第46話 女王紋の狼
焦げた匂いが鼻腔をかすめ、再度、洞窟内に轟音が鳴り響いた。
一度目よりはるかに大きな空気の振動が突風となり全身にぶつかってきた。
「ちゃんと聞こえたで?」
関西弁が聞こえたかと思うと、首にあった圧迫が除かれた。
急に圧迫がのぞかれたことで、肺へ一気に空気が誘い込まれ、僕は激しく咳き込んだ。足に力が入らず、前に倒れこむ寸前で、誰かが身体を支えてくれた。
そして、その誰かは僕がその場に座り込んだのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
「どいつもこいつも、やりたいようにやりやがって……おもろない!」
洞窟中に響き渡る男性の声に、慌てて瞼をもちあげると、視界が赤一色に染まった。その場に立ち込める異臭は悪鬼が放つものではなく、致死性の高い毒を含んでいる血液の臭いだ。
見上げると、銀色の長い髪が見えた。ぽとりぽとりと僕をかばうその腕から流れ落ちる血が僕の頭上から額へと伝ってくる。僕をかばったらしい傷跡からは生々しいまでの血液が零れ落ちている。
「貴一! 俺の血、一滴でもなめるんやないで!」
僕はそのどすのきいた声に一も二もなくうなずいた。
でも、目の中に随分と入ってしまったように思うと不安に思った瞬間、かばうように立っている男が面倒くさそうに袖で血をぬぐってくれた。
「この血はご主人様以外には毒や。 その目は強いからセーフやけど、ごっくんは確実に死ぬからアウトな!」
パンチのきいたセリフに僕は思わず背筋を伸ばして正座をしてしまったが、腹部の刺し傷が痛み、すぐに壁にもたれてしまう。
「どうしてあなたがここで出てくる!?」
僕を殺そうとした男の額から汗が流れ落ちる。
「こいつに呼ばれたからな。 ここでの登板はお前にとっては予想外ってわけか? 良い傾向やないか。 お前の知っている事態が変わってきている証拠ちゃうか?」
銀色の髪の男は切りつけられた腕の傷をみて、流れ出てきている血液をゆっくりとなめあげた。
「寝起きは身体の動きが鈍い……嫌になるわ」
この状況下で銀色の髪をした男は準備体操をするように身体を動かし始めた。
「ここにあなたが来るはずがない! むしろ、あってはならないことだ!」
冷静沈着だった彼の表情が崩れ、どうしてだとうなっている。
本当に予想外だったようだ。体中から焦りが感じられる。
「そんなことを言われても、呼んだのはこいつや。 お前にとっては招かざる客だったとしても、仕方ないやろう?」
銀色の髪が洞窟内に吹き込んだ冷たい風に吹き上げられる。こんな状況で僕は思わず綺麗だと目を細めてしまった。
そして、僕の脳裏にふと疑問符が浮かんだ。彼は僕に呼ばれたと言った。
僕がいつ呼んだというのだろう。
僕は誰も呼んでいないのにと首をかしげるしかない。
「俺は常に最凶らしいからなぁ、何をしたって仕方ないやろ?」
「今、ここであなたが目を覚ましたら困るんだ! まだ女王は出てきてはいけない」
まるで女王を隠しておいて欲しいような響きだ。
僕の方をにらみつけながら彼は唇をかんで思案している。彼をつつむ気配が一気に黒い霧につつまれたように感じた。姿のない恐怖に追い詰められたように、彼はまだだめだとつぶやいている。
「貴一、こいつが誰かわかるか?」
くるりと振り返った銀糸の髪の男性は僕を締め上げていた男を指さした。
僕は知っていると大きくうなずいた。
「お前、これがわかっていたから抵抗せんかったんか……」
含みのある言葉を途中で飲み込んだ彼はゆっくりと僕にあった視線を動かして、反対方向へ向けた。
「覚えておけ、想定外が簡単に準備されていくのが宗像の王の十八番なんや。 そもそも、ここは俺のための洞窟やしな。 俺の出番が早まるのは当然やろう?」
銀色の髪の彼は俺のための洞窟と言った。
ここは天狼洞。
彼は空間を裂いて、そこから黒と紅の2色の羽織を引きずり出した。
それにさっと袖を通す。その背には朔月と梅が描かれている。
意識がはっきりしてくると、思考回路がようやくつながった。
男の背にある紋が女王紋だと気が付いて、はっとした。
