第141話 抗魔病

 もともとタルナさんとブランザは同じ集落に生まれ育ったそうだ。

 そして、彼女はブランザを実の妹のように可愛がっていたと言っていた……って、この人お母様よりも年上なのか。

 これだから魔族ってやつは、と見た目からでは判断できないことばかりだ。


「晴れた日は畑の手伝いをして、大人たちに混じって狩に出向いたり。雨の日は両親から勉強をしろって言われたけどあたしは苦手だった。でも、ランは勉強が楽しいって言うから渋々と付き合ったりね」


 集落での日々はとても幸せだったとタルナさんは物思いに耽けながらも語ってくれた。しかし、2人が共にいられたのは20年にも満たないものだったとか。

 当時、ゲイルホリーペは魔族同士でいがみ合う戦争の真っ只中であり、ある悲惨な出来事からタルナさんは大陸の外へ、お母様は大陸の中へと別れてしまったそうだ。


「彼女と別れて、もう150年以上も前の話なのよね……」

「ひゃくごじゅう……っ!?」

「え? あ、そうね。驚くわよね。でも、150年なんてあっという間よ? あたしがそう感じたんだから、あなただってそうよ」


 話を交わしていくにつれて、タルナさんの口調は砕けていったけど、見た目と反してこちらの方が聞き心地のいい声を上げていた。

 同時に、ブランザはこうだったとかああだったと言うタルナさんから聞かされる話は今までの母のイメージから遠く離れていたものでとても楽しかった。


「ランったらあたしよりも2つ年下の癖して、妙に大人びたっていうか、落ち着いているところがあったわ。だからか、あたしもランには負けたくなくて、ついお姉さん風吹かせてみたりね。でもどうしてかな。よくあたしに遠慮して自分から貧乏くじを引く様な子だったなあ……」


 わたしの記憶の中のお母様は、風が拭けばすぐにでも倒れてしまいそうなほど病弱で儚げな女性という印象が強い。一方、タルナさんの語るブランザは活発で元気な女の子という感じだ。

 でも、タルナさんの話に出てくるお母様に違和感を覚えるの一瞬のことで、本来のお母様の姿は彼女の昔話に出てくる方なんだとは素直に受け入れることが出来た。


 懐かしい思い出はいつだって光り輝いてわたしの胸の奥に仕舞われている。

 タルナさんから知らされた若き頃の母はわたしの胸の中で新たに生まれたように感じた。


「話しているうちに着いたわね。ここがアルガラグア。あなたのお母様が作ったユッグジールの里よりは規模はうーんと小さいものの、異種族が共存して暮らす町よ」


 そう辿り着いたアルガラグアは高く頑丈な魔物除けの防壁で囲われていた。

 ユッグジールの里を囲っていた壁と作りも似ていて、王都グランフォーユの中心にある城壁よりも綺麗で粗もない立派なものだった。

 誰か見張りでも見ていたのか、わたしたちが近づくと大きな二枚扉の正門が内側から開かれる。扉の先からは潮風の香りが鼻に届いた。

 海が近いのだろうか。わたしたちがいる場所からは香りだけで、青々とした海原も心落ち着くさざ波の音も何も見えない、聞こえない。


「ユッグジールの里は見たことがないけど、話だけはよく耳にしていたわ。あの場所と比べてしまえば田舎みたいなもんでしょう?」

「いえ、そんな! ……すごいです。こんな場所があったなんて」


 そう言ってわたしはこのに目を奪われていた。


 アルガラグアは王都グランフォーユのようにみっちりと家々が隙間無く建っていると言う訳ではなく、程よい距離感を持って家屋が立ち並んでいる。

 一軒一軒の家の作りも丁寧で、がっしりと大地に根を張っているかのように強固で整ったものばかりだ。

 それもそのはず。この町にある建物は全てドワーフたちによって建築されているのだとタルナさんは教えてくれた。

 天人族と魔人族によって建築材料を精製し、組み立てには鬼人族と亜人族の力を借りているが、その中でも加工や工程の総指揮はここに住まうドワーフたちに任されていると言うのだ。

