019 私はアヤ

「ねえ、ナディーム。地図の見方、教えて?」


 学校の図書室で読んでた本はお持ち帰りして、私は家で宿題を終えたナディームに尋ねた。


 「え?地図の見方?なんで?」


 何か変なことでも聞いてしまったのだろうか。ナディームは「そんなことを知りたいと思う気持ちがりかいできない」とか「地図なんて読めなくていいじゃないか」とか「必要ない知識だよ」とブツブツ言っている。


 「地図の上が北で下が南っていうのは合ってる?」

 「いや……それは地図を書いた人に依るんじゃない?」

 「はっ?地図を書いた人によって、東西南北が違うってこと?!」


 あり得ない。そんな好き放題始めたのは一体どこの誰だ?私の生きてた時代の地図製作法は素晴らしかった……。ショックを隠せない私に向かって、ナディームは首を傾げた。


 「地図が読めなくても困ることなんてないだろう?なんでカティアはそんなに地図に拘るんだい?」


 ……なんでも何も……っ!!


 「だって、ここがどこか気になるんだもん!このへんが北欧っぽい感じに見えなくもないけど……まずここってヨーロッパ?西に海があるんなら地中海の東側とかアメリカ大陸と南アメリカ大陸、あとアフリカ大陸にオーストラリアとかのオセアニア諸国って可能性もあるよね?」


 私は本に載っている地図を横から見たり逆さまに見たりした。「んー、こうかな。あっ、こう?」と地図の向きを変えていると、突然ナディームの手が私の手をがしっと掴んだ。あまりにも突然のことで思考回路が停止する。本に向けていた視線を上げた。


 「『北欧っぽい……?ヨーロッパ?アメリカ?アフリカ?オセアニア?』まるで他の世界を知っているような言い方だ……。僕は聞いたこともない言葉をすらすらと当たり前のように話していたけど……君は……。……一体誰だ?」


 ヤ、ヤバイ。……やってしまった。『ヨーロッパ』や『アメリカ』なんて固有名詞まで出してしまった。


 「そういえば、前にも年号なんて可笑しなことを聞いていたよな……?」


 ……ど、どうしよう……。


 沈黙が私達を凍らせる。自分の鼓動がうるさいほど聞こえる。脈が速い。そしてナディームの問い詰めるようなエメラルドグリーン色の目は完全にロックオンされていて、私からピクリとも動かない。


 「わ、私は……」


 誤魔化せる気が微塵もしなかった。ナディームの視線が痛い……。ゴクリ、と喉が鳴る。……言ってしまうか?それしか道はない?


 「私は……カティアじゃない……。2019年を生きていた人間……なの。信じてもらえないかもしれないけど……。」


 言った。言ってしまった。鼓動はまだ速い。手にはじんわりと汗が滲んでいるのに、指先だけは何も感じないほど冷たい。こんな訳のわからないことを言われてナディームはどんな反応を見せるんだろう……?


 「に、2019年……?」


 ……あ、フリーズしてる。……だよね、だよね。普通は思考回路が完全に停止するよね。


 「いつも通りに寝て、朝起きたらカティアになってたの……。カティアの意識がどこに行ってしまったのかは私にもわからない……。」

 「き、君の歳は?」

 「二十一歳……。」

 「名前は?」

 「あ、綾。五十嵐……綾。」

 「アヤ……イガラシ?」


 ナディームは目を見開いた。それから少し目線を落として、手を顎に当てた。何か考えているようだ。


 「カティア……じゃない、えっと……アヤ?だったっけ。」

 「いや、今はもうカティアなので、カティアで大丈夫です。」

 「助かる。馴染みのない名前は呼びにくくて……。カティア、これは君の秘密なんだね?」

 「何となく伏せておいた方が生活するのに差し支えないと思ったから誰にも話していません。これから話すつもりもありません。」

 「この秘密は僕も守る。母さんや父さん、ルドミラにも話しはしない。約束する。」

 「あ、ありがとう……。」

 「その代わり、君の住んでいた時代のことを教えて欲しい。」


ナディームは初等教育を終えたら進学して研究者になりたいと前に言っていた。その時は何の研究をしたいのか教えてくれなかったけど、どうやら知的好奇心を満たすための研究らしい。


 「僕は、世界がなぜこんなになってしまったのか調べたいんだ。こんな終末的な世相になってしまったのはなぜか。地球は人間の住むべき場所ではなくなるのか。魔虫や魔獣はなぜ生まれて、これからどんな世界になっていくのか。人類滅亡は必然なのか。」

 「私の知っていることでナディームのお役に立てることなら、何でも話すよ。」


 そう言うとナディームは私をじっと見て、いつもの優しい笑顔を向けた。


「君が生きていた時代に魔虫はいた?」


 私はぶんぶん首を横に振った。するとナディームは私の頭を優しくぽんぽんと撫でて、殊更優しく宥めるような目をした。


 「怖かっただろう?君の時代と今とは随分と違っているようだから……。」


 初めて私の気持ちを察してくれる存在を得て、私の瞼はじんと熱くなった。


 「ナ、ナディーム……。『日本』ていう国……今もあるか知ってる?」

 「ニホン……?」

 「私の生きていた時代ではアジアに位置する島国だったんだけど……。」


 暫しの沈黙の後、ナディームは口を開いた。


 「……そんな国の名前は本でも見たことがない……。」


 その答えと同時に私の目から大粒の涙が溢れ出す。涙は次から次へと溢れ落ち、床に落ちる。


 「それは……君の住んでいた国?」


 私は黙って頷いた。まるで帰る場所がないと言われたような気分だった。遠くても、2019年に帰れなくても、日本という国の存在さえ知ることが出来れば、私は心の拠り所を持つことができた気がするのだ。けど、もう日本はないのかもしれない。


 ……いや、しょうがないよ。もうここでカティアとして生きるっきゃないんだから!


 カティアとしてこの町で生きて、この地に骨を埋める覚悟ができた。濡れた頬をくしゃっと拭うと、床に転がっている無数の石に気付いた。


 「ん?何これ?」


 床に意識が行ったせいで涙も引っ込んだ。床には真珠ぐらいの大きさの透明の丸い石がいくつも転がっていた。ひとつ拾ってみると透明の水晶の中にラピスラズリのような青い色が見える。


 「君の涙の結晶だよ。強大な魔力持ちの感情が最高潮に高ぶった時に流す涙は魔力を含んで結晶化する。お守りにもなるし、宝石としても価値は高いんだ。」


 ナディームは部屋に転がる石を拾い集めて私の手に持たせた。「役に立つ時が必ずあるから大事にとっておくんだよ」と一言添えて。

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