第238話 水と涙――あの日、彼らは交わった

 玉座に座る私を前にして、跪いた女が小さくくすりと笑った。家臣の1人が、私の名を高らかに読み上げた時のことだった。

 別に気に障ることでもなかったが、侮蔑としての嘲笑か――代弁とばかりに家臣が不快感を露わに女に訊ねた。


「……あ、すみません。そのぉ、王様の名前がですね。て思っちゃって、そしたら気が抜けちゃって、つい……気を悪くされたなら謝ります。ごめんなさい」


 一瞬、呆然としつつも女はゆったりとした口調で私へと頭を下げた。

 彼女の釈明は私には理解し難いものだった。

 自分の名の由来なぞ知る機会も無ければ、気にもかけたことはない。

 しかし、クリュマという名は水に因んだものではなかったはずだ。私は首をかしげた。


「……それは面白い! では、私の名に似た水とは一体何か、教えてもらえないか?」


 家臣たちやベルフェオルゴンに言わせればどうでもいいとの事であったが、“何もない”私にとって彼女の話は実に興味をそそるものだった。

 どういう意味かと声高らかに尋ねてみると、彼女はを細めて嬉しそうに、しかし若干困りがちに口を開いた。


「それはですね! ラクリュマ……あ、えーっと、私がどうして笑っちゃったのかって話の前に、まず説明しないと理解してもらえないことがあるんですけど……こっちも聞いてもらってもいいですか?」

「ああ、構わないよ。ぜひともそちらも聞かせてくれないか」

「はい! ではでは……って、あはは、ごめんなさい。ここまで言っておいて多分、信じてもらえるかわからないのですけど――」

「ふむ?」


 と、どうやら彼女は別の世界で生きていた時の記憶を保持しているというのだ。


「生まれ変わりってやつでしょうか? 不思議と思い出せないところも多々あって……あ、それで、どうして笑っちゃったって話に戻りまして! 王様の名前を耳にした時、以前の世界の言葉っぽいなぁ面白いなぁって、ついつい思っ――……て? ……あ……その……あはは……」


 興奮気味に話し続けていた彼女であったが、皆の不審げな視線を受けて、最後は茶を濁すようにぎこちなく笑っていた。


 ――何を世迷言を。

 ――気でも触れているのか。

 ――頭のおかしいやつめ。


 呆れ怪しむ家臣たちの囀りが鎮まった室内に漂ったが、彼女はまったくと気を損ねることはなかった。

 こういう反応に慣れているのか「やっぱり信じられませんよねぇ」と照れ臭そうに笑って見せるだけだった。

 物陰からこちらの様子を眺めていたベルフェオルゴンも――ラディオも、この時ばかりは皆と同じように顔をしかめていた。


「ははは……で、私の話は良いんですよ。冗談だと思って……皆さん顔が怖いです。……あー、すみません。私が原因でしたね。ひとまずその話は無かったことにして――」


 私としては女の話にますます興味を懐いたが、彼女は誤魔化すように今回謁見を求めた理由を話してくれた。どうやら彼女の村は飢餓に苦しんでいるそうだ。

 私は眉1つ動かすことなく彼女の話に耳を傾け続けた。

 既に餓死者も出ているらしく、このままでは年を越す前に村人全員飢え死にしてしまう。そんな危機的な状況で、どんな願いでも叶えてくれるという私の噂話を耳にした彼女は、村民の為にわざわざ山をいくつも越えて、遠いラヴィナイまで足を運んできたということだった。

 どんな願いも叶える……相変わらず誇張されているなと私は思った。


「……図々しいお願いだとはわかっています、ですけど、もう王様に頼るしか無くて……」


 こんな私でも思うところは多々あったが、望まれたのであれば、すべきことはいつだって同じだった。

 そして、今回もいつも通りに頷こうとするが、いつも通り、先に家臣の1人が割り込み、難色を示しながら彼女の願いを跳ねのけた。

 理由は飢餓の村から来たにしては、この女が比較的健康体に見えたことからだった。


「……うーん、これも信じてもらえないと思うんですけど、私は変わった魔人族っていうか、食事を摂らなくても平気なんです……うわ、口にしておいて自分でも信じられないや。……あ、本当ですよ? 食が細いってわけじゃないんですけどねー……こう見えて、旅に出てからここ1週間は水以外口にしていません!」


