第299話 瞬く幸せ

「あ……ああ……っ!」


 こんなにも気持ちが昂るなんていつ以来だろう。


 嬉しい。

 嬉しくて堪らない。

 嬉し過ぎて泣きそうだ。


「信じ……られない……」


 それも1日足りとも忘れることのなかった、愛しい彼女が横たわる僕を上から覗き込んでいたからだ。

 今、僕はその愛しい人の膝枕で横になっていた。

 見えない目ははっきりと、レティか、それともルイの顔を捉えている。

 その子は最後に死に別れた後の当時と変わらない容姿をしていた……両目が青と赤のオッドアイであることを除いて、だ。

 目の色が違うことなんて些細なことだった。


「はは……嬉しいな。やっと、好きだった人の夢が見れた……」


 笑みと共に独り言が漏れた。

 ただ、その人は僕が目を覚ましたことに驚いた後、直ぐに泣きそうな顔をしながら微笑んでくれた。

 やはり、夢だ。

 まったくと見えない僕が、その人の顔をはっきりと見ることが出来ている。

 これが都合の夢でなくて何という。


「……なんだろう。ルイに見えるのに、レティにも見える。だめだなぁ……好きな女の子の顔の見分けがつかないなんて……」


 そう言って僕は膝枕から起き上がり、胡坐をかいて彼女と向き合った。

 彼女の膝枕は名残惜しかったが、どうせ夢だ。


「シズ、ク……」

「うん……ごめん。きみはどっち? ルイ? レティ?」


 向かい合った後、その子は俯いて喉を震わせて僕の質問に答えることはできないようだ。

 けれど、僕の知る彼女はめそめそとしているだけじゃない。

 彼女は自分の首に手をかけ、そこにかかっていた鎖を引き千切る。そして、だらりと下がった僕の左腕を手に取って――。


「……これ、無くしてたと思ってたのに……」


 彼女は僕の左手の薬指に3人お揃いの指輪をはめてくれた。

 それから、握り込ませるように鎖に通っていた見覚えのあるペンダントを渡してきて――指輪に気を取られている間に、彼女は飛び掛かるみたいに抱きついてきた。 


「……会いたかった。ぼく、ずっとシズクに会いたくて、たまらなかった……!」

「ルイ…………ルイっ!? あ、ああぁ……!」


 ……夢だと思った。

 都合のいい夢に浸っているのだと思っていた。


(……嘘だよ? だって、レティもルイも、僕は2人が殺されるところを見た)


 けれど、僕が触れているのは紛れもなく本物のルイだった。

 失いかけていた視覚と聴覚がこの場に限って元通りになったように、すっかり忘れていた触感がルイの熱に反応する。

 感覚が希薄になったとしても、この熱を、感触を、たとえ意識がもうろくしたとしても、僕は一度だって忘れたことなんてない。

 失ったと思っていたもの。

 それが今、僕の腕の中にいる。


「ルイ、ルイっ!」

「うん! ぼくだよ! ルイだよ!」


 だからこそ、これは夢じゃない――夢でも良い。

 これが夢だって言われたって構うものか。

 今はただ、ルイをこの手で、この腕で、この身体で感じ取る。

 どんなに強く抱き締めてもこの夢は消え去らない。

 逆に同じ力で強く抱きしめ返してくれる。

 に……ルイに与えられる痛みこそが、これが夢でないことの証でもあった。


「よかったっ……君だけでも、生き延びてくれていたんだね……」

「……お生憎様。わたしもしぶとく残っているわ」

「ルイ、何を言って――…………なんで、ルイの中にレティがいるの!?」


 はっと力を抜いて胸の中にいる彼女ルイを見下ろすと、そこにはむっと眉を吊り上げる彼女レティがいた。


「……やるじゃない。こちらから何も言わずにわたしがルイの中にいることを当てたのはあんたが一番最初よ」


 そう言って彼女はその吊り上げた眉を落として、照れ臭そうにルイと同じく強く抱き締めてくれる。


「……現にわたしは死んだわ。でも、ルイによって生かされたの」

「訳がわからないよ」

「さっきまで肉体もあったのよ? けど、ついさっきその身もあっさりと崩れ去ってね。即席で作ったものだったから時間切れってところかしらね」

「だから、何を言ってるかさっぱりだけど……でも……」


 でも――後の言葉はいらない。

 今はどんな形であれレティとも触れ合えることの方が僕には大事だった。

 僕らはその後も強く抱き締め合ったまま、レティは話を続けた。


「その緑色に光る球体がわたしたちを導いてくれたの。その光の導きが無かったら、わたしたちはずっとこの場所で立ち止まり続けていたわ」

「球体……あ?」


 言われて僕はやっと自分の手の平に浮かぶ球体へと視線を落とした。

 淡く緑色に発光している球体はエキナさんから受け取った大きな種子だった。

 エキナさんとのことも僕は夢の一部みたいに思っていたけど、あれも現実だったのだろう。


(……大丈夫。今渡したその力が正しく作用すれば、あんたはきっと救われるよ)


