010 初日を終えて
私にとって長い長い学校入学初日が終わった。チャイムが鳴ったので、ゆっくりとマスクを首にかぶり、上着を着ながら帰る準備をしていると、教室のドアに大量の本を抱えたナディームの笑顔が見えた。
「カティア、帰ろうか。」
ナディームの顔を見て、少し安心して顔が綻ぶ。ナディームの方へ歩き始めるとオクサーナ先生が嬉しそうな声をあげた。
「あら、ナディーム。お久しぶりね。カティアは初日からとても頑張っていましたよ。覚えも早いし、算数はとても優秀です。ナディームが家庭教師でもしているのかしら?」
「カティアが優秀なんですか。それは家に帰ったら、父さんと母さんに報告しなくちゃ。」
ナディームは少し驚いたような、誇らしそうな表情を見せて、私の手を引く。
「オクサーナ先生、さようなら。」
「さようなら、カティア、ナディーム。気をつけて帰るんですよ。」
校門でルドミラも合流して三人で帰路につく。学校の中には暖炉があったせいか、外に出ると寒さが身に染みる。
「ナディーム、また図書室に籠ってたの?」
ナディームの抱える大量の本に目を遣ってルドミラは呆れたように聞いた。
「まあね。僕には、その方がいいんだよ。授業でしてることは、ほとんど知ってるんだから。先生も図書室に行け、て言うんだよ。」
「え。学校に図書室があるの?」
図書室があると聞いて私は心が躍った。この世界では、娯楽がかなり少ない。テレビもなく、決まった時間にラジオからニュースが流れるだけだし、カラオケもボーリングも映画館もない。買い物も、必要な物を買うのであって、欲しい物を買うのではないのだ。贅沢品が全くない。だから図書室で本を借りられるなら、読書で暇な時間を潰すことができる。
「あるよ。もうすぐ1年生は皆で行くんじゃないかな。カティアもいっぱい本を借りるといいよ。」
ナディームの抱えてる本に目を遣ると、歴史の本やら自然科学の本が見えた。
……ナディームって本当に勉強好きなんだなぁ……。
「学校で学ぶことのほとんどは、本でも学べるんだ。僕はたくさん本を読むから、いざ授業で習う時にはもう知っちゃってるんだよ。そしたら先生が図書室に行かせてくれる。で、もっと色んな本を読む。それで今みたいになってしまったんだ。」
少しバツの悪そうな表情を浮かべた。どうやら今、ナディームが一日のうち教室で授業を受けることは、ほとんどないらしい。ほぼ図書室に入り浸っているそうだ。
……私もそっちの方がいいよ……。特に算数の時間は……。
私は切実に算数の時間のことを考えた。
……今日、十までの数字だったから……明日は五十までとか……?あー、辛いよぅ。ずっと社会だったら、まだ耐えれそうなのに。そう思いながら私はふと、授業中に気になっていたことを聞いてみた。
「そうだ。ナディームとルドミラは魔獣とか魔虫を見たことがある?」
「私はないんじゃないかな。知らない間に見てるかもしれないけど、虫や動物は触ったら駄目って言われてるし。野良猫や鳥はいるけど汚染されて魔獣化してるかはわからないもの。大型の魔獣や魔虫は町に近づいてきたら兵士がやっつけてくれるから見る機会はないでしょ。」
「ふぅん……そっか。ナディームは?」
「…………ぼ、僕は……」
ナディームの顔が少し強ばった。これは絶対に遭遇したことのある顔だ。
「僕もない、な。」
追及はせず、そっか、と流した。続きは二人になった時に、ゆっくり聞こう。怖いのは嫌だけど、魔獣や魔虫がどんな物なのかは、興味がある。見た感じは普通の動物とか虫なのだろうか?それとも、全く違うものなのだろうか?
「父さんとか母さんは見たことあるのかな?」
「父さんは町の外に出るからあるかもね。母さんはない気がする。家でずっと家事と内職してるイメージしかないもの。」
「どんななんだろう……魔獣に魔虫。見たことないものは一度でいいから見たくなるよね。怖いのは嫌だけど。気になるっていうか……。」
「カ、カティア……。」
隣を歩くナディームがおいおい、と呆れた顔で見下ろしてくる。その顔に「危険なものに興味を持つのは止めてくれ」と書いてある。別に探して捕まえるするとは言ってない。どんなだろう、と興味があるだけだ。興味ぐらい自由に持たせて欲しい。
「確か、僕の部屋に魔虫の本があるはずだから家に帰ったら見せてあげるよ。」
「ナディーム大好き!!」
「ナディーム、私も見てみたい!」
「……けど……見て後悔するなよ?」
ナディームから嫌な冷気が漂ってきて、思わずブルッと身震いしたけど、 家に帰ったら、ルドミラと私でナディームの部屋にお邪魔することが勝手に決まった。ナディームはちょっと面倒臭そうな顔をしたけど、そこまで嫌そうでもない。兄妹三人でいると楽しいな。
……そういえば、妹はどうしてるだろう……。元気かな。
しばらく考えてなかった日本の妹のことを、思い出した。私がいなくなって寂しくないかな。ちゃんと見習いから一人前の美容師になれたかな。お母さんも……心配かけてたら嫌だな。仕事バリバリ続けてるのかな。日本の家族や友達、バイト仲間のことを思い出すと、小さく深い寂寥感が襲ってきた。
……いかん、いかん!魔虫の話だった!
カティアの記憶の中では、ナディームの部屋は本ばっかりあって、玩具みたいな遊べる物のない「面白くない場所」という印象だった。ルドミラの部屋には少しだけだけど母さんが作ったお人形やぬいぐるみがあって、よく忍び込んだ記憶が残ってる。けどカティアの中身はもう私に替わってしまったし、今はナディームの本だらけの部屋の方が魅力的に感じる。これからナディームの部屋の本を読み漁るってのもいいかもしれない。この世界のことや魔力のことも知ることができそうだし、早くあの算数の授業から抜け出せるようになりたい。できれば学校に行かなくてもいいぐらいのデキ過ぎちゃんになりたい。
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