第183話 ぼくは歌う

 騒ぎが起こる少し前――外の喧騒が気になってテントから顔を出すと、空から船が降りてくるところが見えた。

 あれは、飛空艇かな。

 でも、こんなところに着陸するって、よく周りの人が許したなー……なんてぼけっと眺めていると、宣言通り外にいたイルノートに中に戻れって言われたので素直に頷いた。

 でも、不満だ。


(もうちょっと見せてくれてもいいのにな)


 むすっと頬を膨らまて丸椅子に座り直したところで、ふくれっ面は直ぐにしぼんだ。

 悲鳴、怒鳴り声――胸の中を掻き乱す音がテントの外から聞こえ始めたからだ。

 外の様子が気になって仕方ない。けれどぼくは椅子から立ち上がろうとはしなかった。

 嫌な予感……っていうのかな。胸の奥がぞわぞわと、変な気持ちになったことが原因かもしれない。

 ともかく、ぼくは丸椅子に座りながら耳を塞ぎ、音が聞こえなくなるのを待った。

 長い時間を待った。

 ドナくんの怒鳴り声やフラミネスちゃんの悲鳴、特に1番大きかったのはおじさん……鬼人族の長の声だった。大熊の亜人族の長の雄叫びなんかも聞こえてくる。

 みんなの怒号はぼくをより一層不安にさせる。


(だいじょうぶ。ぼくがいなくたって、みんな解決してくれる。だから、ぼくは出なくてもいい……)


 しかし、時間が経つにつれて、ますますテントから出らなくなってしまった。


「天人族の皆さんごきげんよう! せっかくの晴れ舞台にこの俺ゼフィリノス・グラフェインの無礼を許してほしい!」


 ――そんな、聞き覚えのある声を耳にした。

 多分、聞き間違えだと思う。気のせいだ。似てるだけだ。違う。絶対。

 

 テントの中で1人耳を塞いでいると、次第に音は止んだ。

 でも、ぼくはまだ動かない。

 外の様子はさっきよりも気になったけど、中で待ってろってイルノートの言い付けをぼくはちゃんと聞いた。きっとイルノートたちが何とかしてくれる。

 きっと、だいじょうぶだって――けど、聞かなけきゃよかった。


 さらに時間は経った。

 ようやくテントの幕がさっと開いた。





「……イルノート!」


 率先して彼の名前を呼んだのは幕を開けるのはイルノートだって信じてたからだ。きっとみんなが解決してくれたんだ――って。


「……あ、ああ……ああっ! やっと、やっと……やっと会えたね。ルイ」


 けれど、違った。そして、さっきの声が聞き間違えでなかったことも知った。

 姿を見せたのは以前ぼくが奴隷だった時のご主人さま、ゼフィリノス・グラフェインだった。


「……え……え?」


 ゼフィリノスだということは直ぐにわかった。さっきの声を聞いていたからじゃない。

 以前より声は低く、背も伸びている。

 当時の面影は茶色の髪と緑色の瞳くらいしか残っていない。前はふっくらとしていた頬はこけ、髭の剃り残しや肌荒れも目立つ。もしも道ですれ違ったくらいなら気が付かなかったと思う。


 それだけ変わっていても彼がゼフィリノスだとわかったのは1番最初にと目を合わせたからだ。

 見違えるほど成長しているというのに、だけが――ぼくを見るだけが以前と同じだった。

 べったりと塗り付けるような気持ちの悪い目。執着と欲にまみれたその目で見られたらイヤでも思いだした。


「……やっと……会えた」


 ゼフィリノスはそう言うと、無断でテントの中に入ってきてぼくに近寄ってくる。

 思わず立ち上がっては、椅子が倒れてころころと地面を転がった。後退りそうになる――引いた足を戻して睨み付ける。


(どうしてぼくがこいつに怯えなきゃいけないんだ)


 ぼくは、こいつが嫌いだった。

 前からずっと嫌いだったけど、それ以上に嫌いになったのはぼくが奴隷をやめた時だ。

 殺したいほど憎んだ。

 理由は、思いだせない。


「……ルイ……ルイ、だよね……っ……ああ、こんな綺麗になって……この日をどれだけ待ち望んだか……ああっ、ああっ! 俺の、俺だけのルイ!」

「……っ」


 ゼフィリノスが両手を広げてぼくに抱きつこうとしてきた。だから、せっかく戻した足を結局下げて彼の手から逃れる。触られたくない。いやだ。


「……なんでここにいるの?」

「君に会いに来たんだよ。……シズクのやつがここにいるって言うからさ」

「……シズク?」


 また、シズクだ。


「ああ、そうさ。俺から君を奪った癖して、君を見捨てた男さ。その癖して、あいつはのうのうとここに戻ってきているらしいね……許せないと思わないか? ルイだって何か思うところがあるんじゃないか?」

