011 魔虫の本

 今、私はルドミラとナディームと三人で、ナディームの部屋にいる。部屋の中を見渡すと四方の壁いっぱいに並んだ本棚には本が埋まっていて、床にも沢山の本が積み上げられている。まるで整理整頓のされていない古本屋だ。ナディームの勤勉さと愛読家ぶりが窺える。


 ナディームが部屋にある小さな暖炉に火を点けてくれたので、部屋が少しずつ温まってくるのを感じる。私の部屋とルドミラの部屋では使っては駄目だと言われている暖炉も、ナディームの歳になると使い放題らしい。私も早く大きくなって、自室の部屋の暖炉を自由に使えるようになりたいな。


 「三人でナディームの部屋にいるなんて珍しいわね。」


 母さんは私達の様子を見て面食らっている。兄妹仲がいいのは、いいことではないか。驚くよりも、喜ぶべきだと思う。


 「……で、魔虫の本はどれ?」


 私が山ほどある本の背表紙を一つ一つ見ながら尋ねた。


 「えぇーっと……。確かこのへんに……。」


 ナディームが本棚の上の方に手を伸ばしたら、床に積み重ねられた本の塔にナディームの足が当たった。私の身長よりも高い本の塔は、私を目掛けて見事に倒壊した。私を生き埋めにして。


 「カッ、カティアッ!!大丈夫っ?」


 慌てたルドミラに救出してもらう。ナディームは「ごめん、ごめん」と謝りながら、魔虫の本を必死に探している。謝ってる割には、あまり申し訳ないと思ってなさそうな顔をして、つま先立ちして本棚の上の方に手を伸ばしている。


 ……いや、本は後回しでいいから、まず助けて……。ルドミラじゃなくてナディームが助けるべきだと思うんだけど。


 「あった、あった。これだよ。」


 ナディームが見せてくれたのは『魔虫が生まれたわけ』という本だった。かなり分厚い。辞書並みだ。読了したのだろうか。十歳でこれを本当に読破できたのであれば称賛に値すると思う。パラパラと目的のページを探すナディームを見ると、ルドミラは目を点にして、思考回路が停止したように固まってしまった。


 ……わかる、わかる。勉強が苦手な人には、拒否反応が出る分厚さと文字の多さだよね……。


 中身は大学生の私と言えど、興味あること以外の勉強は好きではないので、ルドミラの反応に完全にシンクロする。魔虫がどんなものかチラッと見てみたいだけだったのに、ナディームはレクチャーでも始めそうな雰囲気を醸し出している。魔虫の本を見せて欲しいなんて、失策だったのかもしれない、


 「これが大型の魔虫、ミンガフだよ。」


 ナディームが差し出した本を見て、背中が凍りついた。


 ……いやあぁぁ……こ、これ……もう……む、む、無理なヤツ……。


 写真を見て、失神してしまいたくなった。自分を呪いたい。なんで私はナディームに魔虫を見せてくれと頼んでしまったのだろうか。そして私は、この世界にいる限り絶対に魔虫に遭遇しませんように、と神に祈った。


 写真の魔虫は、ハサミムシにそっくりの虫だ。腹部の下、つまりお尻側に大きなハサミがある。夢に出てきそうなぐらい不気味で、そもそも見た目が受け入れられない。それが自分と同じぐらいの体長か、それよりも大きいのだ。本には体長一メートルから一・五メートルと書いてあった。ルドミラに目を遣ると、目の焦点が定まらず、完全にイッてしまっている。


 ……だ、大丈夫っ?ルドミラっ??目を覚まして!!


 ナディームはまるで昆虫博士のように嬉々と話し続けている。次々に小型から大型の魔虫を見せては、名前やら大きさを教えてくれる。じ、実にありがたい……。こちらから魔虫が見たいと頼んでしまったものだから、ナディームも親切心で色々と教えてくれるのだ。


 私は写真のページから、字で埋め尽くされたページを開いた。なぜ魔虫が生まれたのか、人間はどう対応するべきか等、知りたい情報は山ほどある。ただ五歳の私は語彙力も五歳児並みだった。字は追いながら読めるのに、意味のわからない単語が底無しに出てくる。これは読むより、ナディームに聞いた方が早い。


 「ナディーム。魔虫ってどうして生まれてきたの?昔からいたの?」


 ナディームは「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに目を輝かせた。


 「いい質問だよ、カティア。大昔、魔虫は存在しなかったんだ。しかし大気汚染、水質汚染、土壌汚染が進み、虫たちは生き延びることが難しくなってきた。生き延びるために汚染された環境に適応していった。その中で進化したり、突然変異を起こした種のことを人間は魔虫と呼んでいるんだよ。」


 日本に魔虫はいなかった。私が生きていた二〇一九年は「大昔」なのだろうか。それとも、全く違う次元の世界なのだろうか。


 とにかく、進化であれ突然変異であれ、魔虫は虫たちが汚染された環境でも生き延びるため変化したものだということはわかった。きっと魔獣も似たような理由で出現したのだろう。大型の魔虫や魔獣は人間を食べてしまうこともあるらしい。小型のものでも襲われて噛まれたりしたら、そこから毒という名の高濃度の汚染物質が体内に流れ込んで、死に至ることもあるそうだ。だから虫も動物も絶対に触らないようにと学校で繰り返し注意された。


 私はこの世界に転がり込んでしまった自分の運命を、心の中で延々と嘆いていた。その間もナディームは熱心に何かを熱弁しているが、その声はとても遠くの世界から聞こえる違う言語のようで、私の耳からは全く入ってこなかった。気がつくと、いつの間にかルドミラはいなくなっていた。ナディームの話が面白くなさすぎて、いや、難しすぎて、自室に戻ったようだ。


 ……いやぁ!ルドミラの馬鹿馬鹿馬鹿!なんで勝手にいなくなっちゃうのよー!何で私をここに一人残していっちゃうのーーー!


 自室に戻った私は「はぁぁあ~」と特大のため息をついた。生まれも育ちも平和な日本だった私にとって、魔虫は衝撃が強すぎた。寝付くまでの間に、私は「絶対魔虫に遭遇しませんようにっ!」と百回ぐらい唱えた。その祈りも虚しく、私は間もなく魔虫に遭遇することになるのだが。

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