 ドワーフの物づくりに対する姿勢は言われなくても身近で鉄を触って実戦を積ませてもらったわたし自身が知っている。


「よそ見をしてはぐれないようにね。って、こんな小さな場所ではぐれるも何もないか」


 ついついわたしもシズクも物珍しく周りを見渡しているとタルナさんにくすりと笑われてしまう。

 この町の人の往来は結構多い。

 こげ茶のレンガが敷き詰められ、幅のある綺麗に整備された大通りは馬車の移動を見通した造りなのか、人が多くとも緑髪のタルナさんを見失うことは無いとは思う。


「2人してきょろきょろと。そんな珍しいものでもないでしょう?」

「……珍しいですよ」


 道は前も後ろも人ばかりだ。人。人。全部ひっくるめた人がいる。

 天人族も、鬼人族も、魔人族……かはわからないけど、普通の人も。亜人族だってたくさんいる。

 。他種族が入れ混じっているという、わたしがいた里では当然でありえない光景だった。

 いがみ合うこともなく、嫌な雰囲気も無く、この場にいるというだけの簡単なことをこの町は当たり前だと言わんばかりにこなしていた。


「すごい。この町の人は皆、仲がいいんですね。嫌な空気がない……」


 道を歩くわたしたちには多くの視線が向けられた。

 この町の長だというタルナさん。

 後ろからむくれながら着いてくるベレクト。

 お姫様だっこされているわたし。

 お姫様だっこをしているシズク。

 シズクの服のすそを掴んで着いてくるリコちゃん。

 こんなにも多種多様な、ましてや余所者であるわたしたちに対して周りの人たちは嫌な顔1つしない。むしろ好意的な視線だと感じてしまう。


「やっぱり、あなたはランの娘なのね」

「え?」

「ううん。この町にいるとつい忘れがちだけど、ゲイルホリーペにいた頃のあたしが見ても信じられない光景だわ。……話には聞いている。争っていた魔族を1つにしてもお互いに牽制し合ったままだってね」

「……はい。同じ場所に住んでいても仲が良いとはあまり言えません」

「アルガラグアの住民はゲイルホリーペよりもコルテオス側の人が多いわ。彼らは比較的仲が良かった。元々あたしも100年以上前にコルテオスから移民してきた口だけど、20年くらい前に……まあ、ここ最近でこの町の人口はもっと多くなったかな」


 ゲイルホリーペから外へ向ったタルナさんは一時期コルテオス大陸のある魔族たちが一緒に住む国に身を寄せていたと言っていた。


「どうしてコルテオスからアルガラグアに来たんですか?」

「……寒すぎたのよ」

「寒い?」

「あっち、万年雪国なのよね。日が出るのも年に100日も無いし、夏季でもたまーに降るし、冬期なんて毎日が雪と雪と雪よ。あの寒さは身に染みてね……我儘は言えなかったから我慢していたんだけど、アルガラグアがあることを知ってからは身内と相談して居を移したの」

「そうなんですか」


 タルナさんは寒いのが苦手なんだ。

 わたしは平気な方だけど、やっぱり長く住むなら温かい方がいいか。


「ちなみにこの町はコルテオスに渡航する船の手配も行っているの。こんなエストリズの北端でも人が多いのは立ち寄り所ってところがあるからかな。ただ、船場はここから3刻ほど歩いたところで――」

「船場までの見張りはおれがしているんだぞ!」

「……その見張りをさぼって彼らに迷惑をかけたのはどこの馬鹿息子だ!」

「仕方ないだろ! アルガラグアを守るためだ!」

「レクのは守るってよりも攻めてんのよ! それに何度あの2国に手を出すなって言わせるんだ。あの戦争はガス抜きを兼ねた殴り合いでの交流みたいなもんでしょう!」

「だからこそおれが出て盛り上げてやって……痛ぁぁぁっ!」

「ああ言えばこう言う! まったく、このアホ息子は!」


 またもゴチンとベレクトの頭を殴る。

 殴り合いの交流とかいう耳を疑いそうな話をしていたけどそこはあえてスル―することにした。

 2人のやり取りを見てか、近くにいた人たちから笑いが漏れる。アルガラグアの長であろう彼女の行動を素直に笑えるのは日常的なものだからだろうか。こういうのもいいなって思っちゃう。