 女はそう慌てるように早口でまくし立てた。そして「でも、そろそろ私もお腹ペコぺコ限界でごはん食べたいなぁって……あはは」とけろりと笑いながら、彼女は袖をまくってを見せる。

 当然、家臣の誰もがその話を信じることはなかった。私も特に心が揺れることはなく、彼女の面白い話程度の感想に収まっていた。

 実際、家臣が指摘した点は私も同じく目についていた。

 飢餓で苦しむ村の女というのに、その見た目は城下に住む民よりは細身であるが、同じくらいに健康的であり、そして――それ以上に美しかった。


 長く伸びた黒い髪は貧しい村の出というにはあまりにも艶やかで美しい。

 捲った見せた白く細い腕には傷どころかシミの1つもなく、手先も気泡のない氷柱のように透き通っている。

 所々でほつれを見せる薄汚れた服を重ね着こんではいるが、その上からでも女が豊かな身体つきをしているのもわかった。

 細く整った輪郭に無駄な肉は無く、かと言って痩せこけた様子はない。

 すっと斜めに落ちた形の良い鼻立ち、笑みを浮かべる小さな唇……城下にいる天人族以上に整った、愛らしい顔立ちをしている。

 そんな中、先も特徴のあると表現した大きくも、鷹の様な鋭い目つきだけが他の顔の部位と比べ、異質に浮き上がっているように見える。だが、その切れ長の目がより一層彼女の美貌を栄えさせているのも事実だった。

 実際にその目を細めて微笑む彼女を前に、控えていた家臣の中にはたじろいだ者もいる。

 そして、何よりだ。

 その鷲のような眼の奥に、光り輝く力強さを私は感じ取っていた。


「……え、えっと……駄目、ですかね?」


 重々しい空気が流れる中、家臣たちに睨まれ続けながらも女は笑みを崩すことなく、しかし、弱々しく唇を震わせる。

 家臣たちは沈黙した。私もその時を待つように目を瞑った。

 誰もが呼吸すら止めたのではないかという静寂の下、頃合いを見計らって1人が「……王」と私を呼ぶ。

 私はその呼び声に深く頷く――考えずとも、私はいつも通り。変わらない。

 家臣たちがどう言おうとも、私が口にする言葉は昔から変わらず、いつだって同じだった。

 そして、今回もまた変わらず同じ決断を下すだけだった。


「素晴らしい! 空腹で苦しむ村人たちのために、女の身ひとつでよくここまでたどり着いた! 皆の者! 直ぐにでも準備を始め、彼女の村へと救援を!」

「……はっ」

「君も空腹で苦しいのだろう。さあ、彼女に食事の準備を!」


 険悪な空気が流れていたこの場も、私の命が出てしまえばあっさりと軽くなる。

 家臣たちも張っていた緊張を緩め、苦笑しながら迅速に動き始める。


 私という存在がこれだからこそ、彼らもまた私の家臣足りえる。

 私という存在を理解し、行動に移せるものが私の家臣なのである。


「え……と、じゃ、じゃあ!」

「ああ、君の願い通り、私たちは君の村を救援するよ。もう安心しなさい」


 慌ただしく家臣たちが動きを見せる中、こちらに顔を向けて呆然としていた女の顔が喜びに変わるのは少し遅れてからだった。


「ありがとうございます! これでお父さんとお母さんにごはんを……あ、あの! このご恩は忘れ……いえっ、私にできることがあれば何でもおっしゃってください!」

「……うん?」


 ……彼女のように私に願いを叶えてもらおうと謁見を求める者たちは後を絶たない。

 中にはどんな願いでも叶えてもらえると信じて疑わない者もいる。しかし、現実には出来ないことばかりだ。

 元々は私の魔法で起こせる範囲内で、次第にこのラヴィナイという国全体を通して出来ることくらいなものだった。

 また、周りに控える家臣を前にして、彼女のように怖気づくこともなく、自分の願望を口にするものは滅多にいない。もしも言えたとしても、その願いが邪なものだと家臣たちに判断されればそこで謁見は終わる。

