第239話 水と涙――この日、彼らは解き放たれた
実のところ、スイを妻に迎えるよりも先に、私には既に妻が1人いた。
『私の願いはあなたの伴侶となることです。どうか、私をラクリュマ王の妻に迎え入れてください』
『ほぉ……なんと奇特な方だ。その為に自分が生きてきた村を捨て、私に会いに来た……とは…………ああ、わかった。君の願いを叶えよう。今から君は私の妻だ』
彼女が私の妻になりたいと願ったので、その願いを受け入れてできた縁だった。
その女が腹に一物抱えていることはこんな私でも察していたが、拒む理由と
その後、戻ってきたラディオ……ベルフェオルゴンは今までに見たことがないほどに激怒したが、私には何故彼がそこまで感情を露わにした理由がわからなかった。
私はただ、私の妻になりたいという彼女の願いを叶えただけだった。
そもそも夫婦になったところで、私たち2人の間には何もなかった。
第一王妃についてそれ以上に語ることは無い。
王妃となった後の数年はナリを潜めていたが、月日が経つにつれて次第に浪費癖があるという報告と、夜な夜な城下町で男あさりをしているという報告を怖い顔をした家臣たちから受けるくらいだ。
私は特に気にもすることはなかった。
スイを向かい入れてからは尚更はどうでもよくなった。
理由は……多分、人並みの言葉にしてみれば私が“幸せ”だったからだろう。
彼女が何をしようが私にはもう他人事のように思えるほど、関心が向かなかった。
スイがいるだけで何もいらなかった。
人形同然だった空虚な私をスイが満たし続けてくれる。
スイのこと以外考えられなかった。
決まった顔で笑うだけの私とは違ってスイはころころと表情を変える。
彼女の見せる多種多様な感情が私は……好きだった。
『え、ラクリュマって呼んじゃ駄目? ……ううん。お願いではありません。でも、ほら、こっちで呼ぶ方が私は好きだなーって……じゃあ、クーちゃん! ……あ、今嫌な顔しましたね? してないって言っても嘘です! ふふ、わかりますよぉ……だって――』
『イルノートがお客様に大変失礼なことをしたの! その子、ボロボロに泣いちゃって! イルノートに問いただしても私じゃ逃げられちゃうしっ、ベルフェオルゴンは知らん顔だし! ラクリュマからも言ってやってくださいよ! ……あ、もー! 笑って誤魔化さないください!』
『ラクリュマってどうしてそんなに人の願いを聞くんですか? ……いえ、良いことだと思いますよ。だって、ラクリュマが決められた人しか会わないって王様だったら……あれ、これが普通? ……ううん、誰でも会う王様だったから私はラクリュマに会えたから……それで、だから、どうして?』
『最初はラクリュマのこと、変なひとだなーって思ってたんですよ。だって、私の生まれ変わったって話をもっと聞きたい言う人初めてだったし。……でも、今は、今はね……ふふ、なんでもない……え? 続き? ……はぁ、もうっ、800年以上生きてるんだから、これくらいわかってくださいよ! ……あ……もぉ、本当にわからないって顔してる!』
『あのね……子供が、出来たみたい。……うん。ラクリュマの子供。私、しっかりお母さんできると思います? ……泣いてない。泣いてませんよ。……でも、結局間に合わなかったお母さんのことを思い出して…………ラクリュマ? ……もう……不器用ですよ……』
『嫌いだったら、とっくに逃げてます! 駆け込み寺に駆けこんでます! ……はい、逃げていいかって聞いたところで、何も考えないでラクリュマは頷いて「許そう!」って、だけですしね。…………ねえ、冗談でも私がその言葉を口にしたら、ラクリュマは引き留めてくれますか?』
……あの日から、もう何年経ったのだろう。
ノイターンの封印が解けかけたことで漏れた魔力が国を蹂躙し、たくさんの国民を失い、スイまで殺してしまった。
それでも、私は生きていた。
そして、残った国民に願われて私はまた1人で国を復興させ続けて……。
後にあの時の悲劇の原因は、第一王妃が地下のノイターンの封印を解こうとしたからだというのがわかった。
開きかけた封印を前に、ミイラのように痩せ細った瀕死の彼女を発見したことから、また亡くなる寸前、今回の事件は彼女の犯行だということを本人の口から直接聞くことで判明した。
第一王妃がどうしてそんな行動を起こしたのかまでは語られることが無かった。
しかし、それよりも彼女は今この場で精製したという魔石を育ててほしいと私に願望を残して、逝った。
