002 はじめての外出
この世界に来て三日が過ぎた。いまだに私が三日前まで生きていた日本に帰れる気配はない。そもそも突如この世界にやって来たのだから、帰れるのも突然のことなのだろう。問題は帰れるのかどうかだ。もし帰れないのなら、誰かその事実を教えて欲しい。この世界で腹をくくって生きていくためには諦めも必要だし、帰れるのなら希望も必要だと思う。今の私には、そのどちらもなかった。
……だからお願い!!誰でもいいから帰れるかどうか教えて!!
とりあえず流されるままに生きると決めたこの三日で、この世界のことが少しわかった。
大気の汚染状況は酷く、外出する時は必ずマスクが必要なこと。
水質汚染も深刻で、水道水以外は口にしてはいけないこと。
プラスチックはないこと。
夜10時から朝6時まで電気は使えないこと。
魔獣、魔虫の他に魔木、魔花、魔草と呼ばれる魔植物があること。
衣類も化学繊維は使われておらず、天然繊維で出来ていること。
テレビもなく、1日に3回だけラジオでニュースが流れること。
「次はお天気です」
ラジオから流れる声に、私は注意を向けた。リビングの暖炉で薪がパチパチ燃えている音に天気予報が重なる。
「今日の午後から数日は高気圧に覆われます。風もほぼ無いため、大気も安定する見込みです。まだまだ寒さが続いていますが、外出に最適な週になりそうです。」
外出なら今週に、と天気予報士からの後押し付きだ。外に行きたくなった。朝食を食べながら、少し期待を込めてナディームとルドミラを見ると、ナディームと目が合った。私と同じエメラルドグリーンの大きな瞳が優しく細められる。
「この前は行けなかったからね。今日こそ行ってみようか。しばらく大気も安定するようだし。入学前に一度は行き方を見せてあげないといけないもんな。」
……よし!!やったよ!
外に出られないというのは、本当に気が滅入るのだ。こういう状況に身を置いて痛感した。自分の意思で家に引き籠るのと、自分の意志とは関係なく引き籠らなければならないのとは全然違う。おまけにテレビもスマホもネットもないから暇潰しさえできない。
外出が決まってニヤニヤが止まらない。この世界にやってきてから、初めて自然に笑えた気がした。
朝食を終えて、素早く身支度する。ナディームとルドミラと私は例の分厚い上着を着て、マスクをネックウォーマーのように首にかけ、靴を履く。大気計、魔力計は共に外出してもいい安全値だった。
「行ってきます」
母さんに外出を告げるて、歩き始める。外は身を切るように寒い。地面には霜が降りていて、うっすら雪に覆われているように見える。私たちのかすかな鼻息でさえも吐く度に白く凍って見える。寒いけれど、外気に当たると気持ちはいい。風が全く吹いていない分、日向にいると少し温かく感じる。家にいる時とは違い、開放的な気持ちになって、歩調も軽くなる。
学校までは歩いて七~八分。家から東へ真っ直ぐ住宅街を数分歩くと、左手に小さな小川がある。その小川に架かる橋を渡って、さらに住宅地を西へ進む。最初の路地を右に曲がると、少し広い公園がある。その公園の中を突っ切ったら学校だ。
学校の建物はレンガ造りの平屋で、『三びきのこぶた』のお話を思い出した。五歳から十二歳まで、ここに通うらしい。卒業後はほとんどが仕事に就くみたいだが、成績優秀者は高等教育を受けるため大学に行くそうだ。ちなみに十歳のナディームは卒業後、進学して研究者になりたいらしい。何の研究をしたいかは教えてくれなかった。七歳のルドミラはまだ将来については考えていない、と言う。日本にいた時の私を思い出した。二十歳を過ぎても自分の人生を決めるのは難しい。なのに、この世界では十歳過ぎで仕事を決めたり、進学を決めないといけないなんて。ルドミラに少し同情した。「カティアは何かしたいことがあるの?」と聞かれて返答に困った。
私は……まずは日本に帰りたいです!けど日本での進路は未定です。なんて言えるわけがない。
「まだわからない。けど、学校でお勉強頑張るよ。」
