第161話 手紙

 とてとて……四足を鳴らしての子猫がタルナと呼ばれるアルガラグアの長の書斎の前へと辿り着いた。

 真っ白な体毛に覆われた子猫は、彼女を知る者たちからリコと呼ばれている。


「……」


 彼女は耳を動かして背後から追いかけてくる2人の足音を確認した。おまけに首も後ろに回してまだ彼らが曲がり角から来ていないことも確認し、書斎へと続く閉ざされた扉に近寄った。

 リコが近寄ると、扉はひとりでに小さく彼女が通れるほどの隙間を開けてくれる。子猫は不思議がることなくその隙間を通り、扉は彼女が通ったことを確認してから小さく音を立てて閉まった。


「……」


 リコは部屋の中をすたすたと歩いた。壁に沿っておかれた色とりどりの背表紙を見せる本棚も、萎れた花の刺さったとぐろを巻いた独特な花瓶も、以前タルナの息子が母の為に作ったと言う奇抜な木彫りのお面にも目もくれず、リコは部屋の中心に置かれた机を目指した。

 音もなく軽やかに部屋主の使う椅子に飛び乗り、机の上へと移る。机の上には先の黒い羽ペンや、黒い塗料の入った瓶や、何の汚れもない真っ白な紙に、丸められた書き損じ……等、この部屋には彼女の好奇心をくすぐるものがいくつも置かれているのに、今のリコはそれらには目もくれず、ある一点だけを見つめた。

 それは、机の上に置かれた艶のある黒い木箱だ。


 ――それだね。やっちゃって。


 その“音”はリコにだけ届いたものだった。

 聞こえる音の命じるまま、子猫は前足を使って躊躇なく、木箱を机から落とした――。







「はあ……もう、リコったら……」


 何か大きな音が聞こえたと思ったら、見知らぬ場所にいた。

 リコは困惑するばかりだ。腑に落ちない。

 もう1つおまけに腑に落ちないのは、自分を見降ろす彼に睨まれているこの状況だ。彼は綺麗な顔を歪め、むっと眉を吊り上げていた。

 彼はリコの飼い主であり(リコは彼を守るべき我が子のように考えているが)旅仲間のシズクだ。

 その背後には部屋の中を覗くように入口で顔を出す金髪の鬼人族の少年がいる。

 名前はベレクトと言ったか。悪戯っ子で勝気な彼はしまったとばかりに顔をしかめてゆっくりと部屋の中に入ってきた。


 不機嫌そうにシズクはリコへと近寄ってきた。理由はわからないがリコは彼を怒らせてしまったようだ。リコの手前でシズクはしゃがみ始め、何やら地面に落ちているものを拾いだす。