 エキナさん言い残した言葉の意味がこれであるなら感謝してもしきれない。

 彼女の言う通り僕は確かに今のこの時、心から救われている。


「そっか……これが繋がる力か……」

「繋がる力? 何、シズクどういうこと?」

「ううん。エキナさんに感謝ってことだよ」

「エキナ? 誰だっけ? わたしどこかで聞いた覚えがあるんだけど……」

「なんでもない!」


 唯一の家族と化したエキナさんに胸の奥でありがとうと呟き、今はこの愛おしい2人との抱擁に身を任せる。


(……このままずっとこうしていたい)


 彼女たちとこのまま強く抱き締め合っていたい――けれど、そんなことを許してくれるほどこの最低な世界は許してくれない。

 この空間にいることで、僕は目の前にいる2人とは別に外の状況も感じ取りだしていた。

 外は敵意に満ちている。

 誰もが僕を殺したくて堪らないとばかりに感情を昂ぶらせている。

 また、この空間にいることで今この場にいる彼女ふたりにもかなりの悪影響を与えていることだろう。

 ぎゅっと抱きしめ続ける彼女の身体から、魔力が僕の身体へと吸収されていることがわかるんだ。

 興奮している為か、自分の体調の変化に気が付いていないのだろうが、いずれ近いうちに彼女たちの生命を僕という存在が吸い取ってしまうだろう。


(何より、この2年間ずっと感じていた空から迫り来る脅威にも……)


 月の落下――それだけはどうしたって防がなきゃいけない。

 ふたりのためにも。

 

