第195話 早朝だけの特別な青

 全てを思い出しやっと本当のぼくに戻れたっていうのに、未だ意地の張ったぼくが残っているみたいに、心から2人との再会を喜べないでいる。


「なんでっ……なんでシズクとキスしたのっ!」

「……それは、ルイを正気に戻すために提案されたから……」

「提案!? 提案されたからってするの!? ちがうよね!」


 キスって好きな人と好きな人がする特別なことなんでしょ!

 ぼくは知ってるんだ。アニスとリターとフィディが3人いつもキスしてるのを見てきたんだから!


 もちろん、キスが挨拶になることだって知ってるよ。

 頬にキスをすることが信愛の証だって、挨拶だって教わったこともある。

 だけど、レティがシズクにしたキスは違う! 唇にしたんだ!

 目を閉じてるシズクの唇にレティは顔を近づけてキスをしたんだ!

 だから、だから!


(こ、ここ、恋人同士じゃないとキスはしちゃいけないんだよ!)


 これがシズクからしたっていうなら、ぼくの怒りは半分シズクにも行ったよ。

 シズクの提案だっていうのももしかしたら信じたかもしれない……ううん。きっと信じても信じられなくてもぼくは怒ったけど!


 ――やっと2人に再会できたんだ。


 会いたかったとか、どうしていなくなっちゃったのとか、ずっと寂しかったとか……成長したぼくとは違って2人の見た目がほとんど変わってないことなんかも含めて、たくさん、たくさん……レティにもシズクにも言いたいことも聞きたいことは沢山あった。


(……だけど、やっぱり許せないんだ!)


 さっき言ってた通り、シズクはぼくから離れたかったって言い分は聞くよ。

 シズクはレティと同じくぼくとは違う世界の人間だったことは驚いた。

 ぼくが小さかったから好きになっちゃいけないっていうのはわかんなかったけど、なんとなくだけど納得もした。

 でも、じゃあどうしてレティはシズクといっしょに行っちゃったの?

 あの時のレティはシズクから距離をとってたのも知ってるんだよ。嫌いじゃないけど、好きでもないっていうか……でも、どっちかといえばきらいみたいな。

 だからぼく、2人にはもっと仲良くなってほしいって思ってた。3人で仲良くしていたかったんだ。


 (けど、けどけどけど! こんなにも仲良くなってほしいなんて思ってない!)


「でも、仕方なく……」

「仕方なくっ!?」


 言いたいこと。聞きたいこと。知りたいこと。知って欲しいこと。

 たくさんあっても、今は怒り任せに違うことばかりが口から出てしまう。今まで見たことがない弱々しいレティの物言いやら言い訳に、ぼくの口は別のことばかり話しちゃう。

 だって今も仕方なくなんて言ってたけど、2人のキスは今もぼくはありありと思いだせる。

 仕方なくと言ったくせして、あれは感じだった。

 あの場限りでのことじゃない。きっと、きっと前から何度もしてたふうに見えた!

 だって、だってさ!


 ――2人のキスはほとんど躊躇がなかったんだよ?


 イルノートに首輪を切られた時に魔法が自由に使えることを頭で考えるよりも先に身体が反応して、ごちゃごちゃになって、もう何もかも嫌だって思って氷の花の中にぼくは閉じ籠った。

 あの時の自分を見失っていたぼくは、このまま花の中にずっといたいって思った。けど、閉じ籠っていたぼくのところに2人が来てくれたから、向き合ってくれたから、ぼくはやっと本当のぼくを思い出せたんだ。

 その後、自分で作った魔法から出たいって強く思ったのもほんとう。

 外に出れなくて目の前にいる2人に心から助けを求めたのもほんとう。

 そして、レティとシズクはぼくを外に出すため頑張ってくれて……だからって、どうしてキスをするってなったの!

 そんな理由でキスするなんてぼくは許せない!


「レ、レティは誰にだってキスするの!!」

「……なっ! しっ、しないわよ! わたしだってっ……!」

「じゃあ、シズクだったからしたの!?」

「それは――…………」


 レティの口がもごもごと動く。それは――の後の言葉がつぶれて消える。

 はっきり言って欲しいのにレティは後の言葉をぐっと飲み込んだ。言いたいはずなのに飲み込んだんだ。


「ど、どうして黙るの! ね、ねえ! ねえねえ! ぼくとの約束忘れたの! シズクのこと取らないでって! ねえ!」


 そんなレティの反応にぼくは慌てるしかなかった。

 胸の奥がずきずきする。イライラと一緒にこわくなる。

 こわい。恐い。恐い!

