エピローグ

第301話 決して夢ではない―私23歳―

「……結婚してください」

「……はい」


 この短いやり取りだけなら、それは至って平凡でありふれたプロポーズだ。

 ただプロポーズするにしても……雰囲気ムードは無い。

 一世一代の勝負を仕掛けるのに会社帰りのサラリーマンでごった返す電車の中は如何なものだろう。


 今のプロポーズに偶然立ち会ってしまった人たちも驚嘆としながら2人へと顔を向けていて、直ぐ隣に並んで吊革を掴んでいた私も当然、周りと同じような反応を見せるひとりだった。

 ……いや、周囲の人たち以上に今の前後の流れを知っている私としては、「え? どういうこと?」と驚きを見せるしかなかった。


音無おとなしくん? えっと、その……その人、お知り合い? ってか、今結婚しようって……え? 何を言ってるの?」


 そもそもプロポーズを行った彼、音無くんは今の今まで私とこれから行く居酒屋について話していたところだった。

 今夜はイカの一夜干しを肴に、日本酒をく~っと一杯! という話から音無くんは「僕は備え付けられたマヨネーズに七味をふんだんにかけてがーって混ぜるのが好きで――」って言ったところで、彼は隣にいた女性へと顔を向けてそのプロポーズを言い放ったわけだ。


「どうしてマヨネーズに乗った七味を混ぜるかどうかって話からプロポーズしてるの?」

「あ、織川おりかわさん。僕、この人と結婚します!」

「え? だからマヨネーズの……え? えぇぇぇっ!!」


 その後、この一件から彼らの交際は始まり2年後には宣言通り夫婦となった。





 同じ部署に配属された経緯もあるが、音無おとなしくんとは最寄り駅が同じということで、私たちは頻繁に居酒屋で飲み明かす仲だった。

 そして、今では初対面にも限らず、突然の求婚をあっさりと承諾をしたその彼女さんも新たな飲み友達としてご一緒するようになった。

 最初は(……こいつら、頭大丈夫か?)と無礼なことを思ったものの、彼女さんは中々に気さくな方で何だかんだで私も良い友人としてお付き合いをさせてもらっている。

 こうして今夜も彼女さんと合流し、私たちは行きつけの居酒屋さんへと足を運んでいた。


「それで、どうなの? 私みたいなお邪魔虫としょっちゅうつるんでくれるのはありがたいけど2人の関係はうまくいってるわけ?」

「それはもう順調です。今度の日曜日なんか私たち2人で住むアパートを探しに行ってきますよ」

「へえ、そうなんだ。2人で住むアパートって……それって同棲!?」


 君たちまだ出会って半年も経ってないよな?

 これが今の恋人ってものなのだろうか。

 この23年、今まで恋人どころかイロコイのイの字も無かった私には未知の世界だ。


(……出会いが無かった訳じゃないわ)


 けれど、まるで枯れたように異性に興味の無かった私は今の今まで誰ともお付き合いをしてこなかったのだ――と、そんな昔のことを思い出していると、彼女さんが日曜日のデートに私も誘ってきた。


「よかったら織川おりかわさんも夜に合流しません? 私たちと一緒にごはん食べましょうよ」

「……ううん。ありがたいけど遠慮しとく。折角のオフなんだから2人で楽しんできなさいな」

「それではお言葉に甘えて。……身持ちの硬い織川さんも早く彼氏ができるといいですねぇ」


 君たちのことを思って断ったっていうのに音無くんは憎ったらしい笑みを浮かべ、茶化すように余計な一言を付け足した。


(なんだよぉ。恋人を作る気分にならないんだか仕方ないじゃん)


 まあ、たしかに婚期を考えるとこの歳で恋愛経験がゼロと言うのは焦らなくてはいけないかもしれないけどさぁ。


「むぅ、私のことは良いのよ! 恋人なんて今は全然――ん?」


 ――と、3人でいつものように談笑を交えていると、1人の青年が道端の外灯の下に蹲っているのを発見した。

 青年は遠目からでもわかるくらい白に近い脱色をした髪を外灯に照らしていた。


(うお、こんな夜道にヤンキーだ。不良だ!)


 と、髪の色から安直に素行の悪さを疑い、普段なら不審に思って近づくこともしなかったが……どうしてだろう。

 私は思わず彼に駆け寄り直ぐに声を掛けた。


「……ね、キミどうしたの?」


 声を掛けてからはっとした。

 その子はどうやら外国の人のようだった。しかも、かなりのイケメンさんだった。

 私の声に反応して向けてきたその顔立ちは中性的というよりも女性に近い。ただ、蹲っているとはいえ骨格は男性のそれであったことから私の中の天秤は男性へと傾ている。

 彼が身じろぐたびにサラサラの銀髪が波立つように揺れた。


(あ、れ……?)


