第212話 2人のところに帰りたくない日
散々悩まされていたあの悪夢にうなされることはすっかり無くなった。
これも姿形は変わってもまた彼女と再会出来たことが大きい。
今朝、僕は夢を見た。
内容は覚えていないが、悪夢ではなかったはずだ。けれど、悪くはないけど嫌っていうか……あの夢を見た時の気持ち悪さを覚えた。
この不快感をいち早く拭いたくて、僕は朝早くからレティの部屋に訪れることにした。
あの悪夢を取り除いてくれた彼女と顔を合わせれば弱気になった自分を笑い飛ばせると思って――。
「――おい、シズク。聞いてんのか?」
「あ、はい!」
がおっと大きな口を開けたウォーバンに呼ばれて飛び跳ねた。
「お前ずっと同じ皿ばかり拭いてるぞ?」
「え、本当……あぁっ!?」
ウォーバンに指摘されて手がつるんと滑った。
陶器のお皿は床にぶつかり、ばりんと音を立てて割れた。ボタリ、と続いて手に持っていた糸瓜タワシが水音を立てて床に落ちた。
直ぐに手を伸ばしてお皿を拾おうとしたら、割れた皿の破片が刺さり指先の皮膚が裂けた。
「……いたっ」
赤い血がつっと傷口に線を引いた。
「たくっ、何してんだ!」
「ご、ごめん! ウォーバン!」
「何だよお前、今日はよお……もう邪魔だ! ホールに行ってろ!」
首根っこを掴まれ厨房からウォーバンに追い出され、床をモップ掛けしていたネニアさんへと力任せに放られる。ナイスキャッチ……ネニアさんはサッカーボールのように床に叩き付けられる手前の僕のお尻に足を差し込み拾い上げた。
ひょいと言わんばかりに足の甲に乗った僕のお尻を脚力だけで浮かばせ、ふわりとした浮遊感の後、もふもふの彼女にお姫様だっこのように抱きかかえられた。
「そいつ割った皿で指を切りやがった。治療してやれ」
「はいはーい。ほら、怪我したところ見せて……あら?」
「……いえ、これくらいなら」
指先の傷口は治癒魔法でとっくに治している。後には残った血の痕だけだ。
僅かに指先に残った薄緑色の光を見てネニアさんは目を丸くする。
「さすがねー。でも、ま、仕事の邪魔だからそこで大人しく座っててよ」
「そんな、僕も――」
「だーめ! 聞き訳がないと今度はその尻を本気で蹴り上げるわよ!」
「……はい」
僕はがっくりと肩を落とし、自分の不甲斐なさを嘆きながらテーブル席に着くしかなかった。
実は先月末くらいから僕はウォーバンのお店でお手伝いをさせてもらっている。
今度はウェイトレスでもウェイターでもなく、料理人としてだ。
「シズク、だいじょうぶか?」
「うん、だいじょうぶ……切ったのはちょっとだけだから」
同じくリコもホールでお手伝いさんをしてもらっている。
リコの可愛らしさに釣られてお客さんが増えてると猫娘ネニアさんは嬉しそうに教えてくれた。
ネニアさんは床拭きを続けながら訊いてきた。
「なあに、今日はどしたの? ずーっとぼーっとして心ここにあらず。今朝なんか目を真っ赤にしてたし、風邪でもひいた?」
「……い、いえ、風邪じゃないです」
「そう? でも、今は冬季だからね。自分が気が付いてないだけで風邪かもしれないわよ?」
「けど、じゃあ僕は一体どうしたら?」
途方に暮れていると、厨房からウォーバンが語り掛けてきた。
「……シズク。今日はもう上がれ」
「え、でも仕込みとか皿洗いもまだ……」
「今のお前がいたところで邪魔でしかない。良いからさっさと帰って寝ろ!」
「ふふっ、早く帰って温かくして寝なさいって言ってるんだよ。明日はお店も休みだし、店長も素直になればいいのにね」
「ネニア! お前はさっさとこいつの代わりに中に入れ!」
「はーい! じゃ、シズクくん。お大事にね。リコちゃんもありがとうね」
「うう……ふたりともごめん……」
「ネニア、またな!」
結局、里中に自分の正体はバレちゃったしね。
