第286話 夜転
身体も名前も記憶も、全てを“僕”に奪われたボクが最初に得たものがある。
ティアへの殺意だ。
それはボクが生まれ代わった直前に、“僕”がシズクという身体に刻んだ最後の爪痕だった。
……頭では理解出来ても、心では理解出来なかった。
――やろうと思えばティアへの殺意はいつだって手放すことは出来た。
――いっそ忘れるふりをして新しい日々を送ることだって出来た。
――さらに頑張れば“僕”に関する一切の記憶だって消すことも出来た。
けれど、ボクはそうしなかった。
自分の全てを奪った相手からの無用な置き土産だったとしても、ボクはもう自分のものを手放したくなかったからだ。
そして、これ以上ボクは自分のものを奪われたくなかった。
そんな中、秘めた殺意を潜め、奴隷としてティアの傍らで過ごしていくにつれて、ボクは自力で初めて手に入れたものもある。
ティアへの好意だった。
なぜ憎むべきはずの相手を好きになってしまったのだろうか――彼女を好きになった理由は自分でもよくわかっておらず、答えられるものでもなかった。
多分、良くも悪くも、自分に正直で自由奔放なティアのあり方に惹かれていったのだろう。
……ここで1つだけ言いたいことがある。
この感情は彼女の魔法の影響を受けたものではないということだ。
ボクは彼女を崇拝する数多く狂信者たちとは違う。
ボクはボク自身の意思で、彼女を好きになることを選んだ。
ボクという存在が模造品であることは認めても、これだけは譲れない。
ボクが自力で手に入れ、ボクが自分で育み募らせた気持ちだ。
――ボクはティアのことを心から憎んでいた。
――ボクはティアのことを心から愛していた。
最初のうちは相反する感情に悩み苦しんでいたが、いつしか愛情と憎悪は共存できることを知った。
どちらも対象を強く想っている――対照的な2つの感情に共通の認識があることを悟ったからだ。
もしもボクがそれを手に入れなかったらと考えることもあった。
けれど、それを手に入れたことで、ボクは彼女の隣に居続けられるのだ。
ティアにとってボクらは花束みたいなものだった。
彼女の気を惹ける間は大切に抱きかかえてくれるけど、いずれ花は萎れるように、飽きられた花はあっさり束の中から抜き取られるような儚い存在だった。
たとえ自分が彼女の1番のお気に入り……中心に添えられた一輪の大きな花だとしても、ボクは彼女を楽しませるだけで終わりたくない。
けれど、自分が彼女を慕う多くの1人だということは重々承知している。
それでもボクはティアのことが好きで好きで堪らなかった。
ティアが他の男と仲良くしていると知れば、それだけで激しい憎悪が身体を焦がす。
燃え広がった感情は、外に漏らすことも出来ずにいつまでも胸の中は燃え広がっていく。
ティアがボクを選び、ボクだけに笑いかけてくれる時には心の底から歓喜が溢れてくる。
しかし、自分の気持ちを悟られぬよう、漏れないよう、大事に大事に包み続けることで心は爛れていった。
彼女を憎み。彼女を慈しみ。彼女を愛し。憂い、喜び、悲しみ。
彼女の前で表現する機会は1度として無かったが、内面全ての感情はいつだってティアだけに捧げ続けた。
面と向かって、怒鳴り付けてやりたいほどに彼女に気持ちを伝えたかった。
ずっと、ずっとボクひとりだけを見てほしい――ボクはこの10年、これだけを考え願ってきた。
◎
彼女の放った魔力の腕に触れたのは一瞬だった。けれど、ティアがそこまでボクのことを思っていてくれたなんて……と、感激のあまりついつい気が緩んでしまったこともある。
おかげで彼女から与えられたプレゼントの対処に遅れてしまい、強引に城外へと追い出されてしまった。