「知らない。ぼくはシズクなんてわかんない」

「……っ……“ぼく”!!」

「……えっ!」


 ゼフィリノスは自分の肩を抱きしめて身震いを起こす。

 寒さに震えているんじゃないかってくらい、尋常じゃない震えだった。


「ああっ、それだよ! “ぼく”だ、“ぼく”! その声が、それが聞きたかったんだ! あの似てるだけの巨乳女ともそこらで買った代用品とも違う本物のルイだ! ねえ、もう1度聞かせてくれよ!」

「な……なに……やだ……いやっ、触らないで!」


 ゼフィリノスはぼくに飛び掛かるように抱きついてくる。今度は隅っこに追いやられていたため、ぼくは躱せなかった。尋常じゃない彼の様子に怯んでしまって、気を取られていたこともあった。

 がっちりと背中に腕を回してきつく抱き締めてくる。


「ルイっ、ルイ、ルイぃぃぃっ!」

「い、やだ……って、はな、れろっ!」


 耳元でぼくの名前を呼ぶゼフィリノスの声に、今度はぼくは身震いを起こす。

 我慢できなくて、ぼくは抱きしめてくるゼフィリノスのお腹に手の平を押し付けた。

 そして、向けた手の平に一気に魔力を集めて――。


「吹き飛べっ!」

「……吹き飛べなんて物騒な!」

「……っ……あれっ、なんで!」


 どうして? なんで?

 手に魔力を集めて風で吹き飛ばそうとしたのに、魔法が出ない。

 魔力を使った感じはある。でも出ない。なんだろう。わかんない……わかんないきもちわるい!


「さあ、ルイこっちにおいで。いや、来るんだ!」

「あっ……いやっ、やだ、やめて引っ張らないで! いや、いやだって!」


 抱擁を解いたと思ったら、ゼフィリノスはぼくの腕を掴んでテントの外へと引っ張り出す。

 テントの外に出されたと思ったら、近くにいる知らない大人たちへと指示を出してぼくを左右から取り押さえる。不自由な身体で辺りを見渡しても、イルノートはどこにもいなかった。

 大人2人の力で背中を押され、跪くように頭を無理やり下げられた。

 いつもだったら強化魔法でひょいって抜け出せるのに、それもまたぼくは発動できない……けど!


「……この!」

「うぉっ! 大人しくしろ!」

「なんて力だ! これが魔族ってやつかよ!」

「なんで、なんでだよ! どうしてっ!」


 思いっきり魔力を込めると、ちょっとだけ強化魔法を発動することが出来た。けど、大人たちがもっと力を入れると全くと動けなくなる。

 ゼフィリノスの靴が見える。いやいやって首を振っても男たちの手はぼくを放してくれない。


「もう逃がさないよ。ルイ……君はまた俺の奴隷に戻るんだ」

「……ど、奴隷!?」


 違う。

 ぼくはもう奴隷じゃない。

 ぼくは奴隷なんかじゃない!


「いやだ! ぼくは奴隷じゃない! ぼくはもう自由だ!」

「大丈夫。恐がらないで。痛いことなんてしないよ。これからルイは俺だけが可愛がってあげるからね」

「ひっ、いやっ!」


 ゼフィリノスの手がぼくの髪を撫でる。続いて首へと手が移り、何か革製の物を巻き付けられた。

 最後に喉元の金具が止められると、ぞくり、と身体中が冷えていく。


「似合ってるよ。奴隷って言うよりもまるで子猫ちゃんじゃないか。いいね、俺のペットだ」

「なにをしたの!」

「何って、首輪を付けてあげたのさ。ご主人様の所有物だって言う証じゃないか」

「首輪っ……いやっ! 外してっ、外してよ!」


 首輪をつけられた後はさっきよりももっと気持ち悪い。

 首輪はぞくぞくとぼくの中の何かを吸いだしていく様な感じがする。


「……魔法が使えないと言っても念には念を入れてね。窮屈かもしれないけど我慢してくれよ。その首輪はグランフォーユに着くまでは外さないから。……うん、王都に戻って契約を終えたら、もっとかわいい首輪を作ってあげよう」

