以外は敵とは言えん」

 魂の核を貶めるという言葉の意図がつかめない私と一心の視線が重なった。

「考え方はそれぞれだし、護り方もまたしかりだ。 悪役をかってでも封じることで護りたかった奴、その存在を隠すことで護りたかった奴、敵となることで敵勢力を把握して最後の一線を越えさせないよう盾となる奴、目を傷つけて奪ったとみせかけて護った奴、追い詰めて過去にとばせることで俺に護らせた奴、どうだ? 本当に敵といえるか? 結論、貴一は死んだか?」

「際どすぎる! 薄皮一枚で首が繋がるような護り方は嫌だ」

「好き嫌いで勝ち負けはつかん。 ええか? 異能を故意に悪魔として祀り上げたとしたら世界が異能を壊しうる状況になるだろう。 だけどな、異能であることが世界を壊すことなどない。 これさえはっきりさせておけば良いんやと俺は思ってる。 ようは、こいつとお前自身を信じてやれってことな」

 宗像の子供に悪魔などいるわけがないと一心はつぶやき、滝の方へとさらに歩みをすすめていく。歩く振動で、一心の美しい銀の長い髪が貴一の頬に優しくふれていた。

 貴一は決して銀色の髪にはならない。未来の貴一は身長が恐ろしいほどに伸びていて、今、目の前にいる彼の父親とそうたいした差はなかったが、髪は漆黒の闇を思わせるような黒色だった。

「傷つけられて……貴一だって平気でいられるはずがない。 どんなに綺麗ごとを言われても! 本当はあなたの言葉には理があるのならそれを信じたい。 でも、平気ではいられない……」

 気が付くと、自分の唇をきつくかみしめていた。

 思い返してみても、まだ体の芯から冷えるような思いがして身震いしてしまう。

 敵として現れ、顔を突き合わせた瞬間に彼が『貴一』だとわかり、私は正直パニック状態に陥った。

 そばで見ていても未来の貴一は数段上の能力をもっているだけでなく、その心身は病んでいた。それも強烈な他者からの怨嗟を身に纏い、彼の魂が悲鳴を上げていた。

 額から瞼、眼窩までつづく刀傷は殊の外深く、皮膚の裂け目は赤黒いままで完治しているとはいえない傷だった。右目を狙って振り下ろされた刃の跡を想うと私の中の血が逆流し始めるのを感じ、思わず、未来の貴一を抱きしめたい衝動に駆られたが、今そばに居る貴一が首を締め上げられている姿を見て正気に戻った。

 あの瞬間、私の本能はどちらを護ればよいのか判断がつかなくなっていた。そのせいで、不覚にも救出の手が遅れた。それどころか、不意を突かれた衝撃波に対し受け身をとることもできず、深手を負った左肩をかばうこともできず岩盤にたたきつけられて、この様だ。


「静音、凹んでいるところ申し訳ないんやが、俺の身体をここへ運んできたのはお前か?」


 一心からの問いにわずかばかり躊躇したが、この人は父の同士であるのだし、嘘はいけないと思い、私は思い切った。


「鵜戸の人達です」


 どう反応するのだろうかと伺っていると、彼はすんなりとそれを聞き入れた。

 やはり父は白川の秘密を彼にもらしていたかと思い至った。別にそれに対して私はどうこうと思わなかった。あの父の事だ。スペアシステムなどどうだって良い程度の発想だったのだろうしなと思い、ふうっと息を吐いた。

「鵜戸ねぇ……。 あいつらまで引きずり出したってことはもう本当にどっからどこまで茶番だったのかわからんなぁ」

 一心がゆっくりと眉をひそめ、軽く舌打ちした。

「ちなみに一応きいておく。 今は女王からの正式な許可がおりる前だから、お前にはまだ選択権がある。 お前は鵜戸につくもよしだけど、どうする?」

 愚問だと私はふいっと顔をそむけた。貴一以外の主を選択するという未来は私にはない。私のこの様子をみた一心が小ばかにしたように鼻で笑って、そりゃそうだろうなとつぶやきながらちらりと目をやってきた。