女王紋を背負い、狼を名乗ることを許されている人間は一人きりだ。
現王の朔、その人しかいない。
「朔……」
僕の口からこぼれ落ちた言葉に、彼は『あいよ』と片方だけ口角をあげて笑って答えた。
何がどうして、こんなラッキーが僕の前に訪れたのかがわからない。どうしようもないくらいの安心感に僕はぽかんと口を開けてしまった。
すぐ近くで、静音が歓喜の声をあげているのが次いで耳に届いた。
「ここまでよく耐えた。 ほめてやる」
朔はにやりと笑んで、僕の顎を指先でもちあげてくれた。
緊張したまま彼を見上げたら、ひとつうなずき、彼はくるりと背を向けた。
「さて、俺は恐ろしく機嫌が悪いんや。 なんでやと思う?」
後ろ手にハンドサインが返ってきた。
ハンドサインは1。指1本は手出し無用、つまりは戦闘不要。任せておけということだ。
これほど安堵できるハンドサインはなかった。
僕はようやく落ち着いて呼吸をすることができた。銀色の細い髪が異様なほどに光をはじく。
深い琥珀色の両眼は、夜闇にあっても美しく輝き、その体躯から発せられる闘気はその場にいる者すべてを圧倒する。
黒地の羽織の胸元から斜め下半分の色は深紅に染色されており、背にある銀糸であしらわれた朔月を表す氷輪の中に一つだけ大きな梅の花が刺繍されている。じっくりと目を凝らすと、袖口は柔らかな炎のような、波のような柄が描かれている。
こんな羽織は見たことがない。祖父たちや時生おじさん、両親のそれですらこれとは違っている。
黒一色が黄泉使いの基本だ。夜に決して目立つことのないようにという色で構成されている。
だけれど、これは目にも鮮やかな紅。強いからこそ、目立つ羽織を着ることが許される。まさに女王紋の羽織。身体がふるえるほどの興奮を覚えた。
「おい、俺は本当に機嫌が悪いんだからな」
彼はふうっと息を吐いて、肩を軽くまわして、ストレッチをしはじめた。
次いで手首を回し、すっと天井に両手を伸ばし、ゆっくりと前を見据えた。
「機嫌が悪い理由、1個め! さびしがりを独りぼっちの所へ押し込められたのをどうにもできんかったこと!」
朔が素手で払うように動作すると爆風が吹き荒れ、目の前の男を軽々と吹き飛ばし、数メートルしかなかった距離が10メートル以上開いた。
圧倒的だと僕は瞠目した。この力差は圧巻すぎる。桁違いの戦闘力に身震いして、僕は息を飲んで朔の背に目をやった。
「はい、次! 理由、2個め! 俺の主が命懸けた人間を勝手に消されそうになったこと!」
僕の目の前にいたあの男も僕より数段強かったのに、その攻撃をひらりとかわしながら、けり一つでさらに遠くに吹き飛ばしてしまう。
朔は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、ばらばらしたままの銀色の長い髪を紅の組紐で後頭部高く結い上げてみせる。その組紐の色は出雲宗像の紅。僕と同じだと思うと涙があふれそうなほどに感極まってくる。
「次! 理由、3個め! 敵が何であれ、間抜けにも、自分自身が封じられる失態を犯したこと!」
宙に鬼火で梅の花を描いた彼はその中から細身の日本刀を抜き出した。
なんて綺麗なんだ。こんな細身の日本刀を僕は見たことがない。
目を凝らすと、この日本刀は諸刃だ。緩いアーチを描いているが、うちにも外にも刃がある。
「次! 理由、4個め! お前にそんな決断をさせるような憂いある未来を残してしまったらしい俺自身に腹が立つ!」
激しく火花が散るような金属同士のぶつかりあいの直後、どんっと岩盤に叩きつけられるような音が響き渡り、砂塵が巻き上がる。
二人の姿が見えたと思うと、朔が片手で相手の襟首を締め上げていた。その手にある諸刃の日本刀の切っ先が相手の首にわずか数センチ離れただけの岩壁に刺さっている。その上、赤色の封紋が相手の四肢に絡みついている。
「梅の封紋……」
いつだ、どのタイミングで彼は最高練度の封術を使ったというのか。鮮やかな紅の炎で描かれているのは梅の花。それが相手の男の四肢をしばり、朔は日本刀の刃をその首にゆっくりと押し当てた。