「ふざけないで! ぼくはどこにも行かない! ぼくはユッグジールの里にいるんだ! ……いや、ちょっと、引っ張らないで!」


 首輪をつけられたと思ったら、今度は手首を縛られる。

 手首から伸ばされた紐を引っ張ってゼフィリノスはぼくを広場へと、みんなの前へと連れ出される。


「フル!」

「フルオリフィア!」

「……ドナくん! フラミネスちゃん!」


 ドナくんとフラミネスちゃんがぼくを呼ぶ。舞台の上だ。

 2人の他に、4人の長たちが、ぼくらが式を挙げるはずだったその上で、剣を持ったガラの悪い男たちに囲まれて身体を紐で縛られている。


「……おじさん!」

「おじ、さんは……やめろ」


 鬼人族の長なんて鉄の鎖でぐるぐるに縛られていた。

 顔や破れた服から覗く素肌には無数の青あざがあって、ぐったりとしている。目を閉じてるけどぼくの声に反応はしてくれた。


「そんなどうして……みんな!」

「フルオリフィア様!」


 舞台下の観客席となる原っぱに他の人たちも拘束されて集められていた。

 みんなも剣を持った男たちに囲まれている。ドナくんの両親やシンシアちゃんもそこにいた。

 神域の間を警護していた殆どの衛兵たちもシンシアちゃんたちと同じところにいて、みんなどこかしらに怪我を負ったままで縛り上げられている。

 中でも1番酷いのはドナくんの元護衛だったインパって人だ。

 右手は元々怪我で失ってるけど、今は肩から脇にかけて真っ赤な血を流している。斬られたのだろうか。傷痕はとても、深い。

 見習いである護衛くんも捕まってる人たちの中にいた。みんなの視線がぼくが視線に向かう中、ひとり逸らしていたことで気が付いた。ものすごい怯え様だった。


「なんで、こんな……え、どうして!? イルノート!?」

「……ふん」


 唯一、自由な姿をしているのはイルノートだけだ。この里についてからずっと付けてたお面も外して、彼は舞台に背を預けて両腕を組んで目を瞑っている。

 1度ぼくを見ても直ぐに眉間に皺を寄せるだけで何もしなかった。


「イルノート! どうして! みんなを助けてよ!」

「これは里の問題だろう? お前らがどうなろうと余所者の私には関係のない話だ」

「そうだよ。ルイ。彼は俺の仲間だ」


 楽しそうにゼフィリノスが横から口を挟む。


「……勘違いするな。里のいざこざに巻き込まれるのは勘弁ならんという話だ。お前にも従わないしこいつらを助ける義理もない。私はただ傍観させてもらう」


 ふん、と鼻を鳴らしてゼフィリノスはぼくを引っ張って舞台に上がっていった。引かれてぼくも同じく上へ。

 舞台には前には無かった見慣れない立派な椅子が置かれている。椅子の近くには声が大きくなる魔道具が添えられるように設置されていた。

 ゼフィリノスは当然とばかりその椅子に座った。続けてぼくも紐で引っ張られ、抱き抱えられるようにこいつの膝の上に倒れた。


「……っ……わっ、い、やあっ!」


 ゼフィリノスの胸に飛び込むような形になったぼくを、こいつはテントの中みたいにまた抱きついてくる。首筋に顔を埋めて、鼻をこすりつけるみたいに首周りを触れてくる。


「……ルイの香りだ」

「ひっ……いや、やだ! やめてよ! におい嗅がないでよ!」

「大丈夫。くさくないよ。ルイは昔からいい香りがするね」

「いやっ、いやぁぁぁっ!」


 いやだ。こんなのいやだ。

 なんでだよ。なんで、こんな、今日は良い日になるって。

 なのにどうして!