そして、いつも通り私は彼女の願いを聞きとげた。
その後、私は、第一王妃が精製した魔石から生まれた子にティアと名付けた。
ティア……スイの世界で無数に存在する水の名前の1つ。これもまた彼女から習ったことだ。
『生まれてくるこの名前はシズクかルイがいいと思うなぁ。私の名前からシズク、ラクリュマの名前からルイって……私の世界では、こう、こう、書くんですよ。……んー、ティアって言葉も“涙”って意味ですけど、そちらは外国の言葉でして、なんかなーって……あ、ラクリマもでしたね……け、けどですよ? やっぱりつけるならこっちかなって!』
楽しげに“雫”と“涙”という文字を書くスイ。
唸りながら“tear”という文字を書くスイ。
全て今のことのように思い出せる。
『でも……ルイって名前だと男の子に限定されちゃうかなぁ……え? この世界ではそういうのないんですか? “タロウ”とか“ハナコ”とか。……ああ、あることにはあるんだ。ルイって名前にはないんですね。ふーん、じゃあ尚さら、シズクとルイ! 男の子が生まれたらシズクで、女の子ならルイかな? うーん、どっちも……うふふ、悩んじゃいますね!』
嬉しそうに何度もシズクとルイの名を口ずさむスイは、身重の身体でベルフェオルゴンにまで名前を報告するほどだった。
……今でも瞼の奥に焼き付いている。彼女が笑って生まれてくるはずの子供たちの名前を何度も何度も呼んでいる瞬間を。
「お父様、準備が整いました」
そして、私は知っている。この娘は私の血が通っていないことを知っている。
しかし、第一王妃が私の子だと言うのだからそうなのだろう。
だが、それで私の子だとしても、シズクとルイという名前を付けようとは思わなかった。
その2つの名は、生まれることもなかったスイと私の子のものだった。
その名前はスイと私にとって大切な名前だった。
彼女が自分の子供にそう名付けると言うのだから、他の誰に与えられるものじゃなかった。
「……ティア、これで最後だ」
「はい、お父様」
宮殿の地下奥深く、最下層の儀式殿を前に私はティアにそう言った。
ティアは笑ってその封印の間である儀式殿の中へと進んでいった。
この地の深く底、そこには彼が眠り続けている。
夜行鬼神ノイターンと人々から呼ばれ、恐れられていた存在が眠っている。
今は儀式殿の中心に立つ祭壇の上で、ヒビの入った透明な球体の中から、今か今かと紫色に光る魔力を漏らしながら抜け出す機会をうかがっているように見える。
魔封じの鎖でがっしりと何重にも巻かれているが、一昨年の事もある。
第一王妃によって解除された影響もあってか、綻んだ封印も限界が来ているのだろう。
(――しかし、今日これで終わる)
私の最後の役割も何もかも……私は自分の白くなった髪を撫でた。
第一王妃によって封印が解除されかけたあの時、再び封印を施すことが出来たが、殺された者は勿論、私や生き残った国民の魔力をごっそりとノイターンは食い散らかしていった。その余波はこうして我々国民の髪に現れている。
「……ティア」
祭壇の上へと昇ったティアが、球体に触れたのだろう。
酷い揺れが続いた。
まるであの日の、王妃が亡くなったあの夜の様に周りが揺れた。
祭壇にいるティアが言葉にならない声を上げている。
今までにも何度かティアにあの球体に触れさせ、封印の方法を教えていたが、今回のような揺れを伴う反応は2度目だ。
一昨年のあの日、一瞬だけ彼の魔力を漏らしてしまった時と同じだった。
(……やはり、失敗したか)
私はうめき声を上げる娘から目を逸らした。
また、ノイターンの魔力が暴走して甚大な被害を与えるかもしれない。彼の具象した魔力によりまた国は壊滅するかもしれない――一昨年は私自らその場で対処することが出来た。
(しかし、今回は……)
娘のティアをそのままノイターンに与えて、食い与えた彼女の魔力を媒介にして内側から封印を仕掛けてしまおうと考えた。
もうその準備も一昨年のあの日から整えている。
ティア本人にも知らせずにその術式を彼女の中に私は組み込んでいた。そして、組み込まれた彼女がどうなるか……もしも、本人に聞かれたら答えるつもりでもあった。
聞かれたその後のことなんて考えていない。
(考えたところで、私はもう……)
私は、スイを失ったあの日から……ずっと休みたいと思い続けていたのも確かだ。
「……イルノート」
ベルフェオルゴンの側近である天人族のことが頭に浮かんだ。