 アルガラグアの説明を受けながらもわたしたちは町の中心部へと向かっていた。


「ここがタルナさんのお家? 大きいですね」

「あたしはさ、普通でいいって言ったのよ。だけど、歴代の長は立派な家に住むものだって、普通じゃあって恰好が付かないって仕方なく、ね」


 アルガラグアの中心部に構えるタルナさんの家は周りの家と比べると5か6か、云倍は大きいものだった。

 2階といったものがない平屋だけど、外から見てもわかるくらい天井の高い家……というか、以前どこかで見た博物館とか美術館って感じの建物っぽい。

 役所としての役割を持っているらしく、屋敷の殆どが仕事場として使っているそうだ。

 家に入ると、タルナさんの帰還に合わせて背中に真っ白な羽を生やした亜人族らしき線の細い男の人が姿を見せた。輪っかの無い天使さんに見える。


「タルナ様、おかえりなさい。ベレクトの制止は間に合いました?」

「ぎりぎりね。ちょっと急用で部屋を用意して欲しいんだけど、いい?」

「急用?」


 ちらりと抱きかかえられているわたしを一瞥し、羽男さんは頷いた。


「左の客間を使ってください。ベッドメイクは済んでいます」

「助かるわ。後マヌーシェさんを呼んでもらえるかしら」

「畏まりました。では、奥へ」


 タルナさんが小さく羽男さんへと頭を下げ、わたしもシズクもつられて頭を下げた。

 羽男さんは踵を返して去っていき、続いて今まで黙っていたベレクトも「それじゃあ、この辺で」と片手を上げて逃げるかのように羽男さんの後を追っていった。 


「いいんですか?」

「ま、いいわ。これから先いても邪魔だし……レーク! 反省するのよ――!」

「……わ、わかってるぞっ!」


 タルナさんを先頭に屋敷の中を進み、客室に運ばれたわたしは直ぐに部屋にある清潔なベッドに横になった。

 この間、ベッドの上に横になるまでずーっとシズクは抱きかかえてくれたままだった。……むぅ、お疲れ様です。


「……重くなかった?」

「火の活性魔法を使っているからレティが重くても大丈夫だよ!」

「そこはお世辞でも軽いって言え!」


 しばらくして。

 ノックの音と共に現れたお医者さんはわたしたちと同じ天人族の女性だった。

 わたしよりも深い濃紺の髪の色を持った人で、その第一声は「ら、ランちゃん!?」とタルナさんと同じ反応をしていた。彼女もまたお母様の知り合いなのだろう。名前はマヌーシェだと紹介を受けた。

 タルナさんを通してわたしがブランザの娘であることが伝わると、彼女は同じく嬉しいんだか悲しいんだかごちゃ混ぜの表情をする。自分のことじゃないとしても、なんだか申し訳ない気持ちになる。


「では、診断を始めますね」

「はい」


 以前、ワタリさんにしてもらった触診とは違い、マヌーシェさんは1つ呪文を唱え、仄かに緑色に輝いた手の平を寝ているわたしの身体へとかざすだけだった。

 服を脱がなくてよかったからいいけど、皆から注目されるのは気まずかったりもする。遠くから大勢の人に見られるのは結構平気なんだけど、近くで凝視されるのは苦手かなあ。


「それで、先生。レティの身体はどうですか?」

「先生? ……あ、はあ。メレティミさんの病状は――」


 わたしよりも心配しているシズクが先に訊ね、マヌーシェさんはゆったりとした口調で話を続けた。

 ま、ただの疲労だと、安易にそう思っていた。


「――抗魔病ですね」


 けれど、わたしの予想とは反して――そう、マヌーシェさんは口にした。

 ……え?