 私が頷き命令を口にする前に家臣たちが“私”を取り押さえて、無理やりに退室させるようラディオに命じられているのだ。

 そんな中、彼女だけは他の者たちとはどこか違っていた。


「そうだな。……じゃあ――」


 今か今かと自分の願望を口にしよう急ぐ者たちとは違い、この女の第一声はとても面白いものだった。

 そして、今まで謁見を求めてきた者たちの中に、感謝の言葉を幾度と声に上げることはあっても、お礼をしたいと言ってきた者はいなかった。

 最初の第一声で既にそうなっていたと思うのだが、話が終わる頃には、私はすっかり彼女に興味を懐いてしてしまった。


「では、君の話を聞かせてくれないか? 先ほどから君の前世の話というものがずっと気になっていた」

「私の話、ですか? そんな面白い話でもないですよ」

「……駄目かい?」

「い、いえ、ぜひ聞いてください! 本当は話したくて仕方なかったんです! でも、両親に気味悪がられるので話しちゃ駄目って……本当に、聞いてもらえますか!?」


 ――と、私の提案を受け入れてくれたその日から、私と彼女の交流が始まった。





 昔から自分には何もなかった。

 喜怒哀楽も、自分の意志も、決定権も。

 あるのは血肉と臓腑の詰まった器に、人知を超えた膨大過ぎる魔力、そして、クリュマという名前だけだった。


 物心ついた時には私はどこぞの町のとある家族の元で召使いとして働いていた。

 元々、捨て子だったとは聞かされていた。このクリュマという名前も、親に付けられたのか、その家族の付けられたものかもわからない。

 言われるがままにその家族に命令されるがままに付き従い、全ての願いを受け入れてきた。


 私には力があった。

 どんな願いだとしても、大抵の願いはかなえることが出来るほどの力だ。そして、私は言われるままに頷き、求められるがままに与えていった。出来ないことも多々あったが、大抵は自分の膨大な魔力で解決できるような願いばかりだった。