その後、魔力の腕によってと弾き出された後のボクは、とある民家の中で寝転んでいた。どうやらボクが無理やりお邪魔したことで、その家には多大な迷惑をかけてしまったようだ。
両目を半開きにした、微動だにしないこの家の住人と並んで、ボクは夜空を見上げていた。見晴らしはとても良い。
感覚がおかしくなってるため、衝突の痛みはないが身体は自由に動かせない……ただ、応接間の壁を突き破り、民家へと叩きつけられるその短い間に身体は自動で治癒を始めた。動けないと嘆く暇もなく、この身体は完治するだろう。
そんな身体が癒える間、周囲から聞こえる悲鳴や喧騒をうるさく思いながら、ボクは空を見上げて感嘆としたものを吐き出した。
「やっと……やっと言えた……」
ラヴィナイは相変わらず夜の国だった。
空はどんよりとした紫色の魔力を帯び、黒雲が一面に広がっている。
今夜は雪は降っていない。風もなく、周りの騒音さえなければ物静かな夜になったことだろう。
そんな騒がしい暗闇の世界で、ひと際輝いているのがティアだった。
ボクを追って部屋の外へと出てきたのだろうか。彼女は今、自身の力でボクの真上に浮かんでいて、泣きじゃくってぐちゃぐちゃになった顔のまま、強くこちらを睨みつけている。
宙に浮かぶティアの周囲には、彼女が作り出した無数の魔力の腕が蛇のようにうねっていた。
「……でも、キミはボクが告白したかったティアじゃないんだね?」
ボクは空に浮かんで愚図っているティアを見つめ、今一度……いや、意味合いは違って落胆としたものを漏らした。
ヒステリックに叫びながら当てずっぽうに攻撃をし、今も泣き止まずに真上からボクをいつまでも睨みつけているティアはちっとも彼女らしくない。
「こんなの、ティアじゃない……」
ティアは方向性の間違った自信家であり、世界中を巻き込むほどの自己中心的な独裁者だ。
最初はあのティアの顔色を変えることが出来て、心から嬉しく思えたのにな。
(そりゃあ、ティアにはいっぱいいっぱい驚いてほしかったさ。でも、いつまでも感情を顕わにし続けるのはおかしいんだ)
“僕”がシズクとして生まれ変わった時、恐怖という感情を消された。
それ同じく、彼女は精神面で不調をきたした時、快楽的思考へと昇華するよう内側を作り替えて貰っていると、本人から直接聞いたことがある。
そのため、ボクの告白で多少の動揺は見せても直ぐに気を持ち直し、そこから最高に面白がってくれるくらいはしてくれるはずだった。もちろん、我の強い自信家のティアがこの程度で崩れなかった場合も考えていた。
では、どうして今も弱々しい姿を晒し続けているのかと言うと、ボクがシズクとして生まれ代わった時と同じ現象が、彼女の中でも起きたのだろう。
つまりは……。
「本来の人格がここで目覚めちゃったかな……はぁ……」
ボクはこの10年間、誰よりもティアを見てきた。
彼女の挙動1つ1つで何を考えているか、何を欲しているか、何を願っているか。それら全てを察してきた。
けれど、今真上に漂う彼女の真意はさっぱり理解できない。
泣き顔を初めて見たこともあるが、それでも今の彼女が何を考えて泣いているのか、何1つとして読み解くことが出来ない。
いっそ、また触れれば直ぐにわかるだろうけど――今の彼女はそう容易く触れそうにはない。
「やだ、やだやだやだああぁっ、やだああああああああっ!」
気合の入ったティアの掛け声(……いや、叫び声かな?)が耳に届くの共に、完治まで間もなくといったボクへと向けて、無数の魔力の腕が真上より降り注ぐ。
連打。
連打連打。
連打連打連打――。
まるで地面を均すかのように、周囲の民家すら巻き込んで、丁度身体が完治しても未だ横たわったままのボクに向けてティアから伸びた拳が幾重にも落とされた。