「ついでにもうひとつ聞いておく。 こいつが他を選んだとしてもお前は耐えられるか?」


 一心の質問は意地悪だ。

 耐えられるはずなんかない。私は幼稚だからきっと耐えられない。

 でも、このポジションには誰もなりえないのだから、それだけを心のよりどころにしてそばに居ると思う。

「わかりやすく顔にでるって、お前さんは幼いねぇ。 まぁ、未だに俺も同じだから他人のことをどうこうは言えんがな」

 一心はけけけと笑うと、続けて言った。

「誰もなりかわることができず、そばに居る必要があるって宿命はでっかいアドバンテージや。 恋は破れ、愛は廃れるかもしれんが、半身は切り離せん。 何せ恋人や夫婦よりも濃いから質が悪いとも言える。 だからこそ、やっちゃならんことがあるわけ。 わかるか? 静音」

 一心の顔つきが急激に冷ややかなものへと変わる。まるで、私に警告してくるような、威圧混じりのそれだ。

「主のために理を覆す事だけは如何なる理由があってもやっちゃならん。 万が一、主が闇に堕ちたのならばその命を絶ってでも止めるのがこの与えられたアドバンテージの理由や。 主が耐え忍ぶと言うのなら、理不尽を共に耐え忍べ。 決して周囲に怒るな。 怒りに身をやつし、周囲を焼け野原に変えてしまったのなら、お前ではなく、主が怨嗟の対象となる。 能力が高いというのはそれだけで皆の脅威となる。 もう、俺が言っている意味がわかるな?」

「まるで、未来の貴一が受けた怨嗟は私が……」

 言いかけて、私は慟哭がした。

 貴一が牢につながれ、あれほどの傷を負わされる未来で私はきっと黙っていられないと自覚したからだ。

 自分の手のひらに目を落とし、体が震えだした。

 貴一は自分を消せば済むとそう思って過去へ来た。優しい貴一のことだ。もしかしたら、貴一が封じられた原因の一端を担ったのは私かもしれないのを悟らせないようにしていたというのだろうか。私はおずおずと視線を一心に戻した。

「気が付いたか? 貴一は決して自分自身のためだけにトリガーを引いたりはせんだろう。 それなのに、こいつはトリガーを引いてしまうらしい。 おかしいだろう?」

 一心は冬の凍えた水のような寒々しい気配をたたえたままに私を見た。

「間違いなく、貴一に何としてもトリガーを引かせたい奴がいる。 まんまとそいつの思惑のままに、独り歩きする『脅威』という声を止めることができずに、お前たちは真っ暗闇へ突き落とされることになったんやろう。 分岐点となった瞬間にさかのぼり、その手前で軌道修正をはかるために貴一を殺したかったのは貴一自身だったが、未来のお前が貴一のこの行動を知っていたとしたら黙っているわけがない」

 がくんと私は膝の力が抜けるのを感じた。唇が震え、声がうまく出ない。

 今の私は未来から貴一が訪れて、貴一自身を破滅させようとした事実を知っている。今の私が知った事実は記憶となり、未来の私へつながる。

 未来の私なら、貴一に貴一を殺させないように絶対に動く。

 未来の私は貴一が追い詰められた原因さえも知っているのだから、余計に貴一を追い詰めた相手を赦すはずもない。

「さすがの俺でも同じ立場なら品行方正でいるのは困難を極めると思う。 でも、俺ならば貴一を止めてから、連れて逃げて、隠すことに専念するが、お前ならばどうだ?」

「私ならば原因となった人物を……どんな手を使ってでも断つかもしれない」 

「素直に白状したな。 俺の勘では貴一は必要最小限度の過去への干渉として『自分の殺害』という目的のみで周囲の環境には手を出してない。 だが、俺やお前みたいな役割の者がマジ切れして、理など何の意味もないと振り切っていたとしたら、どうなると思う?」

「……点ではなく、線で確実に破壊すると思う」

「そうやろうな。 その人物だけでなく、それに連なるすべての可能性を秘めた奴らを血族まるごと一網打尽にすると俺も思う。 それを踏まえてきくが、津島は無事か?」

 津島は無事かという問いに私は即答できなかった。

 どうして津島だと思ったのかわからなかったからだ。

 私が質問の意図を探り切れないと悟った一心は小さなため息を漏らした。

「津島の一網打尽は一度は敗れている。 幼い貴一の一言で俺がどうにかしたからや。 あの惨劇をもくろんだ奴であれば俺がおらん絶好の機会を見逃すはずがない。 だから、二度目はなかったのかと聞いているんや」