 俯いた顔と向き合った時、どうしてか彼の肌が白人のそれと同じであることに違和感を覚えた。

 しかし違和感は一瞬で、その後の私は思わず彼に見蕩れてしまった。

 彼もまた私と顔を合わせるなりはっとそのを大きく瞬かせた凝視してきた。

 続けて、驚く桜色の唇がぼそりとひと言口ずさんだ。


「……?」

「え?」


 ……ドキリと胸を高鳴らせてしまう。

 それも初対面であるはずの青年の口から両親や瑠奈るなといった親しい間柄でしか使われない愛称を呼ばれたからだ。

 どぎまぎしながら私はどう彼に声を掛ければいいか戸惑ってしまう。


「あ、えっと、……えー……あれ? なんて言ったら……」


 これでも語学力はある方だったが、今ばかりは緊張してか頭が真っ白だ。

 以前、たどたどしい日本語で海外から来た人に道を尋ねられた時は、すんなりと言葉に出来た英語が今この場に限って出てきやしない。

 

「そうだ、きっと貴女がラン……ランだ……絶対……っ……すまない。日本語は話せる。……心配をかけてしまったようだ」

「あ、そ、そそ、そうだったん、ですね?」


 彼は流暢な日本語で語り掛けてくると、あっさりとその場に立ち上がり私と顔を合わせてきた。

 背丈はやっぱりと私よりも高い。

 ちらりと尻目でふたりを見たが、驚いた調子でこちらを見つめるだけで助けてくれる様子はない。

 仕方なく引き攣った愛想笑いを浮かべてその美人さんと顔を合わせ続けていると、その人は言葉を濁らせながらも聞いてきた。


「その……あなたの名前を聞いてもいいでしょうか? あ……私は……イル……いや、ロカという。ロカ・リウリーだ」

「…………ロカ?」


 ……どうしてだろう。


「……あ、あれ?」


 その名前を耳にした途端、私の目から涙がポロっとこぼれだした。


「あれ、なん……ぐすっ……なんで、涙が……」

「ど、どうした!? わ、私が何か、粗相をしてしまった、か?」

「い、いえ、なんでもない。……ごめんなさい。私は、織川藍子らんこと言います」


 ……ああ、何が異性に興味が無い、だろうか。

 私はただの面食いだったわけだ。

 自分の浅ましさに嫌気がさす――。


(……違う。そんなんじゃない。彼は、彼は……っ!)


 自己嫌悪に沈む胸の奥で言いようのない感情が溢れだす。

 どうしてこんな気持ちになるのか、自分自身のことなのにわからない。

 今はただ、目の前にいるロカという青年と出会えたことが私は嬉しくて堪らなかったのである。







 その後、私織川藍子おりかわらんことロカ・リウリーは紆余曲折ありながらも交際を始めた。

 出会った当初、彼は20歳の留学生でフクザツな家庭環境から逃げるように日本へと訪れたと自嘲気味に教えてくれた。


(おふたりとも……初めまして。ロカ・リウリーです)

(……あ、ああ、うん! よろしく。ロカくん!)

(こちらこそロカくん、はじめまし…………あれ、はじめまして、だよね?)


 ただ、それでも私はロカと出会えたことが何よりも嬉しかった。

 私たち4人は時間さえ合えばいつだって集まり、同じ時間を共有し合った。

 殆どが仕事上がりの飲み会で、下戸でひとり飲めないロカには散々迷惑をかけたが、彼は嫌な顔一つせず私たちと……私に付き合ってくれた。

 懇意にしてくれる友人2人がいて、すっかり惚れ込んだロカがここにいて……。


「いつまでも、こんな時間が続けばいいのになぁ……」


 まるで夢のようなひと時だった。

 でも、この時間は1年ほどで終わった。


 ある日、ロカの父親が急死したことにより彼は急きょ帰国を余儀なくされた。

 日本には留学という名目で逃げていたロカも曲がりなりにも親の庇護下にいた為、こればかりには戻らなくてはいけなくなったのである。


『でぇ……あんた、その囲った美男子クンについて行くわけね』

「ちょっと、瑠奈るな! 囲うなんて人聞きの悪い! 私はただ彼が心配で……」


 当然と私は会社を辞めて彼を支える為について行くことにした。

 そりゃ両親や今電話をしている瑠奈からも、ものすごい剣幕で思い直すよう引き留められた。


「瑠奈だってひとのこと言えないじゃん! あの15歳だか年上の彼とはどうなったのよ!?」

『うっ……ええ、まだ全然相手にされてない。ひどくない? あの人……もう25歳だっていうのに、あたしのこと未だに小娘扱いしてくるのよ? でも、あたし諦められないの』