開き直ってウォーバンのところでまともなラーメンを完成させたいって思って足を運んでいるうちにお仕事に携わるようになった。
アサガさんのところから持ってきていた即席麺の試食会をしたりと、ウォーバンと一緒に研究をしたおかげでどうにか形にはなったが、まだまだ評判とは言い難い。1日2日じゃ美味しいラーメンはありつけなさそうにない。難しいや。
他にも量を減らしたメニューの提案が功を奏したのか、最近亜人族側に越してきた天人族の人もちらほらお客として姿を見せてくれるようにもなってきている。フラミネスちゃんの家族が食べに来てくれたことがあった。
(最初は目を回すほどの多忙な厨房だったけど、最近はどうにか慣れてきたって言うのにこれだからなあ……)
2人とも今日はごめんなさい。
着替えを済ませ、それじゃあまた……と居た堪れなくなりながらも小さく挨拶をして僕とリコはお店を後にした。
◎
「……寒い」
ウォーバンの店から出て直ぐ、冬の夜風に吹かれうっと真っ白な防寒コートの下で身を震わせる。
「秋なんてまったくと感じさせずに冬だもんなあ。ひと月ごとに季節が変わるここにいて体調崩しても不思議じゃない……風邪じゃないけどさぁ」
身体を震わせながらも、今までお手伝いをしてくれたリコのあたたかいお手々を繋いで帰路に着く。
店の中でのリコはネニアさんが用意してくれたフリフリのエプロンを着ているけど、今は赤いファー付きフードを被った白コートを着込んでいる。
リコの服は僕の身体から出るときに魔力で作っているけど、結構いいデザインなんだよね。銀縁のファスナーまで付いてるし。ボタンで留めればいいのにファスナーを作ったりと器用だなあと感心するばかりだ。
「シズク、やっぱりかぜひいたのか?」
「……ううん。大丈夫だよ」
本当だよ。別に僕は風邪ってわけじゃない。
僕の身体は精神的なもので左右されがちだ。これはいくら背が伸び、成長しても昔のままだ。
ただ、内心的に弱ってるから仕事に身が入らなかった――なんてウォーバンに言ったら食べられちゃうかもしれないから、っていうのは半分冗談。
本当のことを伝えて帰されるのが嫌だったから隠していた。
「はあ……帰りたくない」
「シズクかえりたくないの?」
……うん、帰りたくない。
今の2人と、レティとルイと顔を合わせたくない。
今朝のことを思い出すと悲しいやら悔しいやら……でも、ここで帰らないって選択は無いし。
「ううん……今日も疲れたでしょ。さっさと帰って休もう」
小さいリコに手を引かれながら僕はまたも帰路に着く……けど、いつもより歩幅は狭い。リコに合わせてるわけじゃなくて僕の足が重いからだ。
言葉では帰ろうと言っても、心はやっぱりレティとルイのいる屋敷に帰りたくないって思ってる。
(……だって……どんな顔をして2人に会えばいいんだよ!)
「……シズク?」
「……うぅぅっっ!」
今日1日、今朝見た光景がずっと頭から離れない。
あれは仲が良いから一緒に寝たなんて話じゃない。第一、裸で寝る必要がないし、あのレティが全裸で寝るなんて提案を許すとは思えない。
(じゃあ何してたんだよって、レティもレティで顔を真っ赤にして誤魔化してたり……でも、なんか首筋に歯型が付いてたし! 身体中にはいくつもキスマークが付いてたし!)
たとえキスマークが無かったとしても、女の子同士とはいえ、お互い真っ裸で同じベッドの中にいるって、それは、それはもう――。
「――だよねぇ! 絶対してるよねぇ!」
「わっ、シズクどうした?」
「……っ……なっ、なんでもない!」
結局、今朝は逃げるようにウォーバンのところで向かってそのまま働いて忘れようとしたけど……繁盛期はともかくお客さんのいない暇な時間は2人のことばかり考えてしまった。
あれは絶対にしてた。女の子同士でどうするのかなんて知らないけど、あれは絶対にやってたに違いない!
