第298話 世界滅亡が目の前に広がる
夜行鬼神ノイターン。
およそ1000年も前に世界を脅かした最悪の鬼人族である。
ノイターンは歩くたびに地面を震わせ、手を振るだけで遠くの山を崩れ去る――これは“とある存在”から聞いた話でもある。
真偽の程は確かめようが無いが、その話が本当であるならば、ノイターンはヒトという矮小な身でありながら天変地異と同義と化した存在だった。
「……変だ」
上空から眺めていたこともあるが、彼らを一番近くで感じ取っていたからこそ、その異変にいち早く察することが出来た。
つい先ほどまで僕らは彷徨うオアシスの中心部より、黒い雨が空へと降り注ぐ場面を目撃していた。
一線一閃流れるその雨粒は死そのものだ。
一滴でも触れてしまえば、藻掻き苦しむことなく、その身はあっさりと焼け尽きることだろう。
その中を一匹の蝶が懸命に羽ばたきを見せ――ルイたちが、意を決して攻撃の始点となるオアシスへと特効を仕掛けるところも見届けた。
問題はその後だ。
「……これは、まさか!?」
「オイッ! 何ひとりで驚いてんだよ!」
黒い雨は降り止んだ直後、僕が張った植物の障壁がじわじわとその身をしぼませていく気配を感じ取る。
この感触は今まで数度対峙してきた【影】との戦闘中に味わった感触と同じ――瘴気に触れている時と同じものだった。
「亜人の長! オアシスから尋常じゃない多量の瘴気が発生している!」
「なんだとッ!?」
僕らも地人たち因んで瘴気と呼ばせてもらっているが――あれは、
ノイターンの身から洩れる紫色をした半透明の魔力は触れた対象の魔力を奪う――それは何もヒトに限った話ではなく、動植物も例外なく根こそぎ食らいつくされる。
ノイターンは絶対的な生命の天敵でもあった。
本家よりは効果は薄いがそれは【影】により生じた瘴気も同様で、発生源を叩くまで、いつまでも消えることなくその場に停滞し続ける。
広範囲に瘴気が渡った場合、そこはもうヒトの住めない死の大地と成り果てる――。
僕は懐に忍ばせていた通信用の魔道器を取り出し、一斉に同胞たちへと呼びかけた。
≪この場にいる者、全員に告げる! 彷徨うオアシスより多量の瘴気が発生した! 今すぐ戦闘を止め、直ちにオアシスより退避せよ! 繰り返す――≫
僕は魔道具に語りかけながら、跨った亜人の長へと指示を出そうと――。
「亜人の長よ、今から僕と――」
《おおい! どうなってる! ルイが、あいつら、やったんじゃないのかよ!》
この重大な場面で、鬼人の長から
一瞬の間を開けてから、僕は亜人の長への指示を止め、負けじと振り絞るように大声を念じ返した。
《……連絡したとおりだ! 説明している暇はない! 鬼人の長よ、まずは君たちも気絶した地人たちを連れてなるべく遠くへ逃げてくれ! 僕らも追って合流する!》
《ちぃ……しゃあねえな!》
鬼人の長の残響を払うように首を振ってから、僕は亜人の長と共にこの戦場を飛び回り、周囲の地人たちにも退避するように呼びかけ続けた。
当然、敵の声を聞く者は少ない――が、既に瘴気は僕の張った防壁を食い破り、地面を這いずるように範囲を拡大させているところを指させば、否応にも従わざる負えないと言った形で彼らも撤退を開始してくれる。
幸い瘴気の勢いは弱い。
なんとか僕らは戦闘を中断させ、この場にいる者たちほぼ全員を退避することが出来た。
――既に絶命した者たちや、瘴気の発生に伴い動きを止めオアシスへとその身を向ける【影】はその場に残り続けた。
◎
十分な距離を後退させた後、僕ら2人も里の長たちと合流を終えた。
感謝を伝えながら亜人の長の背から降りると、愛すべき妻2人が一目散に駆けつけ、僕も両手を広げて抱き留めた。
予想外にも瘴気の足は彷徨うオアシスを囲うように覆っただけでそれ以上に広がりを見せなかった。
今では黒く禍々しい半球体が地面から顔を覗かせているように瘴気はその勢いを止めた。
「オイッ! しびれを切らした地人族たちがオアシスに進軍し出したぞ!」
「……」