「二度目は……」

 言い淀んだ私の様子に、一心が足を止めて、苦渋の表情を浮かべた。

「誰が消された? 雅か?」

 どうして雅の名前が出るのかと私が聞き返すより早く、彼は一言つぶやいた。

「牙を根こそぎ削ぐか……」

 雅を牙だと彼は言った。貴一も雅が自分以外の誰かに制御されてはいけないと口にしていたことを思い出した。

「雅は死んでいません」

「では、誰がやられたんだ?」

「椿です」

「おい、椿なんて居ったか?」

「雅の妹ですよ」

 私の回答に一心は小首を傾げている。読めないとさらに苦虫を嚙み潰したようにうなった。

「おかしい。 もう一度確認するぞ。 手始めにやられたのは津島で間違いないんだな?」

「違います。 出雲宗像が一番はじめです。 別邸が木っ端みじんにされました」

 一心が愕然とした表情を浮かべ、こちらをみた。

 何だととかすれた声でつぶやいて、真っ蒼な顔をしている。

「出雲別邸には最上ランクの黄泉使いが無駄使いされているほどにいるんやぞ!? そんな馬鹿なことがあるか!」

「だから、宗像本家からも慌てて応援を出したんです! 出雲が落ちることなど想定外だったから、京都も熊野も厳島も誤報だと初動が遅れました。 出雲の当主が道反のみ死守すると即断し、一斉退避できたことで出雲にいた黄泉使いは全滅を免れました。 でも拠点は壊滅。 護りきれたのは道反のみでした」

「出雲はどこよりも強いんやぞ?」

「そんなことは誰もがわかってました。 でも、出雲は拠点を失った。 これが現実なんです。 出雲急襲を境に京都、熊野、厳島へ一斉攻撃がはじまりました。 鬼衆が盾となり、拠点は何とか死守され、立て直すぞという時に鬼衆が原因不明の眠り病になり戦線離脱となりました。 丸裸にされた私たちは望が選択した貴一を頂点に、悠貴が統制をとり、私たちも各地に分散せざるを得なくなりました。 そんな最中に津島に悲劇が起こった。 雅がたどり着く直前に津島はほぼ壊滅状態になるまで追い詰められました。 私はどれもこれも春夏秋冬が裏で糸を引いていたと……思っていました」

 一心は天井をみあげるようにして、まるで落ち着けと言い聞かせているように奥歯をかみしめていた。ぎりりと歯ぎしりをする音がして、一心は眉間にしわをよせたまま、ゆっくりと目を閉じた。

「夜と春夏秋冬、目標は貴一と雅であることは同じだが、殺したいか、生け捕りたいかと目的が違う相手が微妙なバランスの中、共闘している。 その曖昧さをうまく利用して未来のお前たちが絡んでしまったってわけやな……」

 面倒ごとしか残ってないなとつぶやいた一心が肩を落とした。

「今現在の落としどころは命あれば良しとするしかないのか……」

 滝の裏側へと足をすすめ、彼はゆっくりと黒曜石の一枚岩盤でできた祭壇の上へ貴一を寝かせる。指先を歯で傷つけた一心がそっと貴一の前髪をすくいあげるようにして、額を露にさせ、その血で梅の紋を額に描いた。


「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す」


 両ひざを折り、一心がすばやく言葉を捧げはじめた。

 その声の響きに、私は思わず酔いそうになった。

 祝詞の声はその人間の持つ氣によって響きが異なる。清浄であればあるほどに声は音となり、神へと届きやすいという。こんなに心地よい祝詞の声を私は知らなかった。一心がすわりこんだことで、裾の長い黒と紅の羽織が地に広がった。その上に優美なほどの銀色の髪がゆるやかに流れ落ち、まるで天の川のようだ。


「今の現に不思慮なくも大神の御門辺べを欲過ぎなんと為して慎み敬ひ拝お奉る此状を平けく安けく聞食しめせと恐み恐みも白す」


 貴一の父親は強烈なほどに強い武人だが、どうにも中性的で男くささがない。

 それが朔なのだといわれたらそうなのだろうが、自分の知っている男とは異なっている。この人が女王の半身であり、右腕。女王は彼がそばにいるからこそ過酷な役割を引き受けたのだと父がいつだったか教えてくれた。


『朔は女王のために絶対に負けられないし、絶対に折れてはいけない刃でもあり、心を救う恋人でもあり続けなくてはいけない。 いつか彼に逢うことができたのなら、どうしてそれほどまでに強くあれるのかって聞いてみると良いよ』