 自害しろ、命を捧げろと言った願いが無かったことは、今思えば実に幸運だったのだろう。

 その家族は私の扱い方がうまくなるにつれて、町1番の富豪になっていた。


 そんなある日、私は1人の男と出会った。

 男の名はラディオと言い、7本もの角を頭に生やした鬼人族だった。

 幼い頃から悪童と呼ばれ、悪逆の限りを尽くしていた――知り合った後、本人から直々に聞かされた話だ。

 ラディオは己の欲望に従って生きてきたという。


 彼との出会いは誰もが寝静まった深い夜でのことだった。

 出会い方は最悪だったとラディオはぼやいていた。

 簡単な話だった。


 10名の手下を引き連れたラディオが町で1番裕福な屋敷を襲撃し、私はいつもの通りその家族の命令を受けて盗人たちと対峙しただけのことだ。

 盗人や強盗といったものは、家族が豊かになればなるほど珍しいことではなくなり、当初もその珍しくもないそのうちの1つ程度に考えていた。

 だが、今回は勝手が違い、いつも通りとはいかない結末を迎えることになった。

 後1歩が足らず、賊徒の頭目ラディオが家の者を皆殺しにしてしまったのだ。


 頭目の男は私と同じく魔法に長け、尚且つ呪文を唱えずとも扱えるという、自分とはまた違った特殊な存在だった。

 私が魔法を1つ発動する間に、彼は身体強化(……当時は類まれなる身体能力だと思っていた)の魔法を含めて3つは発動する。

 彼との戦いはまさしく死闘と呼ばれるもので、最終的に屋敷一帯を焦土に化すほどに壮絶なものになった。

 お互いの魔法の応酬の間に彼の手下の殆どが飲み込まれ、残った少数も逃げ去ってしまう中でも私たちは戦い続けた。

 魔力はこちら側に大いに分があったが、戦況は経験の差によるものか頭目である鬼人族の男の方が有利に動き、ずっと受け身のままだったのが悪かったようだ。

 押され押され、押し返して……いつしか喚く家族たちを背に守りながらの戦いになってしまい、仕舞いに私はその家族の願いをかなえることは出来なかったのだ。


 私は無数の切り傷と火傷、足や腰の肉を抉られ、片腕を骨折するほどの重傷を受けた。

 彼も身体中を血で染め、自慢の角を5本折っていたが、それだけだった。

 彼との戦いに少なからず、私は楽しんでいたのかもしれない。

 2人の魔法で崩壊していく屋敷に気にかけることなく、存分――とはいかないものの、いつもよりも自由に動けることで、気が緩んだのだろう。

 重傷により生じた一瞬の隙を突かれて、守れと命じられていた家族たちは彼の放った火炎に包まれていた。


「……」


 燃え滓となった元主人たちを見て、私は小さく溜め息をついた。

 今まで殺し合っていた鬼人族の彼のこともすっかり忘れ、途方に暮れながら崩壊した屋敷を眺めていることしか出来なかった。


「余計な荷物のせいで本気を出せないのかと思ったのだが……なんだ。お前は主様がいないと戦えないやつだったのか?」


 自慢の角を折られて怒り狂っていたはずなのに、彼もやる気をなくし、呆れるように私に訊ねてきた。

 後から聞いた話だが、腑抜けた(……別に腑抜けてはいなかったが)私を見て、興が冷めたのだと言っていた。


「君こそ、もう戦う気はしないって顔をしてる。手下を殺され、角を折られ……自分が憎いんじゃないのか?」

「あいつらは勝手についてきただけだ。残飯に集るハエでしかなかったが便利だったので置いておいただけ……屑どもがどうなろうが構わんよ。角はまあ、あと数発は殴らせろって気分だ。……その顔は、再戦を考えてはいないようだな」

「……主人の最後の願いは自分たちの命を守れだった。けど、もうその命は消えた。消えたものは戻らない。なら、願いをかなえる必要もない」

「願い? 主たちが大事だとか忠誠とやらで戦っていたのではないのか?」

「言われたから戦ってただけ。それ以上のことなんてない」

「なんだそれは? 大怪我まで負ってまで守る理由がそんな中身のないものなのか。……はは、変わったやつだな…………ふっ、なあ、私と共に来るか?」

「そう君が望むのなら」


 そして、私はラディオと共にすることになった。

 私は彼に肩を担がれるままに共に長年居続けた町から抜け出し、2人で長いこと旅をした。


 時にはラディオに頼まれて強盗をすることもあった。

 だが、二手に分かれての逃走中に出くわした飽食に願われ、言われるままに盗品を与え、ついでに衣服まで与え、合流した後に追い剥ぎにあったのかと驚かれることもあった。

 実際のところラディオは盗品には興味が無かったという。

 求めるのはその工程であり、盗み殺し犯した後の結果については別にどうでもよかったらしい。

 いつも結果だけを求める者たちばかりを相手にしてきたため、私はそんな人がいるのだと驚きつつも、ラディオに興味と関心をいつも懐いていた。


 行く先行く先、ところどころで人に願われれば頷いていった。

 子守から店番、魔物退治、井戸掘りや農作なんてこともした。ラディオと旅に出ても私のすることに変わり映えはしない。


 気に入らないという理由だけで願われ、人を殺したこともある。別に人を殺めること自体は以前の家族にも何度か頼まれたことがある。願いを叶えてやるとその者は顔を真っ青にするだけだった。

 以前と同じく金が欲しいと言われたので魔法で金の山を生み出そうとしたが、それだけはラディオに止められ、珍しく注意された。

 しかし、彼は笑うだけで咎めるような真似はせず、毎度私の行動を面白がった。

 時には面白そうだと付き合ってくれたりもした。





 そんな行く宛ても無いままに何十年と2人で旅をしていると、世間ではラディオ以上の極悪な鬼人族の話をよく耳にするようになった。


 周りは彼のことを夜行鬼神ノイターンと呼んだ。


 可視化するほどの膨大な魔力を自在に操り、彼が暴れ出すだけで国すらも一夜にして滅ぼしてしまうほどバケモノだと説明を受けた。

 おまけにいつも通り私に彼の討伐に参加して欲しいという願いもついてきた。その頃には私の名もそれなりに有名になっていたそうだ。

 同時に有名になったラディオ(その時には偽名としてベルフェオルゴンを名乗っていた)にも討伐を求められ、彼はあまり気乗りはしない様子だったが、私は当然とばかりに討伐の命を受けた。

 渋々と、直前になっても嫌がったラディオの他、有志で募った義勇軍と共に倒すことになり、多くの犠牲を出しながら、どうにかノイターンを封じ込めることには成功する。

 そう、封じ込めることを、だ。

 私とラディオの力をもってしても、彼を倒すことは出来なかったのだ。


 また、ノイターンは最後に私に呪いをかけていった――呪いといっても身を蝕むようなものではない。

 私の身体とノイターンの魔力が結びつき、彼が封印された地に同じく縛られることになった。見えない魔力が足枷のように繋がって、封印された彼からあまり遠くまで移動できなくなったようだ。