あの災害から生き残り、再び再会できた彼は未だにラヴィナイに戻って来ない。
もしも彼がラヴィナイに戻ってきたら、また、悲しませてしまうだろうな。
――揺れは、治まった。
私は安堵とも落胆とも取れるため息をついた。
揺れが治まるということはノイターンの活動が止まったということなのだろう。
自分の娘だという少女を生贄にノイターンを封印し直して、これで終わった、と。これで終わったのか、と。
ノイターンの封印に関しては、これで私の役目は終わりだろう。
あと数百年は解けることはないだろうが、かといって自分がそこまで長く生きていられるとは思わなかった。
実のところ、もうノイターンとのつながりは私には感じられず、呪いは解かれていることを知っていた。
同時に、私の膨大に存在していた魔力量も極端に落ちていることを知った。
魔力量の減少とはつまり、寿命が近いことを示している。
しかし、この事実を私が口にすることはない。誰にも尋ねられることもない。私だけが知っていればいいことだった。
「……国民たちよ、間もなく私は死ぬだろう。すまない。ティアよ、生涯たった1度の嘘を実の娘にしたこと、あの世で私のことを怨む――……っ」
…………とぷっ、と。
懺悔を口にする私の胸に穴が空いた。
喉の奥から血が、咳き込むことを許さないと言わんばかりに溢れだす。
足の力が抜けてその場に倒れようとした身体は、ふわりと胸に空いた穴を支えに宙に浮く。
何が、と激痛に目を瞑りかけながらも自分の胸を見ると、稲妻のように不規則な線を描いた魔力が突き刺さっていた。
その紫色をした半透明の魔力は祭壇の上、こつこつと小さな足音を鳴らして降りてくる人物――ティアの身体に纏う魔力に繋がっていた。
「……ご、ぼっ……ティ……ア……?」
「お父様……ワタシこの時をずっと待ってたの」
ティアは両手でスカートを摘まみながら階段を下りてきていた。
どうして、ティアがノイターンの力を扱っているのかは私には理解できなかった。
唯一理解できたのは、祭壇上の球体が光り輝いていないことだけだった。
「ねえ、お父様、ワタシ。約束したよね。これが全部終わったら、あの人――シズクを手に入れるって」
……シズク。以前も、ティアはその名を口にしていた。
連れ合いがいるのにも構わず、ティアがずっと欲しがっていた少年の名前だったか。
(……シズク。偶然だろうか)
彼女と同じく、異世界の人間がいて、その者が名付けた名前なのかもしれない。
けれど、私には偶然だとは思えずにいた。
「実はね、ワタシ、お父様の考えてることわかってたんだ。……実の娘を犠牲にして、あのバケモノを封印し直すって思ってたんでしょ?」
「…………ああ、そうだ。魔石から生まれた君を使用して封印をかけ直そうと……考えていた」
「まぁっ、お父様ったら、酷いわ。ずっとワタシのことだまして。もう、ワタシぷんぷんしちゃう!」
年相応に拗ねるそぶりを見せながらティアは私の胸に刺していた魔力を抜いた。
支えを失った私は受け身を取ることもなく地面に崩れた。
立ち上がる力さえ入らず、蹲る私を見下ろしてティアは薄らと笑いかけてくる。
「ねえ、お父様。お願いです。もう我慢しなくてもいいよね。お願いです。もう、シズクをワタシのものにしてもいいよね? ねえ、お願いです。全部、全部ワタシのすること許してくれるよね!」
――……ならん。
「ああ……許そう……全部、許そう……」
「……ああ、その言葉を聞きたかった。ありがとう、お父様!」
私は最後に大きく、今まで聞いてきた願望の中でも本当に心から笑って頷いた。
一瞬、ならん、と思ったはずなのに、今はもうどうでもよくなってしまった。
これでやっと楽になれる。あの者のもとへと、スイのもとへと逝ける――という心情の方が大きかったのだろう。
しかし、どうしてか、私の目から涙がこぼれた。
「……う、ふふ。やっと、やっとよ! ワタシはいつだって欲しいものを手に入れてきた! 今回だってそう! 我慢して我慢して、ふふ、ふふふっ! ワタシはこの世界の全てを、神だって手に入れられるようになった!」
何が楽しいのか私は理解できなかった。
ティアは手には2つの透明な球体を握ったまま、我を失ったように嗤っていた。
「は……はは……」
何が楽しいのか私にも理解できなかった。
私も同じく笑みを浮かべていた。
しばらくして、私の視界は真っ白に覆われて――消えた。
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