きっと神の寵児たちを行かせるのだろう。
本来の竜人の姿で空を飛ぶ亜人の長の言葉に僕は無言で頷くことしか出来ない。
黒い少女の加護を受けた彼らなら、あの瘴気の中でも十二分に活動が行える。
先ほどとは違い、一軍となった地人たちを抑えて彼らの足を止めることはできそうにはない。
「……あいつら、やっぱり強かったな。おれですら足止めするのが精いっぱいだった」
「……いや、レク。十分だ。死ぬことも死なせることも無く――君は最高の働きをしてくれたよ」
キッカ嬢に肩を借りながら、ボロボロになったレクが歯痒そうに口にする。
労うように彼の肩を叩くとレクはその場で崩れるように地面にしゃがみ込んだ。
「……ともあれ、神の寵児たちを向かわせても肝心な決め手に欠けるだろう――」
魔王レーネを滅ぼすためには異世界より転移してきたキョウスケとカナデの2人の力が必須だ。
しかし、その2人もイルノートとリウリアにより現在は我が陣営に捕らえられている。
「――だからと言ってこのまま彼らを向かわせるのも――……っ!?」
と、僕が進軍した地人たちの対処を提言しようとオアシスへと顔を向けた――その時、僕は言葉を閉ざした。
それもオアシスを覆っていた瘴気に変化が生じていたからだ。
半球体を保っていた瘴気はまるで粘土を弄るかのように、その形を歪ませはじめ、両腕と頭……人のような形へと変貌していく。
そして、いつしかそこには……地面から上半身を生やした【影】がいた。
ただし姿形は似ていても、それが度々目撃し僕らが相対していた存在とは到底思えなかった。
「なんだ、あれ……はは、でっけぇ……」
そうだ。
口を滑らせたレクが言うように、その【影】はあまりにも巨大過ぎた。
その巨体と比べてしまえば、未だその場に残っている【影】が石ころに見えてしまう。
「歩くたび地面が揺れ、遠くの山も手を振るだけで崩れ去る……か」
なるほど――と、この場にそぐわなくとも思わず頷いてしまいそうだ。
この場にいるほぼ全員があの巨躯を遠くより眺め、失意の念に暮れる他なかった。
「シズク……君は本当に、僕を驚かせるな」
「……まだよね? まだ、何か手があるはず……そうよね、アニス……」
「……アニス。ルイさんは、ルイさんはどうなったんですか……?」
愛するフィディとリターが僕へと怯え切った顔を向けてくる。
けれど、今回ばかりはこの僕もふたりの不安を取り除くような言動をとることはできなかった……。
あの大きな腕を地面につけて、【影】は埋まった下半身を地面から抜け出そうとする動きを見せる。
同時に発した悲鳴みたいな咆哮は、こんなにも遠くいるのに周囲の空気を震わせるように僕らへと届いた。
もう、この世界は終わる。
月が堕ちるよりも先に、
「……ごめん。リター、フィディ……もう――」
「……まだだ。まだ、終わりじゃねえ。あのバケモノの中で、あいつらは生きている」
はっと、僕は言いかけた言葉を止めて、その声を上げたものへと顔を向けた。
そこには消沈する同胞の中、ひとりだけ顔を上げて凛として佇むキッカ嬢の姿があった――。
◎
シズクの身体から発生した黒い霧状の瘴気はぼくらをあっさりと飲み込んだ――瘴気に戸惑う間もなく、隙間なく塗りつぶされた暗黒の中にぼくはいた。
今は目を閉じているのか開けているのかも定かではなく、腕や足、頭、全ての感覚が――体というものを認識できていない。ただ、ないとしてもあの最後に焼き付けたシズクとレティの顔だけは、しっかりとこの両目の奥に残っている。
今のぼくは立っているのか、それとも宙に浮いているのか。
先ほどまでいたオアシスの気配なんてどこにも感じられず、まるで真っ暗な洞窟の中に放り込まれたかのように思える。
ただ一つ確かなことは、レティの意思もこの何処ともわからない場所に存在していることだ。
自分自身の身体は認識できないのに、離れた半身の存在は認識できるなんて不思議な場所だ。
(……ここは、どこだろう? ねえ、レティ? ……レティ? レティ!?)