 ぼくはレティがシズクを好きになるのが1番怖い。

 他の女の子がシズクを好きだって言っても(そんなこと無いし、させないけど)ぼくは負ける気がしない。

 でも、レティは違うんだ。

 レティはぼくよりもお姉さんで、いつも色々なことを教えてくれて、シズクみたいに何でも知ってて……。

 レティに会いに行く前にも、もしもレティがシズクのことを好きになっちゃったどうしようって心配したことがある。レティがシズクを好きになったらきっとぼくじゃ敵わないって思っちゃったんだ。


(シズクって年上の人が好みみたいだし、旅先による町や村なんかでは色っぽい女のヒトばかりじろじろ見てたし!)


 今は使えなくなった神託オラクルを通し、落ち着いた言動と余裕の表れから顔を合わせるまで年上って印象持っていたレティはぼくにとっても頼れるお姉さんだった。ぼくも毎日と悩みを聞いてもらったりと甘えてばかりだった。

 そんなお姉さんのレティが本気を出したらシズクは直ぐにコロリと落ちちゃう。

 頼れるオトナのレティに、泣き虫でコドモなぼくが勝てるところなんて見当たらない。


 しかも会ったら会ったで顔も似てるって周りから言われたし(ぼくはわかんないや)。

 おっぱいだって大人顔負けって感じでぼくなんか相手にならないし(あんな大きさ反則だよ!)。


 年上でおっぱいの大きい完璧なレティのことを、シズクが好きになってもおかしくない。


(……でもでも、レティはシズクを取らないって約束してくれたから――そう信じてたのに!)