 父は本当に誇らしそうに微笑んで話してくれたことを思い出した。

 だからもう意地を張るのはやめた。

 私は父が誇りに思っていた朔の背後にゆっくりと膝をつくことにした。

 そして、一心同様に首を垂れた。助けてくださいと、ただそれだけを願って頭を下げ続けた。

 ふわりと冷気が一気になだれ込んだと思うと、すぐそばを大蛇が通り過ぎていくのが横目に写った。白蛇、いや、白龍かもしれないと身をすくませた私に一心が心配いらんと声をかけてくれた。


「氷輪殿は女王以外には頭を下げない。 そのような不羈の者ではなかったか? これは珍しや」


 ゆっくりと一心の気配が動いた。きっと頭を上げたのだとわかったが、私はその姿を目にしてはいけない気がして、そのままでいた。

 

「水光姫命よ、あなたの力をどうかこの時にお借りできないだろうか?」


 一心の問いに白蛇は即答はしなかった。だが、彼はひるみはしなかった。


「紅王不在の間、朔の名をもって絆の者の半核を眠りにつかせたい。 これまでとかわらず左目を封じておきたい。 これにはあなたの封印が適していると私は思っている。 穢れのない、澄み渡った氷の封を切にお借りしたい」


「さて、その見返りはどうしてくれようか?」


 急に前方で衣擦れの音がして思わず頭を上げると、そこには妖艶な美女が立っており、一心の髪を一束すくいあげ、その髪に口づけている。

 ひれのような服を身に纏い、その衣の色は白と淡い蒼でなんとも美しい。衣からのぞく白い四肢は若々しく、なまめかしい。髪色はわた雪のような白、瞳はアイスブルーだ。唇の色は淡い紫。常人であればこんな紫色の紅など似合いはしないがさすが神。女である私も素敵だと思ってしまうほどに似合っていた。

「紅の御方は今はおらぬのであろう? ならば、焼き消されはしまい。 見返りは氷輪殿が良いぞ?」

「ご冗談を。 私ごときで見返りにはなりますまい。 我が君が直に返礼に伺わねば申し訳なきことにて、私の一存で決められません」

「ほう、それが物を頼む態度というわけか?」

「ならば申し上げますが、今こそ借りを返していただきたい。 あなたは我が君の恩をお忘れではなかろうな?」

 むうっと頬を膨らませた美女は口惜しそうに一心の唇に指先で触れ、顔を寄せているが、一心は表情一つ変えない。これほどの美女に顔を寄せられてもびくともしない心臓をもっているとはと私は口をあんぐりとあけてしまった。

「紅の御方には黙っていてやるぞ?」

「我が君より恐ろしい者はおりませんので、是非ともご容赦願いたい」

 今度は満面の笑みを浮かべて、一心はそっと触れられている指先を遠ざけた。

「何とも面白くないことよ。 氷輪殿のたっての願い故に力を貸してやるが、紅の御方には逢いとうはない。 氷輪殿が百日分の酒をここへ持参せよ。 一杯つきあうのならばそれで手を打とう」

「酒は必ず持参いたしますが、私のでる酒の席には我が君も来られますがよろしいか?」

「あぁ、もう! わかった、わかった! 酒だけで良い。 紅の御方の恐ろしいことよ! 酒の相手くらい目をつぶれぬのか、あの女子は!」

「これは大きな誤解。 私が嫌なのですよ」

「無礼であろうが!」

「これは失礼。 どんな些細な綻びも作らないと決めているのですよ。 これは自分自身で作った縛りのようなものでしてね」

「そのように面白みのない男だと飽きられはしまいか?」

「さて、我が君にきいてみないことにはわかりかねます」

「このような美しき男だ、あやつは手放さぬな。 さて、このやりとりは毎度疲れるだけじゃ。 さっさと済ませて、酒じゃ!」

「水光姫命、感謝を!」

 そこで見ておれと彼女はゆっくりと貴一へ近づき、額に口づけた。

「ちょっと待って! 何で、チューした!?」

 思わずでてしまった大声に、美女の突き刺さるような視線がこちらへ向かってきた。

「氷輪殿、『これ』にも予約済の札がはってあるというのか?」

 水光姫命が心底がっかりだというように一心に問うて、一心が売却済ですとにこにこして答えると、美女は宗像はこれだから嫌だと肩を落とした。

「そこの小さいの、酒の相手くらいは許せよ?」

「同席します!」

 私は一心の回答をそっくりそのまま活用することにすると、前方では笑いをこらえている一心の肩が震えているた。

 水光姫命が盛大にため息を漏らし、一心を指さして片眉を上げた。

「良い、良い! 好きにせよ。 氷輪殿、私の寛容さを崇め奉るが良い!」

「かしこまりまして」

 一心がわざとらしいまでに深く頭を下げた。それを見て、私もあわてて頭を下げた。

 美女の顔を見たわけではないが、ふわりと笑んでいる気がした。

 わかっていておちょくられたのかもしれないと気が付いて、張り詰めていた緊張の糸が切れた。肩の力が抜け、全身に血が巡りはじめた。助けてくれたのかもしれないと思うと、無意識に頭がさがった。