「瑠奈……」

『あの人には誰かがついてあげないといけないの。じゃないと、あの人何処か遠くへ行っちゃいそうで……それはあたしの役割じゃなくてもいい。でも、だからってどこぞの馬の骨になんかに任せられないっての!』


 でも、私の決心は硬かった。

 例え瑠奈であろうとも私の想いを止めることはできない。

 きっと私の強情なところは瑠奈に影響されたのだろう。

 

「……と、そろそろ彼、シャワーから出るみたいだからそろそろ切るわね」

『シャ、シャワー……うわぁ……あの可愛かったランの口から聞きたくなかった言葉だわ……お姉さんに黙ってランも大人の――』

「い、いいから! またね! あっちに行っても連絡するから!」

『はいはい。……辛くなったら直ぐに戻ってくるのよ。色々言ったけど、あたしはいつだってランの味方だからさ』

「……うん。ありがとう。またね」


 ロカのフクザツな家庭環境の一端として彼には腹違いの妹がいるそうだ。

 その子はまだ生まれて間もない乳児で、今回の彼の父親の死因である交通事故での唯一の生存者でもあるそうだ。


 ――彼女を1人にしていられない。


 これまたどうしてか私はその見たことも会ったこともないその赤子が気掛かりであった。


「……なあ、ラン。本当に私と来るのか?」

「……行きます。ロカがついてくるなって言っても、私は絶対について行く」

「ラン……」


 瑠奈との電話を終えた後、湿った銀髪を揺らし、私と色違いのパジャマを着たお風呂上がりのロカが私の隣に座った。

 彼が私のアパートに泊まりに来た時はいつもこのお揃いのパジャマだけど、なんだか彼にはミスマッチでちょっと面白い……でも、今はその話は置いておく。

 私は並び座る彼の手を握って言った。


「ロカは私についてきてほしくない? これでお別れなの? 私、嫌だよ……」

「……ラン、私だって同じだ。私はもう貴女を離したくはない。もう、絶対に……!」

「なら、これ以上、何も言わないで……ね、ロカ?」

「ああ……すまない。どうか、私についてきてくれ……」

「うん……!」


 必要のない確認をした後、私たちは自然と肩を寄り添いあう。

 そして、お互いが今ここにいることを確認するように唇を重ね合わせた。






 ロカの母国に移り住み、遺産相続やら会社経営権がなんだと予想以上にうんざりする面倒事を何とか全てを片付けた後、私たちは晴れて籍を入れた。

 入籍について両親や瑠奈には事後報告となってしまい、今回ばかりは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 事後報告となった理由は私とロカの間に子供を授かったからだった。

 その後、何事も無く双子の赤ん坊が生まれた。


「名前、どうしよっか」

「……実は最初から決めていたのがあるんだ」


 生まれたばかりの我が子たちを両腕に抱きかかえながら私は愛しい彼へと顔を向けた。


「何かしら?」

「……ひとりはルイ」

「ルイズ、じゃなくて?」

「ああ。自分の子が生まれたらどうしてかルイって名付けようって思ってた。それが娘でも……駄目かな?」

「……ううん、良いと思う。じゃあ、もうひとりは……」


 と、私は口にしながら彼に抱きかかえられたさんを見てしまった。

 まだ2歳児であるウリアさんは我が子2人へと小さな手を伸ばして顔を綻ばせていた。

 名前を決めるのにどうしてウリアさんを見てしまったのだろう。

 けれど、彼女の愛くるしい顔を見ていると、ふと、レティ――と言う愛称が頭をよぎる。


「……じゃあ、そうね」


 では、今頭に浮かんだその愛称をもじって……。


「レイなんてどう?」

「……どうして2人とも男の名前なんだ」

「ルイって先に提案したロカがそれを言う?」

「ふふっ、そうだな……すまない」

「まったく……ふふっ」


 ――泪が零れる。

 彼の温めていたルイという名前に対して、咄嗟の思い付きとは言え、レイという名前は自分でも中々にいい考えじゃないかしら。


「じゃあ、あなたがルイ――」


 と、私は産まれたばかりのへと呼びかけようとした時――。


「……ォギャア、オギャア!」

「あ、あれ? ……どうしたの?」


 今まで大人しかったが突如として泣き出してしまったのだ。

 直ぐに泣き声は止んだのが、彼女は赤子が見せるには不釣り合いな強い視線を私に向けてきた。

 まるで何かをせがんでいるような、いや、まさかね……。


「……あなたはレイ」

「オギャア、オギャア!」

「レイ……」

「オギャアァァ、オギャァァァ!」

「……ルイ?」

「きゃっきゃっ!」

「えぇ!?」


 彼女に向かってルイと口にした途端、次女は嬉しそうに笑い声を上げた。

 これには私たち夫婦も顔を見合わせる他に無かった。

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