「取るって……違うわ!」

「違うって何が! やだよ……やだよ! ぼくのシズク取らないでよ!」

「だから、それは取る取らないじゃなくて……その……」

「はっきり言ってよ! なんで、どうして取ってないって言ってくれないの!」

「それは……」

「さっきからそれはそれはばっかり! ね、ねえ――」


 こわい。言われたくない。こわいのにぼくは次の言葉を言わなきゃいけない。

 聞かなきゃ、聞きたくないのにぼくは今の感情に身を任せて吐き出しちゃう。


「――レティはシズクのこと好きなの!」

「……っ!」


 レティは肩を振るわせて、ぼくから目を逸らして黙った。

 ――その反応が何よりの答えだった。求めたくなかった沈黙だった。

 レティは……シズクが、好きなんだ。


「うそだよ……なんで、どうして……ぼくが……シズクを好き、なのに……」


 レティはさっきからぼくの目から逃げようとする。

 その逃げた目でちらちらとレティはぼくの腕の中にいるシズクを見たり見なかったりと移動する。

 逆にぼくはやっとシズクに触れられたのに、抱きかかえるだけでちっともシズクを見ようとはしなかった。

 代わりにぎゅっと抱きしめて涙が出そうになるのを堪えて、大きく強く叫ぶ。


「レティの……レティのバカぁぁぁっ!」


 ぼくの怒鳴り声が神域の間に鋭く響く。

 もう神域の間にはユッグジールの里に住むたくさんの人がぞろぞろと姿を見せていた。

 さっきまで良い様に幅を利かせていたゼフィリノスの家来たちを囲って縄で縛り上げたり、怪我人の看護や各部族の長のもとに集っていたりする。

 その大勢の人が、大声を上げたぼくに注目をする。

 舞台の上だから誰もが顔を見上げてぼくらの口論を眺めているのがわかった。


 泣き喚きたくて仕方なかった。でも、出来ないのは周りからの目があることと、近くにがいるからだ。

 みんなは、ぼくら3人を囲っておろおろと狼狽えている。


「フルオリ……いえ、ル、ルイ? 様。とりあえず……シズクとフルオリフィア様がく、くく、く……口付けっを! 交わされた、件に関してはまた後日に――」

「……っ……ウリウリは黙ってて!」

「は、はい!」


 間に入ろうとしたウリウリはぎっと睨み付けて止めさせる。


「フ……フルオリフィア、駄目だよ。フルオリフィアが困ってる……」

「フルオリフィアフルオリフィアってどっちのことを呼んでるの!? 困ってるのがレティだっていうならぼくだって困ってるよ! フラミネスちゃんも黙ってて!」

「う、うん! ……怖いよ。フルオリフィア怖いよ……」


 ぼくらを止めようとしたフラミネスちゃんをきっと睨み付けて黙らせる。


「お、おい! お、お前フルだろ! なんで今まで俺忘れてて……いや、な、ななな、なんでシズクとキ、キスっしてんだ! っていうかシズク! お前、お、おお、男――」

「……ドナ様。今貴方がでしゃばる場面ではございません。ご自重ください」

「なっ、シンシア! やめろ、引っ張るな! 俺はフルにもシズクにも言いたいことがっ、なんでお前が怒ってんだよ!」


 ドナくんは怒鳴り込んできたけど、いつも通りのすまし顔でシンシアちゃんに腕を引っ張られて下げられる。


 みんながぼくらを止めようとしてくるのはわかった。ぼくだってこんな喧嘩したくなかった。

 ……本当は、本当はね。


(レティとも抱き合って再会を喜びたかった……!)


 でも、許せないって思うぼくが大きくて出来ない。

 シズクのことが好きで、好きで好きで好きで仕方ないから許せない……違う。違わないけど違う。わかってる。

 怒ってるのも本当だけど……本当は、ぼくは悲しいんだ。


 ――大切なレティと同じ人を好きになったことが、とても悲しいんだ。


 悲しくて本当は泣きたくて、ぎゅっと顔をくしゃくしゃにして――ぼくだってこんな顔をしたくない。レティにだってそんな困ったような悲しい顔をさせたかったわけじゃない。

 でも、どう発散していいかわかんない。あまりにも今日1日で色々なことが起こった。

 色々なことがあって考える時間なくて、ぼくはぼくは――。

 またもぼくは息を吸ってレティへと怒りをまき散らそうとしたその時だ。


「……とりあえず」


 と、1人の天人族がぼくらの間に割って入ってきた。

 ウリウリやフラミネスちゃんを追い払ったように邪魔をするな――って、きっと睨み付けるけど、あれ……?

 その人は緑髪の見たことのない綺麗な人で、背には金髪の鬼人族のを背負っている。

 鬼人族の子供は頭を片手で摩りながらも、濡れた緑色の目できょろきょろとぼくとレティを見比べて「おお、そっくりだなー!」なんてのんきに驚いてる。

 レティがその人を知っているのか「タルナさん……」と呟いた。

 ただ、ぼくはその人よりも、その人に背負われている鬼人族が興味深そうにぼくとレティの顔を見比べてるのが無性に腹が立ってしかなかった。

 だから、むっとしてぼくの怒りが鬼人族の男の子に向かおうとした――その時に、緑髪の女の人がぼくを見て先に口を開いた。


「ねえ、君が絞め落としているシズクくん、そろそろ解放してあげたら?」

「…………え?」


 言われて腕の中にいるシズクを見たら……ぐてっと意識を失っていた。


「わ、わぁぁぁ――っ! シズクぅぅぅっ!」

「絞め落として……って、え、ええ! ちょっと、シズク!」


 慌ててぼくはシズクを腕から放して地面に寝かせ、続けてレティも直ぐにシズクへと駆け寄ってきた。

 2人お揃いで慌てながらシズクを揺すり起こすけど、


「まったく……落ち着きなさい! この馬鹿娘ども!」


 と、パシンと緑髪の天人族の人にレティと頭をはたかれて止められた。





 青みの射した世界はとても幻想的で、今まで浸っていた夢の延長線かと思ってしまう。

 ひやりと澄んだ空気は汗でべたつく肌をさらりと撫でる。寒くはない。心地いいとさえ思う。


「……ここは?」


 今いるこの場所に僕は見覚えはない。1か月ほどお世話になったアニスの屋敷ではなさそうだ。アニスの屋敷全体が洋式であれば、この部屋は和式っぽく見える。

 半身を起こしてみたはいいものの、眠気は未だ尾を引き続けた。

 そのため、抗い違い睡魔へのいざないを素直に受け入れ、起きた時にはらりと落ちた毛布を掴み、雑に引っ掛け直して改めて横になった――……ところで、今度は勢いよく起き上がってしっかりと目を覚ます。