「……ひとつ聞かせてほしい。今まで僕と殺し合……いや、戦っていたのは、ルイたちなんだね」

「うん……そうよ……ぼくらはシズクを殺すために……わたしたちは必死になっていたわ……」

「そっかぁ」


 大切な2人を失い、残った自分すら拒絶するこの世界なんて僕はどうなっても構わないとすら思っていた。

 この世界なんて大っ嫌いだ。

 けれど、2人が生きていると知った後であれば話は違う。


 ……例え自分のエゴだとしても、大切な2人だからこそ、最後の最後まで生き続けてほしかった。


 その為、この先、僕が死んだ後も彼女たちが生き続けるしかないこの世界はあり続けなければならない。

 そして、その為に彼女たちに殺されるなら――。


「……本望だ」

「何、シズク?」

「ううん。なんでもない……ルイ、レティ、聞いて」

「「何?」」

「僕は2人のことが大好きだ」


 だからこそ、僕が成すことは決まった。





 周囲に実体化していた魔力を操作しこの空間を解除する。

 ノイターンの魔力操作はシズクかれから伝授されている。

 100年近く共にした分、今の僕なら苦も無くこの力を使いこなせる。


「わっ、っと……外だ!?」


 今まで包まれていたノイターンの魔力から解放され驚き戸惑う2人を抱きかかえて、僕はその場を浮遊する。

 胸の中にいる彼女たちが僕へと顔を向けて何やら語り掛けてくれた。


「シズク……シズクが外に出してくれたの!?」


 ただ外に出た僕に彼女たちの声は届かない。

 声は遠く、眼も見えず、彼女たちに触れているかも定かではない。

 けれども彼女たちの存在は確かにこの胸の中にいることだけは実感している。


「……今から月を押し返すよ。これからも2人が生き続ける世界を僕が守ってあげるから……」

「シズ――」


 ふたりを抱き留めながら僕は右腕に火迎えの籠手を出す。

 すっと息を飲み、意識を魔道器へと集中――。


「……いっけぇぇぇ!」


 火迎えの籠手を空へと掲げ、手甲を起点に身体中に纏ったノイターンの力を空へ向けて解き放つ。

 僕を滅ぼすためにだけに、この星へと向けられた脅威を追いやるために。

 禍々しいノイターンの魔力はこの身に宿ったものから、周囲に纏わりつくもの全て、あふれ出す激流のごとく余すことなく空を昇っていく。

 後には空っぽになった微弱な僕だけがこの場に残った。


「これで、終わり……あ……」

「シズク……!」


 全ての力を空の彼方へと放出した後、僕の身体は糸が切れたみたいに力が抜けていった。

 後はカッコ悪いけど、ルイに抱きかかえられながら地上にぽっかりと開いたクレーターの中へとゆっくりと降り立った。


 外に出た途端、前と同じく五感が希薄になった。

 目も、耳も、近くにいるルイの体温も感じ取れない。

 ただ、感触を感じ取れなくとも、僕を横たわらせようとする仕草一つ一つからルイの優しさを感じ取る。

 これが何よりも嬉しくて瞼の裏を熱くした。


(……綺麗だな)


 僕を見下ろす彼女たち、その背に広がる空がやけに青く見えた。

 ぼんやりと、おぼろげな、それでも確かに僕の目は彼女たちと、その空の色を目に染める。

 彼がこの世で一番見たかったもので、僕がこの世で一番に好きな色だ。


「……今だよ」

「……え?」


 僕の頬を撫でながら安らかに微笑むルイに向けて言い放った。


「ノイターンの魔力を放出した今の僕なら、再生もしない。とどめを刺せる」

「シズク……!」


 耳は聞こえない。目も見えない。頬に触れる感触もわからない。

 けれど、彼女たちが今、どんな顔をして僕の名前を呼んだかはわかった。


「……そんな、そんなのって……やっと、やっとシズクと、会えた、のに……だめ……だめだよ……っ……できない! ぼくには出来ない!」


 ルイは子供みたいに首を振って激しい拒絶を見せているようだ。

 でも、僕も、レティも知っている。だからこそ彼女を気遣う言葉は発しない。

 どんなに嫌がる素振りを見せようとも、ルイの決心は固まっていることを僕は悟っている。

 だって、彼女たちは100年も愛想を尽かさず僕を探し続けたんだから。

 これはその最後の抵抗みたいなものだった。


「ああああああああああああああぁぁぁぁぁ……っ!」


 遠くなった僕の耳に届くほどに、聞いてはいられない絶叫を上げ、ルイが地面を強く叩く。

 例えぼやけていたって、こんな哀れな彼女の姿なんて見たくなかった。


(……いいんだ。ルイがやる必要なんてないよ。こんなこと、僕はルイには頼みたくない。だから……)


 そう言葉をかけてあげることが出来たら、どれだけ良かっただろうか。

 けれど、それが許されるほど今の僕らには時間は無かった。

 今も無数の殺意がこの場所に近づいてくる気配を僕は感じ取っている。


(まさか、殺気やら気配なんて見えないもの感じ取れる日が来るなんてね……)


 わかっていたこととはいえ随分と嫌われたものだ。

 以前なら死ねるなら誰に殺されてもいいとすら思っていた。

 ただ、今みたいに正常な状態でいられることなんてなかったから、素直に殺される真似も出来なかったけど……。


(……殺されるなら、僕はこの人たちがいい)