 私はいつも通り願いを叶えられなかった、もうラディオと旅に出れないのか、くらいにしか思えなかったが、今回の戦いに参加した誰もが皆、彼を封じ込めたことを大いに喜んだ。

 喜びのあまり、何もない私を褒め称え、崇拝するほどだった。

 そして、私を崇拝するという奇特な義勇兵たちは極寒の地であるこの地へ同じく留まり、私を中心に置いて彼らとの生活が始まった。

 それがノイターンを封じたのが現在のラヴィナイの始まりである。

 今もラヴィナイの地下で、ノイターンは透明な球体の中に封じられている。

 次第に周辺の村や町の人々も私の噂を聞き付けては集まり続け、それは近場から徐々に遠く、海も越えて……数十年ほどでラヴィナイは大国と呼ばれるほどになっていた。

 その後、大国と呼ばれる辺りから、私はクリュマからラクリュマ王と呼ばれるようになっていた。


 流れるように時間は経ち、私が王と呼ばれて800年以上が――ラディオも年老いて、皺くちゃの老人にもなる長い年月が経った。

 ノイターンの魔力と繋がっているせいか、私だけは老いもせずに当時の姿を保っている。





 兵が救援へと向かっている間、ラヴィナイに滞在することになった彼女のもとへと私は何度も足を運んだ。

 そして、彼女の前世の話を毎回興味深く耳にした。

 最初のうちは2人っきりになることを禁じられ――無茶な要望を願われないよう、と毎回ラディオを伴っての座談となった。

 家臣ではなく、友としてこの地に残ってくれたラディオは、彼女のことを妄想癖のある世間知らずの馬鹿女だと苦言を漏らしていた。

 しかし、口ではそう言いながら、彼もまた彼女の世界の話に耳を傾け、次第に言葉を交わすようにもなっていった。

 彼もまた彼女のことを気に入っていたのだと思う。

 暫く経ってからの話だが、彼女が正式にラヴィナイに、私の居る城に住み出した頃、彼の1番の腹心であるイルノートを紹介するほどだった。


 そんな他愛もない彼女との交流の始まりは当然、どうしてあの場で笑ってしまったのかという最初に彼女と交わした話の内容だった。

 彼女のいた世界にはラクリマという言葉があり、意味は『涙』だと彼女は説明してくれた。

 私の名前はクリュマ――人は私をラクリュマ王と呼んだ。

 位の高い魔人族は男ならラ、女ならレと名前の前に冠詞を付けて呼ぶ作法があるらしい。それにちなみ、魔人族の私もラクリュマと配下の者からは呼ばれている。

 ラクリマとラクリュマ――確かに、響きは似ているか。


「ラクリマなんて言葉、普通の人は知らないと思います。私が知っていたものは偶然がラクリマだったので……」


 どうやら彼女の世界には一つの単語でも無数の呼び方――無数の言語が存在しているそうだ。訛りや方言とも違い、多種多様な言語までもが存在するという。

 事細かに彼女は前世の話をしてくれるが、不思議なことにところどころで抜け落ちているところがあるという。しかし、それは彼女にとって些細なことらしくあまり気にしていないようだった。

 以前から人から何か頼まれたら断れない性格だそうで、これまた照れながらも彼女は自分のことを教えてくれた。


 それから――女は自分のことをスイと名乗った。


「これまたですけど、私のいたあっちの世界だと水って読めたりもしまして――」


 彼女の両親は生まれ変わりというわけではなく、偶然にもスイという名前を付けられたそうだ。

 奇遇ですね、とスイが笑うと私も同じように奇遇だね、と笑って返していた。


 ……これが私、クリュマとスイの出会いだった。


 今思えば、あの謁見の第一声が、何百年と何もなかった私に初めて人らしさを与えてくれた瞬間だったのだと思う。

 スイの話はとても興味深く、また彼女自身も興味深いものだった。

 そして彼女への興味はいつしか特別な感情へと変化するのも、これまた早かった。

 スイと同じ時間を共有していく間にゆっくりと溶けるように変わっていく心――人形のような私が、この変貌した感情を何と呼ぶのかに気が付くのには多少は時間がかかってしまったが……。


 今まで与えてばかりで求めることが無かった私がその感情を理解した時、スイを妻として迎えるまであまり時間はかからなかった。

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