「さて、質問タイムや。 宗像貴一、お前、いくつになった?」
朔の問うている相手は僕じゃない。そう、彼の顔を見た瞬間に僕も静音も悟っていた。
「宗像貴一、答えろ!」
もう一人の僕は唇の端から血をにじませたまま、目を伏せ、21だとようやく答えた。そうかと朔が場にそぐわない柔和な顔を浮かべ、もう一人の僕の頬を手で軽くはたいた。
「外敵と手を組んだのはお前か?」
「俺は組んでいない! この事態を利用しただけだ……」
未来の僕がしぶい顔を浮かべた。朔は小首を傾げてから、ずいと顔を寄せた。
「質問を変える。 お前、何をそんなに思い詰めて、自分の存在を消しに来た?」
もう一人の僕が唇を震わせ、拘束を解けと声を荒げた。
「時間がない! 頼むから、今すぐにそこにいる『俺』を消してくれ!」
「それは答えになってへんなぁ。 一切合切、救いたおしてやるから、ちゃんと説明せぇ!」
「俺は黄泉使いの癌になる! だから、早く始末してくれ……」
朔はそんなことかよとあきれた表情を浮かべてぱっと手を離し、あろうことかあっさりと封を解除し、彼の拘束をといた。
「お前1人のせいで滅びをたどる黄泉使いなんぞ、その程度だったってだけや。 そんなしょうもない黄泉使いなら終わっても構わん。 やめや、やめや!」
「終わって良いわけないだろう!? 簡単なことじゃない! どれだけの命が失われたと思ってるんだ! あなたや女王にとっても俺は……俺は!」
「終わるも終わらんも、人一人のせいではどうにもならん」
朔は小さく息を漏らし、未来の僕をしっかりと抱きしめた。
「そもそもや! お前がどえらい能力ホルダーなんてことは生まれた時から誰もが知ってることや。 お前の言う『癌になる』というにも理由があったはずや。 何がお前にトリガーを引かせた? 問題はそこにある」
未来の僕の目からこらえきれなくなった涙がこぼれおちた。
まるで子供をあやすように朔は彼の背をなでた。
「どうして未来のお前はそんな傷だらけの身体で、ありえないほどの怨嗟を受けることになったんや?」
「俺は何一つ護れなかった……。 護れなかったから、護り抜けなかったから」
未来の僕の言葉に朔が眉をひそめた。
「護り抜けなかった責任をお前1人が問われたと!?」
誰に問われたとは朔は聞かなかった。未来の僕の身体にある無数の消えない傷跡がそれの答えだ。彼が逃げることができず、逃げようともしなかったのなら、それは冥府関連ではないことは明白。つまり、彼にこの消えない罰を与えたのは味方、身内でしかないことは問うまでもない。
「こんちくしょうめ……俺達が機能できていない未来ってことかよ」
朔の言葉に僕ははっと息を飲んだ。女王と朔がいたのなら、未来の僕がおかしなことになるはずがない。確実に何とかしてくれるはずだ。それができないということは何か致命的なアクシデントが起きたことを示唆している。
「護りたかったんだ……だけど、俺ではどうにもできなかった」
未来の僕が朔の肩に顔を押し付けて、声を上げて泣いている。
冷静になって、抱きしめられたままのもう一人の僕をみてみると、ひどく痩せており、病んでいるようにも見える。肌は蒼白く、長い間、陽の光に当たることのなかった暮らしをしていたようにも思えた。四肢には鎖をつながれたような跡が残り、皮膚には古い傷が幾重にも連なり、皮膚色を青紫から黒く変えている。
「今、ここで起きている事態が元でお前はトリガーを引き、黄泉使いが追い詰められることになるんやな? いっそ、ここでお前が消えた方がマシかもしれないという思考に陥るほどの未来になるということやな? よくわかった。 もう、手を引け。 ここからは俺が引き受ける。 もう任せておけ」
朔の言葉は力強かった。
穏やかな、優し気な口調だったが、もう一人の僕には見えなかっただろうが、その表情は激怒の最上級だった。朔は本気で怒っている。
「禁じ手ついでに、一つだけ答えろ。 お前をそこまで追い詰めたのは誰だ?」
「……蒼の王」
「ほほう。 その名をここで聞くことになるとはなぁ」