「……嘘、嘘でしょう?」


 ……まるで死の宣告を聞かされたような気持ちになる。


 先ほどまでの余裕とか、シズクに抱っこされていた時の幸せ分とかそういうのが全部吹き飛ぶほどだった。


「……抗魔……病? ……本当にですか?」

「ええ、まだ初期状態だから風邪みたいに感じるでしょう? 発熱と慢性的な疲労感。これがだんだんと重くなっていきます」


 わたしの質問にマヌーシェさんは淡々と答える。

 こういう人なのだろうか。今のわたしの気持ちは彼女のそっけない発言よりも、深く重い感情に縛られる。


 抗魔病。

 天人族の中で稀に発症する原因不明の病気だ。その病気にかかった人は長い時間、発熱、寒気と風邪に似た症状を何度と発症する。

 最初は風邪だと思うも、次第に身体は動かなくなり、1人で立つことすらままならなくなると――わたしの身近にもひとりだけこの病気にかかった人がいる。

 以前ものすごくお世話になったレドヘイル君のお兄さんも抗魔病を発症させていた。抗魔病は短くて3年、長いと10年……それ以上に治療期間を必要とするとは聞いている。

 そう……お兄さんが抗魔病にかかって里を去り、わたしが里を出るまでの間、5年以上が経っても帰ってくることは無かったんだ。


「嘘でしょ……」


 何もかも全てが終わった気がした。気がしたんじゃない。

 何もかもが、終わったのだ。

 横なっていて本当に良かったと思う。多分、もしも直立していたり椅子に座っていたら確実に倒れる自信があった。

 ベッドの上にずしりと沈み込んだように感じた。見えない重りがゆっくりと身体を押し付けてくる。 


(なんで、こんな時に……!)


 片腕で顔を隠して奥歯を深く噛みしめる。


(どうして、どうしてわたしが? なんで……!)


 これから、ずっとシズクと一緒にいるって決めたのに。もう、離れないって思ったのに。

 わたしの旅はここで終わりを迎えてしまう。

 無理して旅を続けたところで、いつ身体が動かなくなるのかもわかりやしない。わたしは治療期間に入らなきゃいけなくなるのだ。アルガラグアじゃないとしても、どこか別の場所でゆっくりと療養に入らないと駄目だ。

 そうなると、きっと、シズクは自分も残るって言ってくれると思う。

 わたしの力になりたいって自惚れでもなく彼ならきっとそう言うと思う。


(やだ。こんな結果いやだ。誰か、誰か嘘だって言ってよ!)


 でも、そんなのは絶対に嫌だ。わたしはわたしのせいで彼の足かせになるなんて許せない。次第に動かなくなる身体をシズクに介護されたり負担になるのは絶対に嫌だった。


 ――今、この場では他種族はあなたしかいないので、私たちの代わりにメレティミさんの治療を行ってもらってもいいかしら? 治療法はわかる?

 ――あ、はい。わかります。以前、彼女の妹……に行ったことがあります。

 ――妹っ!? ……ううん。わかった。ならよろしく頼むわね。


 わたしを置いて皆が話を続けていた。

 何を言っているかは聞こえてこない。聞こえなかった。それだけ自分自身を閉ざしていたんだと思う。

 きっと、これから先のことに対して話し合っているのだろう。でも、この先なんてどうでもいい。

 泣きそうになって、先ほどとは違う涙が出そうになって押さえつけていた腕で目元を強く押さえつけた。

 何もかも拒絶したい気分だというのに、誰かがわたしの手を掴んできた。

 誰かなんて感触でわかった。


「レティ……ちょっとそのままでいてね」


 声を掛けてきたけど、わたしは返事をすることは無い。彼が何をしたいのかさっぱりだったけど、そのまま反応1つせずに受け入れた。

 仄かな温かいものがわたしの手から肩、胸の上から腰と全身に伝わっていく。

 ちょっと腕を退かせてというのでこれも仕方なく従う。目を閉じたままで「泣いてるの?」って声にも返事は出来ない。まぶたの裏から淡い緑色の光が目に届いた。


 ――こんなものでいいですか?

 ――ええ、ばっちりよ。

 ――シズクはなにをしたんだ?