……いったい、いつからそういう仲になったのか。
試合が終わってから数日経って……イルノートが旅立った日あたりから2人の関係というか距離感が変わったのは薄々感づいてはいた。
四六時中ずっと2人でいることが多かったし、時には楽しそうに恥ずかしそうに手を繋いでいることも見た。僕に隠れて2人っきりで内緒話もしてたし……。
最初はきっと、どんな形であろうとも姉妹だし、なんだかんだでレティとルイも仲直りしたんだろうなって、1人寂しく思いながらも陰ながら応援してたんだよ。
(でもでも、それが予想以上に仲良くなるなんて思っても見なかったよ!)
別に同性だから駄目なんて僕なんかが言えるわけも無い。
(けど、レティは僕っていう彼氏がいるのに……ルイだって僕のことが好きだって思って……)
なら、野球で勝ったルイは僕よりもレティを選んだ理由がここでピタリと当てはまることを知り――2人のことが気になって今日はずっとどんより曇り。直ぐに気を抜くと雨すら降りだす恐れあり。
(だから……今夜はもう2人のところには、2人のいる屋敷には戻りたくなくて……)
「シーズークー!」
「……ごめん。その、リコだけ先に帰ってていいよ」
「やーだー。シズクといっしょじゃないとやーだー」
ぼつぼつと帰り道を進んでいたけど、またも足を止めたのは亜人族と天人族の居住区をつなぐ橋の真ん中だ。
1度止めてしまったものはもう動くことはなく、かれこれ長いこと橋の上で何をするわけでもなく留まってしまった。
しびれを切らしたリコはのしのしと僕の背を登っておぶさってきた。
つんつんと頬を突かれるけどごめん。面白い反応をしてあげることもできない。
「もうかえろう? シズクをいじめるならリコがルイもメレティミもおこってあげるから」
「いじめるって……う、うう……ちがくないけど、えっと違うよ。いじめられてなんて、ないよ……」
「ちがくないのにちがうのか? じゃあ、はやくかえろー!」
「う、うん。わかった。帰るよ、帰るって……」
そうだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。
結局この里で僕が戻れる場所なんて今だけは会いたくない2人の待つ屋敷だけなんだから。
……けれどやっぱり僕は動けない。
帰る先へと顔を向けても、直ぐに欄干に肘をついて頬杖をついたままだ。
はあ、と白い息が吐き出されたのを何度と見る。曇った夜空だけど隙間隙間で星も見える。
綺麗だなぁ……と星に見蕩れたのはちょっとのことで、結局考えるのは2人のことばかり……。
「……わけわかんないよ。ルイはルイでまったくと僕と話してくれないしさ……」
「もー! シーズーク―!」
せっかくまた会えたっていうのに、試合が終わってから僕はルイとまともに話せていない。
近くにいるのに遠くの人に感じるよ。
以前はシズクシズクっていつだって僕に寄ってきたのに、たった2年でここまで変わってしまうものなのだろうか。
みんなでレティの屋敷に住まわせてもらえるようになったけど、露骨に避けたり2人っきりになると直ぐに理由をつけて逃げちゃうし……あ、もしかして、思春期ってやつかな。
親や兄弟が煩わしくなったりして嫌いになったりする……うぬぼれてた。
きっとルイはずっと昔のままだって勝手に思い込んでた。
変わらないことなんてありえないのに、僕はどこかでまだルイをあの頃のままだって思っていたのかもしれない。
昔と比べて僕は変わった。レティも変わった。
だから、ルイだって変わったからそんな風に僕を遠ざけるようになっちゃったのかな。
「……もしかして、僕のこと嫌いになっちゃったのかなぁ」
「あのっ――……え、誰が嫌いになったの?」
「そりゃルイがさ……」
「へ? なんで? ぼくがどうしてシズクのことを嫌うの?」
「だって最近のルイは僕から遠ざかってるみたいで…………って、えっ、ルイ!?」
はっとした。
声のした方を見ればいつの間にかルイが隣にいたからだ。
「な、なななっ、なんで、ルイがここにっ!?」
独り言を聞かれた恥ずかしさと、ルイの突然の登場に思わず飛び退いてしまう。
後退った先、とんと背中を押されて振り返ればレティがそわそわと落ち着かない様子で立っているし。
僕と視線を合わせると「お、おっす」と気まずそうに小さく声を上げた。
「帰りが遅いからって迎えに、ね」
と、レティは続けた。今朝のことを恥ずかしがっているのだろうか、言葉の方はたどたどしい感じだった。目も合わせてくれない。
「シズクねー、かえりたくないってだだこねてたの」
「り、リコぉ言わないでよ!」
「え……なんで? シズク、帰りたくないって……」
「あ――……まあ、そうなるわよね」
レティの態度になんかむっとする。当事者だっていうのに他人事みたいに……あーもう!