「――レティ! ルイ!」


 直ぐにあたりを見渡しながら、僕は二人の名を叫ぶように呼んだ。


「レティっ、ルイっ!」


 目の前に広がる世界の色と同じ……いや、より濃厚で素敵な青色の、大切な2人の名を再度、叫ぶ――いない。ルイもレティもどこにもいない。

 見覚えのないこの部屋には家具といったものは無く、大きな両開きの窓があるくらいだ。

 今一度僕は小さく息を吸って、大声を上げた。


「……ルイ! レティ! ……どこにいるの、ルイ!? レティ、いるなら返事をしてよ!」

「なぁぁぁ……シズク、うるさいぞー!」

「わっ!」


 はっとながら声のした方へと顔を向けると――俯きがちに視線を下に向けると、今更になって隣に誰かが寝ていることに気が付いた。

 毛布に包まれもぞもぞと芋虫みたいに動き、大きな欠伸を上げたそれは――。


「ふああ……シズクは早起きさんだなぁ。おれも早起きな方だけど、さすがにまだ寝てる時間だぞ?」

「え……えっ……ベレクト?」

「なんだなんだ。おれ以外にもベレクトが他にもいるのか?」


 と、頭から毛布をかぶって丸まったまま、ベレクトは半身を起こし、きょろきょろと何かを探すような素振りをした。

 そして、まだ眠いのかに半目のまま、僕をおちょくるようにニヤっと八重歯を見せて笑ってくる。


「シズク、やっと目覚めたか! おはようだ! よく眠れたか!」

「……あ、う、うん! ……おはよう」

 

