015 帰宅

 「……くっ……!た、立てない……!」


 焦りと苛立ちでナディームにしがみつくも、私は立ち上がることさえ出来ない。十歳のナディームに五歳の私をお姫様だっこなんて出来るわけがない。絶望的だ。


 ギャーーッシャシャシャシャ……


 獣の鳴くような、それでいてビニール袋を擦るような声で、魔虫がさらに威嚇してくる。魔虫は一歩、一歩とゆっくり私達に向かって間を詰めてくる。


 ……怖い。


 恐怖でガタガタ体が震える。


 「ナ、ナディーム、ナディームだけで逃げて!」

 「何を言ってるんだ!そんな馬鹿なことできるわけないだろうっ?」


 動けない私のためにナディームまで犠牲になっては駄目だと思ったのに、ナディームは逃げる気がないらしい。ナディームは引っ張っていた私から手を離すとポケットからスリングショットを取り出した。


 ……そんな物、持ち歩いてるの?!武装少年?ナディームちょっと野蛮じゃない?


 ナディームはさっとスリングショットを構える。


 「ナ、ナディーム……。そんなことして、魔虫を怒らせちゃったらどうするの……?」

 「こうして互いに威嚇しあって時間を稼ぎたい。カティア、まだ立てないか?」


 申し訳なさすぎる。ナディームが逃げられないのも、こうして敵対姿勢を取るのも、全ては腰が抜けて立つことさえできない私のせいだ。私が立てるようになるまで時間を稼いで、立てるようになったら全力疾走で逃げよう、とナディームは呟いた。私はゴクリと喉を鳴らすと、必死に足腰に力を入れてみる。駄目だ……力が入らない。


 間を少しずつ詰めてきた魔虫は、尾節をさらに高く上げた。何かを吹き付けられそうな気がして、私は思わず目を瞑る。


 「こっちの方だ!」

 「探せ!魔力計を使え!」


 橋の上の方から大人の男性の声が聞こえてきた。結構大人数だ。ナディームの救援笛を聞いて、助けが来たのだろうか。ナディームが私達の居場所を知らせるため、再度笛を鳴らす。


 ……やった……助けが来た……


 「見つけたぞ!」

 「子供が二人いるぞ!」

 「虫は威嚇態勢だ!」


 橋の上の大人達は私達を見つけたようだ。私とナディームは、いまだに間を詰めてくる魔虫から目を離せずにいる。尾節は上がったままだ。


 シュッ


 何かが空気を切るような音と同時に、私の目に飛び込んできたのは、魔虫の目に刺さった弓矢だった。魔虫が雄叫びのような声をあげて、悶えも苦しみ始める。その瞬間、またいくつか矢が魔虫に命中した。そしてナディームよりも前にいた私は、魔虫が苦しんで動く度に、魔虫の血なのか、灰色っぽく濁った紫色の体液を浴びた。


 ……き、気持ち悪い……。


 「子供たちを保護せよ。」

 「はっ!」

 「一班は虫の始末を。」

 「はっ!」


 私は助けに来た兵士に抱えられて橋の上まで運ばれた。橋の上で、魔虫に攻撃を受けたか、怪我をしていないかなど軽い事情聴取を受けて解放された。橋の下に、死んだ魔虫が見えた。


 ナディームは私を背負って家路についた。私の顔にも服にも魔虫の体液がべっとりついたままだ。……気持ち悪い……。いまだに恐怖で震えが止まらなかった。ナディームは何も話さなかった。けど、私を背負うナディームの体が細かく震えているのがわかった。しっかりしていると言っても、まだ十歳。怖かったに決まってる。


 「……ナディーム、大丈夫?」

 「……ああ。」

 「私が川縁に降りていったせいで……ごめんなさい。」

 「カティアのせいじゃないよ。魔虫や魔獣とはいつ遭遇するかわからないんだから。今日は運が悪かっただけだよ。」


 ナディームの優しさが痛い。


 「……私……怖かった……。」


 私は呟いた。涙の浮かぶ目をナディームの背中に押し当てた。恐怖感と助かった安堵感とナディームの優しさと。色んな感情が入り交じっていた。ナディームは何度も「大丈夫だよ。カティアのことは命に変えても僕が守るから」と言った。


 私はいまだに恐怖で小刻みに震えつつも、橋の下で死んだ魔虫のことも思い出した。町に入ってきてしまったというだけで殺された魔虫。魔虫も魔獣も町へ迷い混めば掃討、ではあまりにも無慈悲すぎる。


 家に着くと、帰宅の遅い私達を皆が血相変えて待っていた。私の姿を見るなり母さんの顔は血の気が引いて真っ青になり、父さんはナディームから話を聞くため別室に連れていった。ルドミラは母さんと一緒に私のシャワーや着替えを手伝ってくれた。魔虫の体液はなかなか落ちなかった。石鹸でゴシゴシ擦っても、皮膚に染みのように色が残るのだ。それが私の気持ちをより一層重くした。もう外に出たくないな……。しばらく学校は休みたい。


 その夜は母さんがなかなか私から離れようとしなかった。口を開けば「カティアが無事で良かった」とだけ言って、抱き締めてくる。私も今日ばかりは人肌が恋しかった。私がベッドに入ってから、なかなか寝付けなかったが、眠りにつくまで母さんが側でずっと手を握っていてくれた。

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