頭の中で強く念じ、最愛の片割れに声を掛けるが全くもって返事はない。
平時であればぼくらは伝えようと思う間もなくお互いの思考を共有している。
それは良くも悪くもと言ったところで、その感覚が当然と感じられる様になるまで、何かしら衝突したこともあった。
その思考の共有が現在出来ていない。けれどレティの存在は感じ取れる。
もしかして、レティが新しい身体を手に入れたことで思考の共有が途切れたとか?
(……いや、それなら2つに別れた後もそうなるはずだ)
泉の中でレティと分離した後、ぼくらの思考は繋がったままだった。
声を掛ける必要もなく、次にどんなことをして、どんな対応をして、それによりどんな結末を迎えても受け入れる覚悟すら、全て余すことなくぼくらは認識し合っていた。
(この闇の中でもレティは必ず近くにいる……暗闇に惑わされるな)
無い目を閉じ、無い唇をぐっとつぐむ。
(……レティ、どこ? レティ……ねえ、いるんでしょ……?)
……孤独を覚える。音すら聞こえない、こんな場所で、1人。
だからこそ、臆することなく心を保っていられたのは、レティの存在を感じられるからだ。
「……レティ! いるんだよね!」
今のぼくにはレティがいる。
だからこそ、ぼくは届くと確信して……届かなかった言葉を、再度、レティへと送り続ける。
ぼくひとりだったら、きっと怯えて何も出来なかっただろう。
「……イ、どこ!?」
でも、ここにはレティがいる。
レティも同じ様にぼくを探してくれていると信じていたからこそ、ぼくらは直ぐにその手を掴み合えた。
「ルイ、返事をしなさい!」
「レティ、ここだよ!」
2人して声を上げて、呼びかけ合い、同時にお互いの手を取り合う。
レティはずっとぼくの隣にいてくれた。
「ルイ!」
「レティ!」
ぼくらは抱擁を交わし、お互いの存在を感じ取る。
レティとの触れ合いがとても愛おしく感じてしまうのは100年近く同じ身体を共有していたからだろう。
「……もっとレティと触れ合っていたいけど、そうも言ってられないよね」
「わたしも久しぶりにルイと触れ合えて嬉しいけど……場所が場所だからね」
そう言ってもぼくらは抱擁を外さなかった。
お互いの腰を抱き寄せたまま、ぼくは言った。
「瘴気に飲まれて……あれからぼくら、どうなったんだろう? それに、ここは?」
「……わたしには覚えがあるわ」
「え、レティほんと?」
「ええ。と言っても、おぼろげだけどね……それと言うのも前世で死んだあと、メレティミとして生まれるまでの間、わたしはこんな真っ暗闇の中にいたから」
「え、ええ、じゃあ? もしかして、ぼくたち、死んだ……の?」
そんな、まだシズクを
思わずぎゅっとレティにしがみ付いてしまう。そこへレティがぼくを優しく抱き締め返してくれる。
「……大丈夫。きっとここは死後の世界じゃない。むしろ、生に近い場所じゃないかしら?」
「生に近い……?」
曖昧な感覚だけどね、とレティがくすりと微笑をこぼす。
真っ暗な中だからレティの笑顔が見れないのが非常に残念に思えてしまう。
「……ねえ、ルイ。この暗闇の中でずっとわたしのことを探し続けてくれてた?」
「え……う、うん。当然だよ。だって、レティの存在を1番に感じてたから、直ぐに合流しなきゃって思って……」
「嬉しいなあ……それだけ心細くさせちゃったかしら?」
「そ、そんなことないやい!」
心細くはなかった。
でも……ぼくはこの場所に来てからずっと、レティとの繋がりだけにすがっていたのは事実だ。
「ふふ、ごめんごめんって」
「知らない!」
からかわれたと思い、ぼくはぎゅっとレティに強く抱き締めした。
そして、レティもあやす様にぼくをまたも抱き返してくれるんだ。
やっぱり真っ暗な中だから、レティの姿が見えないのはとても残念になる。
「……ねえ、ルイ。ごめんね」
「何、レティ?」
突然、レティは謝ってきて腕の力を弱める。
ぼくも同じく力を抜いて、抱き合ったまま、見えないレティへと顔を向けた。