わかったよ。リコにも悪かったしね。
言葉にはしなかったけど僕は頷いて、2人が動くよりも先に足を出した。
迎えに来てくれた2人を無視する形で停滞していた帰り道へと足を向け……そこをルイにコートを引かれて立ち止った。
「ね、ねえ、シズク!」
「……何?」
「あのね……い、今から、ちょっと話せるかな!」
「……今から?」
「だめなの!?」
「だめじゃないけど……」
ちらりとレティを見た。レティは首を横に振った。
なに、それはどう言う反応?
「あ、あと、ふ、ふふふ、ふたりっきりで!」
「……2人っきりで?」
言葉も噛み噛みで、がくがくと頭が取れちゃうんじゃないかってくらい何度もルイは首を上下に振った。
首の動きが止まると、ルイはちらちらと僕とレティへと視線を交わして俯いた。
そして、何でか怒ってるみたいにルイが上目で睨み付けてくる。どうして喧嘩腰なのか……とりあえずと僕は口を開いて聞いてみた。
「……どういうこと?」
「……大切な、話が……ある、の!」
大切な話……それはつまり、レティとのことだよね。
どんなことを話すかは知らないけど、きっと僕にとっては悪い内容だと思う。
試合結果で僕よりもレティを選んだことが証拠だ。
ルイはレティのことを姉妹とか家族以上に好意を寄せていて、元カレの僕との関係をはっきりとさせたいのではないだろうか。
(もう離れないって約束したのは、あの場限りの勢いだったのかな……)
悲しくて泣きそうになる。今が夜でよかった。潤んだ眼なんて見られたくない。
仕方ない。
僕も僕で腹を決める。
例え、どんなことをルイから言われようと受け入れるつもりだ……などと、随分と僕は弱気になってしまっている。
「……いいよ。話でもなんでも聞いてあげるよ」
「ほんと?」
「ほんとう……」
「あ、ありがと……」
別に感謝される覚えはないけど……もう、なんでだろう。
さっきから僕は不貞腐れてるのか、ルイの顔をまともに見れない。
すごい嬉しそうな顔をするルイを見るのが、とても辛い。
「あ、リコも――」
「あ――リコちゃんはわたしといっしょに帰ろうか?」
「え、リコもいきた……え…………あう、わかった……リコ、メレティミとかえる……」
「うん、いい子いい子。じゃあ……ま、あんたたちはしっかりと話し合いなさいね」
なんだよそれ。
レティはそう言うなり僕の背に張り付いていたリコを抱きかかえ、来た道を戻っていった。
橋の上から2人が闇の中に消えていくのは直ぐだ。
足音も何もなく、冬季ということで虫の声もない。冷たい風が時折頬を撫でてくる。
「ふ、ふたりっきりだね」
「……そう、だね」
ルイの言う通り、橋の上には僕とルイの2人っきりだ。居心地の悪さは朝の比じゃない。
僕は再度頬杖をついて夜の世界に身を任せる。
薄い雲のかかった空に家々の灯り、橋の下で夜光を浮かべてたゆたう水面。
隣にならんで肘をつくルイは小さく首を傾けて僕を見つめていた。ほんのりと顔が赤く見えるのは冬の空気に冷やしたからだろうか。
目が合うと慌てるように逸らされた。
「外……ここ、寒いけど、大丈夫?」
「……うん。ぼく、寒いのはすき……だよ」
照れ臭そうにルイは微笑を浮かべて、あらためて僕と目を合わせた。
(どうしてそんな楽しそうに笑ってるの。今から大切な話をするんじゃないの?)
ルイが何を考えているのか今の僕にはわからなくて、ルイの視線から逃れるように前を向いた。
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