叩きつけられた腕により瓦解した周囲の建物の破片といった粉塵が巻き起こる。
お城から吹き飛んできたボクを気にして集まっていた野次馬すら構わずに、躍起になってティアはボクを叩き続けた。
……けれど、それらの攻撃はボクにはまったくと意味がない。
「無駄だよ。ティア……どんなに殴ろうともボクにはその攻撃は効かない。無我夢中でわからなかったかもしれないけど、ボクを殴っている手ごたえなんてないでしょ?」
地面をけたたましく叩きつける打音や巻き起こった後塵も収まらない中、ボクは囁くような声でティアへと語り掛けた。
その直後、ティアの攻撃はあっさりと止み、ティアからも愚図るようなくぐもった声がボクの耳へと繋届く。
空に浮かぶ彼女と地面に伏しているボクらの距離は大分離れているのに、まるでお互い耳元で囁いたかのようにはっきりと聞こえて、伝わったことだろう。
ボクらは先ほどの抱擁でより確かな繋がりを結んだ。
そして、触れ合えばお互いの思考が筒抜けになるくらい、ボクたちは離れていてもすぐそばで感じ、理解し合える程の仲へと代わっている。これくらいの距離ならばお互い隣でしゃべってるみたいに声が届く。
ま、そう言っても未だに今のティアの考えはわからないんだけどね。
「なんで……シズクくんっ……ワタシ、こんなのって……!」
夜空の闇に包まれていても、紫色の魔力に覆われていても、ティアの顔ははっきりと見える。どうして? と独り言のように問いかけるティアの声もまたはっきりと聞こえた。
(……そんな顔をしないでよ)
身体に降り注いだ破片を叩き落としながらボクはティアに向かってにっこり微笑む――。
「……レーネ!」
「……死ねぇ!」
そんな時だ……ちっ、と舌打ちがしたくなった。
宙で嘆くように自分の両手で顔を覆うティアに笑いかけたところで、無粋にも外野が空を見上げていたボクへと襲いかかってきた。
ひとりは飾り気のない長剣を携えた青髪の男だ。先ほどの室内でのティアの攻撃に巻き込まれたのか、身体は傷だらけだった。
もうひとりは紫頭の男だ。こちらは比較的軽傷らしく、先端に斧が取り付けられた槍……ハルバードみたいな武器を振りかざしてくる。
2人の握る武器は夜でもくっきりとわかるほどの黒い靄がかかっている。
やっぱり、赤髪と同じく2人とも魔道器を使えたか。
厄介だな……と思ったのは一瞬で、今のボクにとっては害虫程度の存在じゃないかと自分自身を叱咤した。
たかが魔道器程度、今のボクには何の脅威でもないはずだ。
「2人とも、今はボクの時間だ。ティアに選ばれなかったんだから、いつも通り悔しそうに突っ立っていればいい……ん?」
苛立ちながらこちらへと向かってきた2人へ、おもむろに身体を向けた時、駆け寄ってきた青髪の剣先から間欠泉のように水が噴き出しはじめる。
もちろん、剣から溢れたそれがただの水ではないことはわかった。すぐさま剣から噴き出した水は5つに別れ、塊となり、人の形を繕い始める。
(……分身? それが青髪の魔道器の能力なのかな?)
予想通り分かれた水の塊は、青髪そっくりの分身へと変わっていた。しかもご丁寧に傷や衣服の縺れすら再現してる。
これは少しでも目を離せばどれが本体かなんてわからなくなる――と、つい青髪の分身に気を取られている間に、紫頭の方の注意はすっかりおろそかにしてしまった。
先ほどまで悪態を吐いて自分の存在を教えてくれた男とは思えないほど、紫頭は静かにボクの背後へと周り、物言わぬままボクの頭上へと掲げた斧槍を振り落とす。
まあ、彼の存在に気が付いた時には難なく躱し、空振りに終わった斧槍の切っ先は地面へとめり込んだわけだけど――あれ?