 文字の書かれた紙だとリコは判断した。拾っている彼をぽつんと眺めていると、きっ、と大きくも鋭い眼に睨み付けられ、少しばかり尻ごんでしまう。

 睨まれたリコは悲しくて悲しくて、とんと机から降りると、どうして怒っているのかと小さく鳴き、首を傾げてシズクを見上げた。こすこすと彼の足に頬をこすりつける。


「うわ、それオフクロが大切にしている宝箱だぞ! 傷ついていないといいけど……こんなのばれたら後で拳骨の2発に3発と……」

「それは嫌だなぁ……」


 ベレクトの発言にシズクは身震いを起こす。

 リコは彼の背に器用によじ登り、肩まで昇ってはシズクの頬を舐める。「みゅ~?」と鳴いてどうして自分がここにいるのか、と尋ねてみた。


「へ、リコが勝手にここに来たんだよ……もー散らかして……」

「みゅみゅみゅー!」


 勝手に来た? 気が付いたらリコはここにいたのだ。身に覚えが無いと言うのに、リコが散らかした、と言われるのは心外だ。

 確かにリコは自分では散らかすつもりはなくとも、気が付けばことは多々あった。面白いものを見つけたり、興味をそそられるものとじゃれてしまうからだ。

 そういう時はごめんと素直に謝れるけど、今回ばかりはリコのせいじゃない。さっきは悲しかったけど、これには不満の声も上げてしまうというものだ。


「怒らないでよ。怒るのは僕の方……ん?」


 肩にぶら下がったまま、シズクはという紙を拾い上げて、固まった。

 文字の書かれた紙――手紙は5枚に及ぶものだった。手紙が内包されていたであろう封筒も一緒に拾い上げていた。

 シズクは僅かに固まった後、直ぐに動きだし、ぎくしゃくしながらも床に落ちていた黒い箱へと紙束を納めようとして……また止まる。

 シズクの目が右から左と小さく動いたのをリコは見逃さなかった。何を見ているのかと言うと1番上になった封筒に書かれた一列の文字だった。

 封筒には“ブランザ・フルオリフィアより”と書かれているのがリコにも読めた。シズクはその封筒を裏返す。そこには“親愛なるタルナへ”と書かれている。


「……これ、レティたちのお母さんが書いた手紙だ」

「レティって、あのおっぱいおねえちゃんの母親か。きっと母親の方もいいおっぱいしているんだろうな!」

「もう、おっぱいおっぱいって……レティの前で言ったら張り倒されるよ」

「それはいやだな! シズクみたいに馬乗りになって殴られるのはおれもいやだ! ……ってシズク?」


 それにはリコも同意。メレティミは怒りだしたら暴力的になる。まったく、あの子の手の速さには困ったものだ。

 だが、シズクはベレクトの言葉にも答えず、首を下げて仕舞おうとしていた紙束へと目を向けて……読み始めていた。

 1枚目が読み終ったのか、ぺらりと手紙を裏に送り改めて目線を動かす。


「おい、シズク?」

「みゅうー!」


 聞こえてるの? とリコは聞いても無視してシズクは手紙を読み続けた。

 もうベレクトの声も、ロコの声もシズクには届かない様だ。

 肩にぶら下がったまま、彼の真剣な表情をずっと見守る。途中から若干眉が下がるのがわかった。

 リコもある程度の文字なら読めるが、長い文章は読めないので手紙には何が書いてあるかはわからない。結局シズクは2枚、3枚、4枚と手紙を読み続けていた。

 そして、最後の5枚目へと移ったその時、リコはあれ? と思う。


「なんだこれ? 落書きか? それとも呪文? おれにはさっぱりわからない!」

「みゅ、みゅう!」


 え、おかしい。

 ど、どうして! と5枚目の手紙を見てリコは声を上げた。

 5枚目の手紙に書かれている内容がわかるのはリコかシズクくらいだろう。ベレクトがわかるはずはない。

 1度はリコも覚えようと思って練習したものだ。“文字”はどれも大きさは整わず、時には逆さだったり、まるでリコが書いたような下手なもので書かれている。

 殆ど読むことは出来なかったけど、ところどころで読むことは出来た。

 すきだ。すきだ。すきだ――感情の文字だ。

 わたしはかれがだいすきです――誰かを想う手紙だった。


「そんな、彼女は……」


 震える声でシズクが呟く。


「僕らと同じだった……?」


 そう、書かれていたのは以前リコが行ったこことは別の世界の、シズクとメレティミがいた国の言葉――アサガたちに言わせればニホン語で書かれているものだった。

 先の通り、単語単語で読み取れても、リコにはその手紙の内容は殆ど読み取れない。しかし、内容を理解できずとも、この世界にこの文字があることは本来ありえないことはわかっているつもりだ。


「おい、シズク勝手に持ち出したら怒られるから! ……おれが!」

「みゅうー!」


 ちょっと待って! だけは言えたがリコもいく! までは伝えられない。

 シズクは紙束を掴んだまま走り出した。リコもベレクトも彼の後を追う。

 行き先は、この手紙を書いた本人の娘、メレティミがいる部屋だということはリコにもわかった。





 ― 親愛なるタルナへ 第5頁 ―


 わたしがいたせかいのことばをかく。


 さいしょはわたしこえききました。  わたしはこのせかいとちがうせかいにいました。

 もじがきたない。  ゆるしてください。  てはうごきません。 もじおもいだせない。


 150ねんいきました。  ながいじかんながかった。  かなしかったことおおかった。  たのしみはすくないです。  ちいさいたのしいだいじ。


 わたしふぉろかみというおとこのこあいました。


 ろか。

 わたしかれがすきです。  さいしょはわたしもしらない。


 いなくなります。  またあえた。  かなしくなりました。


 なまえをいるのーとかわる。  ろかはろか。


 かれとあってしりました。  わたしはかれがすき。


 ろかのこどもできた。  ろかをおもいつづけた。  かなしい。

 うれしい。


 あいたい。 ろかはなしたい。 さわりたい。


 すき。

 ろかがすき。


 ろかさいごあいたかった。


 ろか。  あなたのこども。  めいわくおもうこわい。


 わたしはのこしたいです。  ろかのこどもだ。


 ろかはしりません。


 うまれるこどもねがいます。  じゆういきて。   なにもこわくない。


 まだうまれないこども。 


 へいわなせかいでわたしとはちがってわらってください。


 いきて。  わたしとろかにはできなかったしあわせわらってください。


 ろか。  あいしてる。




 わたしはかれがだいすきです。

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