 世界中を敵に回しても守りたい愛しいひとに自分を殺させるなんてなんて酷いやつだろう。

 けれど、だからってやっぱり――。


「……レティ」

「……何?」

「……ごめん。よろしく。最後まで迷惑をかける」

「……っ……あんた、酷いわ!」


 僕は喚き散らすルイの方を向いて、彼女を呼びかけながらレティへとをした。

 レティの返事はやっぱり聞こえない。

 けれど、僕に罵声を浴びせながらもその最低のお願いに頷いてくれる気配を感じ取る。

 ルイは今の僕らのやり取りに疑問を想うことは無かったみたいだ。

 まるで過呼吸のように息を荒げ、おまけに泣きそうな顔をして、仰向けに寝っ転がる僕を見下ろしている。

 覚悟が決まったのか、ルイはその右手に大きな刃物を出現させた。

 きっと……旅の間に何度と見た氷絶のつるぎだろう。

 ルイはおもむろに近づいてきて、逆手に持ち直したその剣を僕の胸へと掲げる。


「シズク、ごめん……ごめんなさい……っ!」


 ルイは謝ってきたと思う――だから、僕もそれに答えた。


「それは僕の、ううん……の言葉だ。ルイ」


 何を言って? とルイが一瞬不審がる。

 けれどもう彼女に迷いはない。

 謝罪を口にするルイの氷絶のつるぎが、僕の胸を貫いた。






「なっ……えっ……は……?」


 溢れだす思いに言葉が追い付かない。

 何が起こったのか、理解できない。

 だって、シズクの身体を貫く感覚が――ぼくには得られなかったからだ。


「……レティ、嫌な役割を押し付けて、ごめんね……」

「本当よ……馬鹿…………ごめん、ルイ」


 それもシズクの身体を貫いたのは、ルイではなくわたしだからだ。

 日頃からシズクを殺すと公言し続けたところで本番になって本当にやれるかどうかは別の話。

 だからこそこうして動揺を見せたルイから身体の支配を奪い取るのは簡単だった。

 驚愕するルイを胸の内に感じ、わたしは想像を絶する不快な感触に身体を震わせた。 


「……酷いよ……酷いよ、レティ!」


 これじゃあ、レティがシズクを殺したようなものだ。

 今のレティはぼくである。

 だから、ぼくも同罪であるはずだ……けれど、納得なんてできない。

 シズクの身体が傷口からじんわりと凍り始める。

 いつもなら一瞬で凍り付くはずなのに、まるでお別れの時間を与えてくれるみたいに、現実はぼくたちに優しく時を緩めてくれる。


「最後まで、ルイに人を殺させたくなかった……それが、僕であっても……」

「レティならよかったの!?」


 氷絶のつるぎに胸を貫かれたまま、シズクがぼつりと呟き、ルイは言い返していた。

 本人の言うようにルイに人を殺させないためか。それとも、わたしに殺されたかったのか。

 今となってはわからない。

 シズクの真意は先ほどの目配せ程度のやり取りの間では図ることなんて出来ない。

 咄嗟のことだったが、わたしだってシズクの意を酌んで行動を起こしたのだ。

 シズクは誤魔化すように微笑むだけで、ルイの疑問に答えることは無かった。


「レティ……ありがとう」

「もう、いいわよ……この馬鹿!」


 そう言ってレティは氷に覆われてしまったシズクの胸を小さく叩いた。

 ……本当はわかっている。

 いつもぼくはシズクを殺すと言ってきたけど、胸の中では激痛を感じるほどの拒絶が起こっていた。

 ぼくは2人に大事にされてきた。これも全てはぼくを想ってのこと。

 それがわかっているからこそ、今はもう……次に出すぼくは言葉は、罵声ではない。


「……シズク、レティ……ありがとう……」


 ルイには申し訳ない気持ちがある。

 けれど、謝罪を口にする暇はない。それほどまでにわたしたちに残された時間はない。

 今のわたしとルイは一心同体だ。

 言葉にしなくても、お互いの気持ちは理解しあっている。


「レティ……ルイ……」


 今、残りわずかなこの時の間にしたいこと――ぼくの考えに、わたしは同意をする。

 シズクが眠りにつく……その前に、わたしぼくたちはシズクへと近寄り、お互いの唇を触れ合わせようとする。

 いつまでも、いつまでも……その身が氷に覆われるまで、シズクの命が尽きる、その時まで――。


「……ひどいや」


 けれど、唇が触れる寸前、今まで緩やかだった時間が元に戻るみたいに、シズクの身体を氷で覆ってしまう。

 ぼくわたしらの間にはもう埋めることのできない距離が出来てしまった。


「あ……ああ……」


 そして、嘆く間もなく、シズクは粉々に砕け散った。

 淡い光を纏った破片が周囲に飛び散る。

 吹き付ける風によってその破片も宙に舞う――嘆く間もなかった。


「おやすみ、シズク……」


 宙に舞うきらめきを目にしながら、ぼくらはぼそりと言葉を紡ぐ。

 今までシズクだったものの残骸に膝を付き、わたしたちはぎゅっと目を瞑った。

 今はただ、世界中で一番大切だった存在との別れを忍ぶために……。


(さようなら――……はまだ、言わないよ)


 ぼくらは、わたしたちは、そういなくなったシズクに思って、一筋の涙を流した。





















 ……長い旅路が終わったようだ。

 ゆるやかにかかるブレーキと共に、誰も載っていない車両で僕だけがその身を揺らした。

 車窓の外も同じ様にゆるやかにその身を遅らせる。

 しばらくして、列車は止まった。


「……そっか。これが終わりってことか」


 僕はいつもの指定席であるボックス席から立ち上がり、今まで何人も見送ってきた客車の外へと導かれる様に無意識に足を進めた。

 何の感傷もない。

 ただ、今は列車から降りることが僕にとって最優先だった。

 降りた先がどこであっても――。


「……行こう。僕の最後の場所へ」

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