「……わたしは、ここに来てルイとは違う行動をとったわ」
「え、うん? どういうこと? つまり、レティは最初にぼくを探さなかったってこと?」
うん、とレティは声に出して頷いた。
「わたしの場合、最初にルイの存在を感じ取れたことで、以前とは違って冷静でいられたの。だからこそ、ルイとは別のところへ意識を向けたわ」
「う、うん? それはどういうこと?」
レティは多分、難しい顔をしていたと思う。
それも「言葉にしないと思いが通じないことが面倒に思える日が来るとはね」……と、愚痴るように口にしたからだ。
レティは続けた。
「ねえ、ルイ……気が付かない?」
「何を?」
「……この場所には、わたしたち以外にもう1人いることを」
「……えっ!?」
◎
レティに言われて意識を目の前から周囲へと向けた。
世界は変わらず黒一色だ。
今のぼくはその黒に身体を飲み込まれ自分の体というものを感じ取れない。
けれど、レティと触れ合っている箇所だけは確かな感触がある。その感触に引っ張られてぼくの意識はずっとレティに引っ付いたままであることに気が付いた。
「……レティ、一度離れるね」
「ええ」
口にした後、今まで無かった恐怖がぞくりと背筋を撫でる。
命綱から手を離す様な感じだ。
今、レティを手放したらもう一生レティを掴み寄せることが出来ないように思えてしまう。
「大丈夫。わたしは直ぐ近くにいるわ」
「う、うん。そこにいてね」
大丈夫だ。ぼくらは繋がっている。
意を決してぼくはレティから手を離した――すっと、今まで感じ取れていた全ての感覚が失われていく。
やはり、怖い。
さっきまで平気だったのに、レティと出会い、触れて、そして、離れたことでぼくの身体に見えない恐怖が張り付いてくる。
(……怖がってちゃだめだ! ぼくはどうしてここにいる! それは、全て――)
恐怖を掻き消そうと頭を振る。けれど、身体を認識できないからこそ頭を振ったのかもわからない。
消すことのできない恐怖はぼくの傍らに居残り続けた。
(……しっかりしろ! レティは近くにいるんだ!)
勇気を振り絞ってぼくは精一杯周囲に意識を向けた。
変わらず、レティが側にいることを実感して、ほっとする。
けれど、それでは先ほどと同じだ。
レティは言っていた――この場所にはもう1人いるって。
(それが誰かなんて……聞き返さなくてもわかる!)
あの時、瘴気に飲まれたのはあの場にいた3人だけ――という簡単な話じゃない。
今のぼくらはお互いの思考を共有できないはずなのに、今だけはレティの言葉で伝えたいことがはっきりと理解できた。
(それは、つまり……その為にも、ぼくは、ぼくは探し出す!)
レティという大きな存在がこの場にある。
それが今のぼくの行動を阻害している。
ならば、ぼくが行う行動なんてひとつだ。
「……レティの存在すらも手放す!」
声に出して宣言するのと同時にすっとぼくの中からレティがいなくなる。
……本当の孤独だ。
今、ぼくはこの何もない場所で自分の意識以外で全てを手放した。
(どこ……どこ……シズク!)
無い手を伸ばす。無い足を蹴りだす。無い頭を振る。
全身全霊をもって、ぼくはただただ世界中で一番愛おしい存在を探し求める。
ひたすら手繰り寄せる。
感触の無い世界で、ぼくはただただこの世でもっとも必要とする存在を……無い瞼を開いて、ぼくはただひたすら思い求めて……。
――淡い白色の光が見えた。
「……はは、なんだよ」
思わずぼくの口から言葉が漏れる。
錯覚に思えるほどの弱々しい光を察したその瞬間、ぼくの目ははっきりとその対象を捉えることが出来た。
そこには淡く白い発光を見せる球体を持って、眠り続けるシズクがいた。
「やっと、こっち見たわね。ルイ」
「レティ、なんだよ。ずるいや……」
そして、そう言って、シズクの肩に手を触れているレティもそこにいた。
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