 ――それはね。


 皆がわたしを置いて話を進める。

 わたしのことなのに……これが、無性に腹が立って仕方ない。でも、これも仕方ない。どうにか鬱憤を飲み込んで、出来るだけ冷静に振る舞う。

 わたしは息を大きく吐いて、ゆっくりと口を開いた。


「もう、わたしはシズクたちと一緒にいられない……」

「ん? なんでさ」

「わたし、抗魔病なの」

「だってね」


 ――だってね?


 シズクの軽い口ぶりがやけに癇に障る。

 だってね、ってそんな簡単に言ってくれて!

 冷静に振る舞おうとした矢先、ものの数秒でこれだ。わたしの感情はあっさりと決壊した。


「だってね……って、シズクは知らないのよ!」

「え、レティ?」

「抗魔病は恐ろしい病気なのよ! 次第に力は抜けて、1人で生活することも出来なくなっちゃうんだから!」


 ただの風邪としか思っていないシズクにはわからないんだ。

 わたしがどうして泣いているのかも、誰のことを思って泣いているのかも。


(それもこれも全部シズクと、君と別れたくないからなのに!)


 でも、そんなことわたしが口から言えるはずもない。こんな臆病で自分の気持ちを素直に口に出すことわたしが言えるはずもない。

 みっともなくポロポロと涙が流れても構わず、ぎっとシズクを睨み付ける。


「レティ……なんでそんな怒って……」


 彼の伸ばした優しさが今じゃ、煩わしい。

 シズクが差し出した手をわたしは叩いて落とした。


「出てって!」

「レティ、何どうしたの!」

「シズクにはわかんないよ! 私の気持ちなんて! もう、1人にしてよ!」


 他の人がいるっていうのに、わたしは声を荒げてシズクを部屋の外へと追い出した。

 タルナさんもマヌーシェさんもリコちゃんも狼狽えているけど、わたしはもう、冷静を保つことなんてできやしない。

 そのまま、ベッドに顔を伏せて小さく声を殺して泣き始めた。

 

(なんで、わたしが抗魔病にならないといけないの……!)


 最初は病気への恨みに憤りに我慢できなくて感情を露わにした。

 肩を震わせて、喉の奥から震える嗚咽を噛み殺して耐えて耐えて――。

 誰かがわたしの肩を叩いた。見知らぬ人の感触だった。誰かは、わからない。


「メレティミさん……」

「ごめん。シズク……ごめん……ごめん」


 次第に怒りは止んで後悔と悲しみが溢れてきた。

 シズクに八つ当たりをしてしまったこともある。しかし、それ以上にシズクと距離を取らなくてはいけないなのではないのかと、シズクと別れなくてはいけないのでは、という未来に対しての悔やみだった。


(ごめん。シズク。でも、わたしは君とずっと一緒にいたい……)


 病気の身体でこれからのことを思えば、羽を折られた鳥のように地面に這いつくばる真っ暗なものしか描けない。


 やっと彼と恋人らしくなってきたばかりなんだ。

 彼ともっと触れ合いたい。彼とどこまでも行きたい。キスだってまだし足りない。それ以上だって……恋人同士でしたいことはたくさんあった。


 もっと、素直になっていればよかった。

 もっと、彼と共にいたかった。

 もっと、愛したかった。

 もっと、愛して欲しかった。


(ごめん。こんな態度しか取れなくて。ごめん。わたし、もう一緒にいられなくて)


 抗魔病にかかったとしても、まだ初期状態だからか、身体は動くことには動く。

 だけど、こんな身体になったわたしは全てが手遅れだ。

 後悔ばかりが募る。手の平からすり抜けた後に当然と思えたことを失って後悔する。

 いつでもできる。明日また会える。ずっと変わらないまま。


 違う。そんなことはない。

 普段通りなんてものは、ある日突然あっさりと崩れてしまう。

 そのことは痛いほど身に染みていたのに。


「ごめん……シズク……」


 こんな情けないわたしでごめん……。

 何度も謝ろうとも、ここには彼はいない。わたしが追い払ってしまったのだ。

 わたしの気持ちは彼には1つとして届かない。

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