「おい、それ以上にフルに変なことするな!」


 いやいやって身体を震わせているとドナくんが大声を上げた。

 ぴくってゼフィリノスは身体を震わせて、眉を吊り上げる。


「そうよ! さわるな! それ以上にフルオリフィアにさわるな! あんたたちなんて直ぐにヘナや皆が来て捕まえちゃうんだから!」


 フラミネスちゃんが後に続いた。2人ともぐるぐるに身体を巻かれて寝転がっているのに顔だけはぼくらへと向いて睨み付けている。


「ドナくん! フラミネスちゃん!」

「……誰だこいつ?」


 不機嫌そうにゼフィリノスが呟くように尋ねてきた。


「2人はぼくの大事な友達だよ!」


 そして、と自信満々にぼくは言い放つ。


「ドナくんはぼくのお婿さんだよ!」

「む……こ?」


 ……自信満々に言った後で、言ったことを後悔した。

 ゼフィリノスはぷるぷると身体を震わせ始めた。先ほどと違うのは怒りによる震えだった。

 ゼフィリノスはぼくをどんっと押しのけると、すぐさま縛られているドナくんたちへと足を向けた。


「話には聞いてたよ。今日は天人族のお偉いさんの披露宴なんだってさ」

「糞がっ! 俺に触れるなこの地猿――……ぐぁっ!」


 ゼフィリノスはドナくんを思いっきり蹴った。

 くの字に腰を折ってドナくんは苦しそうにうめく。それだけじゃ終わらない。


「でも、まさかルイの祝儀だとは思ってなかった……なぁ!」


 ゼフィリノスはドナくんに乗って殴り始める。

 鈍い音がドナくんの悲鳴と同時に何度も何度も聞こえてくる。


「がっ、ぐっ! がっ、ぎっ!」

「俺のっ、俺のルイにっ、お前みたいなっ、糞ガキがっ、嫁に迎えるっ、だと!」

「や、やめて! なんでドナくんを殴るんだよ!」


 拘束されうまく動けないぼくだけど、ゼフィリノスへ体当たりをした。そして、覆い被さるようにドナくんを庇う。

 ぎりっと睨みつけた先であったゼフィリノスの視線は虚ろで、先ほどとはまた違った恐怖を覚える。


「ははっ……ごめん。つい熱くなっちゃった。ルイに怖いところを見せちゃったね。……でも、お前は許せないよ。ルイの婿になってる時点でさ……おい」


 おい、とゼフィリノスに呼ばれて「はーい」なんて軽い口ぶりで誰かが舞台に上がってきた。

 誰だ……じゃない、こいつもぼくは知っている。


「……ユクリア?」

「ああ、久しぶりっす! ルイちゃん元気してたっすか!」


 グラフェイン家にお世話になっていた時にゼフィリノスの剣術の先生だったユクリア・ヘンドがいた。





「なん……で、君がここに?」

「なんでって……俺はグラフェイン飛空騎士団の副団長だからっすよ。今じゃユクリアって名前も捨てたんで、その名前では呼ばないでほしいっす!」

「……捨てた? え、どうして、え? だから、あれ、なんでユクリアが?」

「あー、待って待って。まず名前については偽名っす! あ、けどヘンド家の人間ってのは本当ね。とりあえず、ユクリアって名前は呼ばないでほしいってお願いっす! 実はユクリアって名前、嫌いだったんっすよねー……あー……で、次ね。ゼフィリノス……いえ、グラフェイン団長にはなんやかんやあってその後、。今ではこういうこともしてるっす!」


 ユクリアは腰に挿していた剣を抜いてその場で2回、素振りを見せた。

 どういうこと? また剣術の先生をしてるってこと?

 わからない。ユクリアは前と変わらずへらへらしてるだけだ。


「おい、お前こいつを斬れ」


 ゼフィリノスは顎でドナくんを示した。


(え……斬れ?)


 ぼくがわかる前に勝手に話が進んじゃう。

 ユクリアはグラフェイン飛空騎士団ってところで先生をしてるって……こいつを斬れって、え?


「いいんすか? 大事な人質じゃないっすかー」

「1人死んだところで代わりは沢山いる」

「ま、団長がそういうなら……」


 ユクリアは頭を掻きながら手に持った剣を仕舞うこと無く、ドナくんへと近寄っていく――やっと、わかった。

 のろのろとやる気のないように見せながらも、ユクリアの顔には何の躊躇も戸惑いもない。

 笑っているけど一瞬視線の合った彼の瞳の奥には……だめだ!


「だ、だめ! いや、いやだよ! やめてよユクリア!」

「だーから、その名前は捨てたって言ったじゃないっすかー!」


 わかる。ユクリアはまるで野菜やお肉を切るみたいに簡単にドナくんを殺す!

 わかるんだ。ユクリアの瞳の奥に見える暗い感情は以前のぼくそのものだ!