 水光姫命といえば白蛇の神であり、清廉なる美しき水神だ。

 泣きたくなるほどに感謝したくなった。

 失礼にならないようにそっと頭を上げて、その姿を目に焼き付けておこうと思った。 

 滝の水を両手に救い上げるようにして、水光姫命は光の玉を練り、眼帯を作り出した。透き通る氷でできたそれを、そっと貴一の左目の上へ置いてくれた。

 それを見届けた一心が立ち上がり、その氷の眼帯の上から再度、梅の封紋を血で描き切った。


「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄と祓い給う。 天清浄とは天の七曜九曜二十八宿を清め、地清浄とは地の神三十六神を清め、内外清浄とは家内三宝大荒神を清め、六根清浄とは其の身其の体のけがれを祓いたまえ、清めたまうことのよしを八百万の神たち諸共に小鹿の八つの御耳を振り立てて聞こしめせと申す」


 一心が祝詞を奉じている間に水光姫命の姿はなくなっていた。

 粋な神だと一心がつぶやいて、こちらを見た。


「水光姫命様はわざと遊んでくださったのだよ。 神は対価交換を求めるもの。 あの神はこのやりとりを通して、『献酒せよ、それで良い』と自ら落としどころを作って去って行かれた。 丁寧な祭祀を続けている神はあのように気安い。 だが、決して境界をあやふやにしてはいけない。 神は神たりえる高貴な方々、人と触れてはいけないからな」 

 どちらかというと人間よりというよりは神様寄りに居てそうな一心に言われてしまうと、思わずうなずいてしまう。

「貴一の異能はこれで完全覚醒はしばらくない。 俺とあいつが定めた右目のみで闘わせる。 貴一を生け捕りしたい奴は地団太を踏み、殺したい奴はにやりと笑んでいるだろうがな……」

 一心は王樹へ戻るぞと言って、眠る貴一の身体を抱き上げた。

「敵は二方向、三方向かわからん。 お前自身が敵に回っていたとしたらどうするかを考えて、練った策があれば俺に言え。 ええな?」

 私はわかったとうなずいた。

「今現在、一等強い奴の名前は?」

「モズ」

「春夏秋冬か? 永訣の鳥にしてやるだけだ。 一切合切、何でもかんでもすくいたおしてやる。 ついてこい」

 一心の背中があまりに頼もしくて、ほんの少しだけこらえていた涙がこぼれた。

 奏太の時にはこんな気持ちにはならなかったのに、朔ってすごいと本能から思っているのだ。

「逆襲ってのはな、ド派手にやるもんなんだ。 覚えておけよ、時生の娘」

「お父さんに……逢いたい」

 思ってもみなかった言葉が口からこぼれ落ちた。

 すると、一心がすっと頭の上に手を置いてくれた。片腕で貴一の身体を支えているから短時間だったが、強烈に安堵した。


「うちの鬼軍曹だ。 問題ない。 一切合切にちゃっかり入れてやってるから、任せておけ」


 銀色の髪が背中でゆっくりと揺れている。

 紐の色は紅。出雲宗像が紅の理由。貴一が出雲に置かれる理由はこれだ。

 彼の両親の色を受け継ぐため。

 彼の腕の中で眠っている貴一の頬に赤みが戻ってきていることに気が付いた。


「力ってのはな、でっかければでっかいほどに体に来るんだ。 だから、絶対絶命、この世との別れって時までは使わないに限る。 ありあまる力の制御ボタンを女王は笛にかえたが、こいつは何にしてやるかな」


 一心が片方だけ口角を上げてにやりと笑んだ。

 方法は探せる。だから、何一つ諦めなくて良いんだと笑ってくれた。


「間違わないで済みますか?」


 そのために俺がいる、愚問だと一心は先を歩いていく。

 私はその背を小走りに追いかけた。

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