朔の目がわずかに細められ、さらに眉間に深くしわが刻まれた。
「委細承知。 もう何の情報もいらん。 ここからは俺が全てを引き受ける」
未来の僕の身長はそこそこに高いが、朔はそれより10㎝程度高い。
190㎝手前あるのではないかという高身長でほっそりとしているのに、袖からのぞく腕をみればその身体が筋肉質であることがわかる。健康的で、若々しく、どこをどうみても練度の高い戦士そのものだ。
父の冬馬もそこそこだと思っていたが、彼を見ると女王の右腕はやはり格が違うらしい。そこにいるだけで、立っているだけで『強い』とわかってしまうなんて、本当にずるい。
肌で感じ取ることができるほどに彼が強いということは、女王はもっと強烈ということだ。朔の行使している能力は女王起因のはず。片方だけでこれだけのパンチがあるというのに、これが二人そろうとなれば明らかに脅威だと理解した。冥府が嫌がるわけがわかりすぎた。
喧嘩するのならば、脅威でしかない二人を何とか箱に押し込める必要がある。僕でもそうするかもしれないと悟った。
壁にもたれたまま、朔ともう一人の僕を眺めた。どことなく似通ってみえるのはどうしてだろう。背格好が似ているからだろうか。目元、口元が似ている。血縁て怖いな。ん?血縁は違うか。いや、血が近い人間が朔にたってもおかしくないか。そんなことより、本当にダメかもしれない。眩暈がしてきた。耳鳴りもする。
「良いか? 生まれてこなければよかった奴なんかおるわけない。 投げだしたらそこで終わりや。 こっちの貴一もな」
朔はゆっくりと振り返ると、僕にも優しく微笑んだ。耳鳴りで言葉がふわりと浮いてしまいよく聴こえない。だけど、朔の笑顔は僕の緊張の糸を切ってしまいかねないほどの威力がある。こんなに強い人がここに居てくれるのなら、この先、僕が先頭きって戦を仕掛けなくて済むかもなんて甘い考えがよぎる。
「時生の娘、ぼーっとしてる暇があればさっさと起きて、お前の主の止血せぇ!」
時生の娘と朔は口にした。時生おじさんを彼は知っているのだろうか。
どうしてと僕が首をかしげているところへ静音が引きずるように起き上がり、かけつけてきた。
僕は傷口を手で一生懸命おさえているが、脈打って流れ出てくる血液が簡単には止まってくれない。僕の手に重ねるように静音が手を置いてくれた。すごく温かい。でも、僕の冷めていく身体はわずかなぬくもりでは追い付かなかった。
寒いと身を震わせ、ひどい怠さにやられて壁に全体重をかけた。こうなったのは僕は一度諦めてしまったからだなと反省したが遅かった。
「貴一、飲んで!」
静音が自分の腕を斬りつけたのか流れ出す血液を僕の口の前へ差し出してくるが、僕は僕自身を動かすことも怠い。とっさに静音が自分の血液を口に含んで、僕の口に押し付けて流し込んでくれているが、どうにもうまく飲み込めない。ずるりと意志に反して身体が横になっていく。傾いていく身体を僕はとどめることができない。
「貴一!」
静音が必死に抱き起そうとしているのがわかるけれど、本当に体が動かない。
棚田の水に片方の頬がつかり、寒さが助長された。
急に胃が何かに圧迫され、嘔気に襲われた。逆らえずに吐き出したのは血液だ。
美しかった水面が赤くなっていくのがわかるほどの量だとすぐにわかった。僕の薬になるはずの静音の血液も今の僕には受け付けないということなのだろうか。
僕の何かがトラブっている。僕のあずかり知らない所で異変が起こっているのかもしれないと思った。
朔はああ言ってくれたけれど、本当は未来の僕が正しいのかもしれない。
このまま終わる方が良いのかもしれないと素直に瞼を閉じた。
「間に合わなくなる! 止めてくれ!」
もう一人の僕が焦った声をあげている。止めてくれ、頼むと懇願している声も聞こえる。
「止められないのなら、いっそ殺してくれ!」
未来の僕の声は悲鳴だ。
身体を揺さぶられているが、何だか感覚が鈍い。
あれ、花が見える。これ、なんていう花だったっけ。
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