学校なんて行かずに済む道はないか、と正直思っている。だって私の中身は大学生なのだ。大学生が五歳児の中に放り込まれると想像したら恐怖しかない。子供は可愛いけど、二十一歳の自分が五歳児として過ごさなければならないなんて、神様は残酷すぎる。今からまた足し算とか引き算からするなんて退屈すぎる。読み書きは、たぶん覚えないといけないのだろうけど。それでもアルファベットが基本で、そこに見たことのない発音記号のようなものがついているだけなので、あまり難しくはなさそうだ。ヨーロッパの言語に似ているんだと思う。
目の前にある小さな学校を見つめながら、これからの自分の生活を思って一人憂鬱な気持ちになっていると、足元で何かが動いた。パッと目線を下に下げると、一匹の猫が私の足に頭を擦りよせようとしていた。
……へぇ。ここにも猫はいるんだあ……
馴染みのある動物がいたことが嬉しくて、自然としゃがんで手を伸ばす。猫の顔をしっかり見た瞬間、私は唾を飲み込んだ。「うわぁっ?!!」猫は怪我をしたのか、病気なのか、片目が潰れていたのだ。知らずに撫でかけた私の手が猫の目に触れるのと、焦ったナディームの「触ったら駄目だ!」と言う声がしたのは、ほぼ同時だった。
その瞬間、猫の目に触れていた私の手から、虹色のオーロラのような光が出た。突然のことに驚いて、思わず手を引っ込めると、潰れていたはずの猫の目は完全に治っていた。
……何っ?何っ?一体、何が起こったの?
猫はスッキリした表情で、足早にどこかへ行ってしまった。
何が起こったのかサッパリわからない私は、そっとナディームとルドミラを見上げた。二人はお互いに目を見合わせて、言葉を探しているようだった。表情から察するに、ナディームは何が起こったのかわかっているようで、ルドミラは私と同じように何が起こったのか理解できていないようで混乱している。ナディームが私の両肩を持ち、焦りの滲む表情で静かに話す。
「カティア……今起こったことは、僕がいいと言うまで絶対に誰にも話してはいけないよ。秘密だ。」
……だから何なのっ?まず起こったことを教えて!!
口調からして、なんだか大事らしい。今までの優しいお兄さんだったナディームとは別人で、体に力が入る。
その時だった。
「うぷっっっ……!!うぅっ……。」
思わず両手で口を押さえる。急激な吐き気が私を襲った。毒でも盛られ時の苦しみか!と思うほど急で強烈だ。気持ちが悪い。
うぅっ……は、吐いちゃう……
と思わず口から吐瀉したのはコップをひっくり返したぐらいの量の胃酸だった。胃酸を吐き出すと、激しい吐き気は、嘘のように治まる。その様子を見ていたルドミラは、私の背中を心配そうにさすり、ナディームは信じられないような物を見たように眉間に皺をよせていた。
「カティア……。大丈夫?体調が悪かったの?」
ルドミラが優しく声をかけてくれる。
「よくわからない……。けど、なんだか家に帰りたくなってきちゃった。」
「疲れてたのかもしれないね。ゆっくり歩いて帰りましょう。ね、ナディーム?」
ナディームは難しい顔を崩さず、何か考え事をしながら、来た道を戻り始める。私とルドミラが、それに続いた。なんだか雰囲気が一気に悪くなった。外出前は、カティアになってから初めて自然に笑えたのに、家に帰る頃には最悪な居心地になっていた。何より自分の存在が怖くなった。
……カティアって一体何者なんだろう……?
家に着くと母さんが出迎えてくれた。
「おかえり。久々に外を歩いて気持ち良かったんじゃない?カティア、学校はどんな印象だった?行く道は難しくなかったでしょう?」
「母さん、カティアはちょっと疲れてるみたいなの。少し気分が悪そうだから休ませてあげて。」
「あら、そう。どうしたのかしらね。とにかくベッドで横になりなさい。すぐにお水を持っていってあげるわね。」
私は何も言わず、ただ頷いて自分の部屋に上がった。ある日、起きたらカティアになっていただけでも混乱して、一生懸命慣れようとしている最中なのに、さっき起こったことが更に追い討ちをかけてくる。……もう嫌だぁ。早く日本に帰りたい……。誰に聞いて欲しいわけでもなく、私は声にならないような微かな声でボソッと呟いた。
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