 拍子抜けとばかりに、ついつい普段通りの挨拶を返してしまった。

 でも、おかげというか、青白い世界に染められたベレクトと顔を合わせたことで僕はどうにか落ち着けたみたいだ。

 先ほどの混乱していた僕はもういない。残っているのは肌の上をなぞる冷たさだけだ。

 彼と顔を合わせながら、金色の髪から伸びた1本の角をまじまじと見つめてみた――うん、ベレクトだ。子供の姿になったベレクトだ。


「なんだ。そんなじろじろ見てー。おれの顔に何か付いてるのか!」

「う、うん。ベレクトの顔がある」

「そりゃそうだ。おれ以外にベレクトがいたらおれが困る……イタタっ、なんで、つねるんだよ!」

「……あ、ごめん。夢かなって?」

「つねるなら自分のをつねろよー! この、おかえしだ!」

「いふぁっ、そんな強ふやっふぇないでひょ!」

「ふふーん、倍返しだ!」


 ついつい感触を確かめるみたいにベレクトの頬をつねってしまい、お返しとばかりに飛び掛かられて両頬を思いっきり引っ張られる。


「もう! 痛いよ! 夢じゃないのはわかったから!」


 不本意ながらじゃれ合う形になったが、ベレクトは突然、痛っと顔をしかめて頭を擦りだした。自分で擦って、またも「痛っ」と喘いだ。

 ああ……と気が付いた。

 きっとタルナさんのあの強烈な拳骨を貰ったのだろう。


「痛そうだけど……大丈夫? 治癒魔法で治さないの?」

「治したいけど駄目だ……罰だからって魔法は使っちゃいけないって禁止されている! 何でもかんでも魔法に頼るなって怒るんだ! オフクロは鬼だ!」

「はは……鬼はベレクトの方でしょ」

「じゃあ、悪魔!」

「じゃあって……あ……あっ! 違うよ! ね、ねえ、ベレクト! レティは! ルイは!?」


 他愛もない話についつい流れてしまったが、僕は声を荒げてベレクトに2人の居場所を訊ねた。

 僕が急に大声を上げたせいか、ベレクトはきょとんと驚いたような顔をする。それから、瞼を擦りながら「あー2人ならー」とゆるい口調で呟いた。

 ごくりと喉を鳴らして……いや、本当は喉はからからだったから鍔は飲めなかったんだけど、ベレクトの話が始まるのを今か今かと僕は待った――だが。


「……大きな声を上げるな。周りに迷惑だろう」


 と、今度はベレクトとは反対から声が掛けられた。

 その声は……。


「……い、イルノート?」


 慌てて振り返ると、もぞりと寝返りを打ち。こちらへと顔を向けるイルノートと目が合った。

 彼の動きに合わせてさらりと銀髪の髪がなびき、髪の房から眠たそうに半分まぶたの閉じた赤い瞳を見つめてしまう。


「イルノート……?」

「なんだ?」


 目が覚めた時よりも部屋の中は白みが強くなった。

 別れた数年前とは違い、精彩は欠け、大分やつれているように見えたが、僕の目に前にいるのは紛れもなくイルノート本人だ。

 そして、イルノート本人だとあらためて認識して――言葉が詰まる。

 明るくなったことで彼が僕をまっすぐに見ていることに気が付いたからだ。

 ユッグジールの里に向かうまでの道中の、寝食を共にしていた幸せだった日々の視線で僕を見ていたんだ。

 敵対し、対峙した時とは違う嫌な感情の乗っていない赤い目で僕を見つめていたんだ。


「イルノート……」


 ルイとまだ獣だったリコと、そして彼、イルノートたちと旅をしていたあの日々と同じ、厳しくも根には優しさの詰まった赤い瞳を、僕も同じ様に見つめ返して……ふと、彼の瞼が腫れていることに気が付いた。

 瞼の腫れた、まるで泣き腫らしたかのような目だ。


(イルノートが泣いた?)


 イルノートは僕が知る限り物静かなひとだ。彼は感情を滅多に表に出さない。

 怒り悲しみ、感情を荒ぶらせた彼を見たのだって、敵対した前回と今回の2回だけだ。

 そんな彼が泣いたって言うのだろうか――ただ、そのことを僕が追求するより先に、ベレクトがひょっこり乗り出して僕よりも先にイルノートに声をかけた。


「お、銀髪のおねにいちゃんも起きたか! おはようだ!」

「…………おはよう。…………なんだ、そのおねにいちゃんとは?」

「お前はシズクと同じく女みたいなやつだからな! おねえちゃんみたいなおにいちゃん! だから、おねにいちゃんだ!」


 う、安直だなあ……レティのことをおっぱい姉ちゃんって言うくらいだったしね。

 まあ、ベレクトの命名にイルノートは心底嫌な顔をする。


「……やめてくれ。馬鹿にされているみたいだ」

「あ、ごめん! 馬鹿にしてるわけじゃない! じゃあなんて呼べばいいんだ! ちなみに昨日も言ったけどおれはベレクト! オフクロや親しいやつからはレクって呼ばれる! あ、シズクもおれのことレクって呼んでいいぞ!」

「え、あ、うん。わかっ……た?」


 じゃあ、レクと呼ばせてもらおうかな――と、つられて僕が返事をしてしまう。

 イルノートは鼻を鳴らし「……好きに呼べ」と呆れるように呟いて、僕らから顔を逸らして上へと向けた。

 寝直す、とは違うらしい。彼は目を開けたまま天井を見上げている。

 だから彼と視線が重なったのは最初の数秒のことだ。

 だけど、その数秒程度のことが僕はとても――。


「じゃあ、おれもイルノートって呼んで……ん、シズク……どうした?」

「……っ……ぐすっ……」

「え、な、泣いてるのか!?」


 ――嬉しくて、喉の奥が震えだした。

 声が出そうになったのでぐっと堪える。

 でも、熱くなった目の奥は僕の意志ではどうしようもなくて、ぽろぽろと涙がこぼれた。


「シズク……どうして泣く?」


 顔は天井に向いたまま、赤い目だけを動かしてイルノートが僕を見た。

 レクが僕の代わりに指で涙を拭ってくれる。レクの親切すら嬉しくて、小さな彼を強く抱き締めて顔を隠した。

 慌てるレクには悪いけど、今はこの情けない顔は彼には見せられない。

 ……だけど、さ。

 思ってしまった気持ちは風が吹くように僕の口から流れていった。


「……だってさ。イルノートとこうして前みたいにいられることが嬉しくて仕方ないんだ」

「……」

「……」


 レクもイルノートも何も言わなかった。

 ただ、イルノートは小さく「……ふん」と鼻を鳴らした。

 不機嫌だから鳴らしたものじゃないことは、わかった。

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