「わっ、足が……」
振り下ろされた斧槍が地面を叩きつけたのと同時に波打つように足場が揺れ、ボクは水に落ちるように地面へと足を取られた。
液状化とも違う変化……なんだか硬化前のコンクリートみたいだ。
脛のあたりまで地面に沈んだボクの足はその後、ガチガチに塗り固められまったくと動けなくなった。無理やり引っこ抜こうと力を入れようとしても、固まった地面は埋まった足にべったりと密着している。
そして、2人(青髪の分身も含めて)はここぞとばかりに自分の獲物を振りかざし、ボクを囲んで挟撃を再開し始めた。
青髪6人プラス紫髪1人、計7名による攻撃は流石に足を取られたボクは避けることなんて出来やしない――だから、ボクは避けることをやめた。
「――ぅぎっ!」
「――がぁっ!」
律儀に獲物を振り上げ直して、頭を勝ち割るように落とされた斧槍の刃先を掴むの簡単だった。
――指で摘まむように刃先を受け止め、そのまま獲物を通して火炎を吹き付けて紫頭を燃え焦がしてやった。
まったくと見分けのつかない分身を生み出したとしても、実のところ本体がどれかは一目瞭然だった。
――分身の1番後ろで怯えた表情をした青髪へと、水で作った槍を伸ばして串刺しにしてやった。
一瞬の戸惑いのような声の他、2人はそれ以上の断末魔を上げる間もなく動きを止める。
炭化した身体は地面に鈍い音を立てて崩れ、水溜まりを踏み付けたような音と共に青髪の方も崩れ落ちる。
これで自分の手に掛けた人数は3人だが、赤髪を殺した時よりも何も感じなかった。
これっぽちも面白くはない。
「……別に楽しもうなんて思ってなかったし。大体、今のボクが求めているのは1つだけなんだから……」
邪魔者はいなくなった。これでやっとティアと楽しめる。
そう思った直後、首筋に息を吹きかけられるような奇妙な気配を感じ、おもむろに振り返った。
――が、そこには誰もいない。
「……?」
首を傾げて気のせいか……いや、今ボクが察した気配が気のせいだとは思えない。確かに今そこには誰かがいた。
ボクは自分の魔道器である大鎌を出現させ、妙な気配を感じた箇所へと軽く薙ぐ。
「……ああ。なんだ」
「ぎゃあああっ、痛っ! 痛ぁぁぁぁい……っ!!」
そこにはぼとりと短剣を握った人の腕がどこからともなく現れた。
ついでに気配のした箇所から聞き覚えのある様な、ない様な。甲高い悲鳴と共にこれまた見覚えのある少年が姿を見せた。
そういえば残った近衛は3人だったか。姿を見せないから、てっきりティアの攻撃に巻き込まれてどうにかなっていたと思っていた桃髪の男の子が、背後からボクを襲おうとしていたようだ。
「死角だったってこともあるけど、これにはボクは気が付かなかったよ」
「ひぎぃ……ぃぃっ……っ!」
彼は斬り落とされた右手の先を庇うように抑えていたが、直ぐに地面に落ちた短剣を左手で拾い上げ、さっと素振りのように目の前を斬り払った――ぶわんと蜃気楼のように空気が震えるのと同じくして彼の姿も歪んで消えた。
「また消えた。もしかしてボクと同じタイプの魔道器? どこかへ転移したのかな……ん?」
彼が消えた位置からたらたらと地面に血がしたたり落ちている……なるほど。
瞬間移動の特殊能力を持っているのかと思ったけど、どうやら自分の身体を透明にする魔道器らしい。ただ、身体から流れ出た血だけは消すことは出来ないみたいだ。
透明化の能力はボクにとっては脅威になっていただろう。あと少し気配を消す技量が高かったらやられていたかもしれない。
しかし、彼の気配が駄々洩れだったことや、ネタ晴らしを受けてしまえば、なんとも呆気ない幕切れだ。
「せぇー……の!」
自分から離れていく地面の血痕の先へと向けて、ティアにされたみたいにボクも魔力の腕生み出し、思いっきり振り下ろした。
手ごたえあり。
虫を潰す様な感触を魔力の腕から感じ取る。
叩きつけた腕を上げれば……ティアによって可愛らしく作られた顔を醜く歪めて、絶命した何かが残った。
また、未だに残っている2つの亡骸よりも先に、押し潰したそれは身体を崩して小さな風と共に姿を消した。
2つの亡骸の方も、彼に遅れて身体を光に溶かしていったが、今回のボクは最後まで見届けることはしなかった。
「よっと……」
前座にもならない。それどころか時間の無駄とさえ思える近衛3人とのやり取りを終え、固められた足場から無理やり足を抜く。
べりっと皮膚がめくれて、じんわりと広がる血とピンク色の
生憎と膝から下、皮膚と同じく引きちぎった裾は直せず、ツンツルテンと不格好な姿となってしまったが、今は身なりを気になんてしてられない。
今度こそとボクは空へ、ティアへと顔を向けてにっこりと笑ってみせた。
「さあ、ティア。これで邪魔ものはいな――……あれ? ティア? ティア~?」
あれ、どこだ?
ようやくティアの相手が出来ると思っていたのに、見上げた空に彼女の姿はどこにもなかった。
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