 わかったんだ。アニスたちと交流を始める前の憂さ晴らしで魔物を殺してきたぼくと同じなんだ!


「ゼフィリノスやめて! 彼を止めて!」

「……えーどうしようっかなぁ?」


 ゼフィリノスがにやりと笑う。

 楽しんでもったいぶるような言い方だ……ずるい。人の弱みを掴んだみたいに意地の悪い顔をする。


「お願いだよ! ぼくもう何もしない! 逆らわない! 大人しくする! だから、だから!」


 こんなこと口が裂けても言いたくなかった。

 でも、ドナくんを殺されないようにするにはこうするしかない!

 けど、けどさ、やだよ。なんでぼくが。どうしてぼくが!


 ……今日は良い日になるって思った。

 良い日になるって思ったんだ。

 でも、良い日になるなんて……そんなのなかった!


 縛られた両手でゼフィリノスの足元にすがって、ドナくんを殺すのはやめてって懇願する。

 くやしくて涙だって出そうになったけどそこは頑張って耐えた。

 涙を見せなかったのはせめてもの意地だった。

 おかげか知らないけど、ゼフィリノスはにっこりと笑ったんだ。


「ルイがそういうなら仕方ないなあ。お前、感謝しろよ」

「……ちぇ、なしっすかー」


 ユクリアはゆっくりと剣を鞘に納めると、また同じ足取りで舞台から降りていく。

 よかった……全然うれしくないのによかったと思う。よかったんだ。

 それからぼくは紐で引っ張られても逆らわずに従い、大人しくゼフィリノスの膝の上に座る。


「抵抗するルイも可愛かったけど、やっぱり俺は大人しく言うことを聞くルイの方が好きだなあ」

「……」


 ぼくの髪に指を絡めて満足そうにゼフィリノスが言った。膝に座ったぼくは大人しくされるがままだ。


 辛い時間の始まりだった。





『……えー、里に住む者たちに告げる。この里にシズクと言う名の黒髪の魔人族がいるはずだ。そいつを引き渡せ。応じなければお前たちの長たちの安全は保障できない』


 そう、ゼフィリノスはぼくの身体を高らかに魔道具に向かってしゃべりだした。

 今も襟から胸元へと乱暴に差し込まれた手はぼくの胸を掴み、何度もぐにぐにって握ってくる。


(逃げるなんてだめだ……だいじょうぶ。だいじょうぶ。これでいいんだ)


 自分のことよりもみんなの方が危ない。気持ち悪くてもぼくが我慢すればみんなは酷いことをされないんだ。

 

「……後はシズクだけだな。魔法が使えないあいつなんてただのガキだ。捕まるのも時間の問題だろう。待ち遠しいなあ」

「……」


 さっきから何度もゼフィリノスはぼくの身体で遊んでいる間にシズクって人を呼んでいる。

 シズクって言葉を聞くたびにぼくの右目が反応する。

 時折、口がぼくの言うことを聞かずに開こうとしてぎゅっと閉じる。


「……そうだ。ルイ。俺らの挙式を上げようじゃないか。シズクの悔しがる顔を見ながら永遠の愛を誓おうよ」

「……」

「……なあ、聞こえてんだろ! シズク! ほら、どうした! さっさと来いよ! じゃないと俺らの式が始まらないだろ!」


 椅子に座っている間、ずっとゼフィリノスの声は里中に響いてる。

 その間に、ぼくの身体を遊んで喜ぶゼフィリノスの声も勿論届いている。里中にぼくが遊ばれていることを知られてるんだ。


「早くシズク来ないかな……はは、シズクも奴隷としてまた契約してやるよ。今度はヘマはしない。ずっと飼い殺してやる!」


 だから、誰だって……シズクなんてぼくは知らないのに、胸の中でどくんって跳ねる。

 右目がぴくぴくする。口が開く。身体が反応する。

 けど、自分の身体のことなんてどうだっていい!!


(……また、ぼくは奴隷になるのかな)


 長い時間をかけて奴隷から、ゼフィリノスから解放されたっていうのに、またぼくは戻るのかな……――ふと、思いだす。


(……なんで、ぼくは奴隷をやめたんだっけ?)


 別段ゼフィリノスに嫌なことをされた覚えはない。あの視線に眼を瞑れば、彼はしつこいくらいぼくを連れ回すくらいだった。

 でも、それ以外なら屋敷のみんなは良い人ばっかりだった。

 オーキッシュ様にホルカ様。執事のテトスさん、メイド長のカリアさん。厨房のみんなに、メイドのみんな。シーナさんにゴドウィンさん。町の人たちだってとても親切な人ばかり。


(なんで? 何を忘れてるの? ぼくは、どうして奴隷をやめてまであの屋敷を出ようと思ったんだろう)


 思い出せない。でも、後悔はしていない。むしろ良かったとすら思っている。

 だって、奴隷をやめたことでぼくは知ったんだ。

 メイドとして働いていたグラフェイン家の中だけじゃなくて、お金を稼ぐために毎晩と走り回ったサグラントの周りだけじゃなく、もっと遠くのことをぼくは知ったんだ。

 両目を瞑ればすぐにその情景は浮かぶ。


 鮮やかな緑に包まれた山々を。一面土肌の荒ぶる荒野を。青く果ての無い海原を。しんしんと真っ白に降り積もる雪原を。

 色々な場所、色々な人、色々な魔物。色々な世界――嫌なことも良いこともひっくるめてぼくは知った。

 メイドとして、奴隷として生きていたらきっと知らないことだった。


 ――そして、思い出せば思い出すほど、瞼の奥には……1人の少年が笑っている。

 この子は右目から見えた映像だ。


(また、旅に出たい。イルノートと……ううん。と一緒に色々な場所に行きたい)


 でも、その願いはもう叶わない。

 この首輪がいい証拠だ。きっとぼくはもう満足に外に出ることも出来なくなる。それ以上に酷いこともされる。

 ぼくがぼくじゃなくなってしまう。

 これで終わりなのかな――って思ったら今度は本当に泣きそうになった。


「……ルイ反応してくれないとつまらないじゃないか」

「……痛っ!」


 不機嫌そうに言ってぼくの胸を強く握る。痛い。はずかしい。つらい。


「何か話してよ? ね、ルイの綺麗な声が聞きたいんだ……じゃないと、ほら……ね」


 ゼフィリノスはユクリアに親指を向ける。

 彼は仲間たちと何かを話している最中だから気が付かなかったみたいだけど、そんなの1声かければ直ぐだ。今のユクリアならゼフィリノスの命令なんか直ぐに喜んでしちゃう――そんなのはだめだ!


「……う、うん。わかった。話すからお願い。それだけはやめて」

「いい子だ。さあ、シズクが来るまで楽しくおしゃべりをしようよ」


 こんな状況で楽しくおしゃべりなんて出来るわけないじゃないか。けど、ゼフィリノスは話せという――だから。


「……アイタイノニ」


 ぼくは言葉の代わりに音を出す。

 もう何も考えたくない。何も見たくない。何も感じたくない。

 何も思いたくない――そんな心を消す時は歌うのが1番だった。


「……モウアエナイネ」


 誰かを想った歌だって、昔誰かに教えてもらった。

 誰だったかは、薄らと思いだせる。青髪の少女だったと思う。けど、思いだせるのはそこまでだ。

 歌いだしたら、思い出そうとしたこともどうでもよくなった。

 今、ぼくは誰を想って歌ってるんだろう。


「ふふっ、ルイいったいそれは何だい? もしかして歌か……っ……え……な、どうして……ルイ……お前、そんな……いや、聞き間違え……違う! 俺はその曲を知っている!」


 ゼフィリノスは何かに驚いている。けど、ぼくは続ける。

 もう何も聞こえない。


「アナタダケイレバヨカッタノ……」

「何でお前がその曲を知ってるんだ! ま、まさか、お前も……!」


 心が沈んでいく。

 久しぶりだ。心が真っ白に覆われていく。

 ゆっくりゆっくりと音を口にしていくたびに、ぼくは深い底に落ちていく。


「コノカラダヲウシナッテモ」

「お前も、異世界から生まれ変わったのか!?」

「アナタヲワスレナイ」


 悲しいことも。辛いことも。気持ち悪いことも。何もかも。

 全部ぼくといっしょに落ちていこう。そして、このまま、全てが歌みたいに流れて行けばいいのにな。


「アイシテル、アイシテル……」


 もう、誰の声は聞こえない。身体は何も感じない。ぼくは自身ぼくを手放した。


 口は、音を出すだけ。

 鼻は、匂わず息をしてるくらい。

 身体は、ただそこにあるだけ。


 光は、ぼくには降り注いでくれなかった。

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