第132話 心の叫び

 僕らを尋ねてきた人物はルフィス・フォーレだった。

 テトリアとの話途中だったけど、数年ぶりに顔を合わせたルフィス様は僕らに依頼を頼みたいと言ってきた。

 ただし、依頼云々の話はその晩ルフィス様と別れる最後の時に告げられたものだ。

 依頼の話が直ぐに出なかったのはルフィス様とレティに多少のいがみ合いが発生したことが原因で、その原因を作ったのは不本意にも僕だった――。





「し、し、し!」

「えっ、ルフィスさ……ひっ!」

「シズクぅぅぅううう……!」

「ぎゃぶっ!」


 ルフィス様は僕だとわかるなり早々、両手を広げて抱きしめてきた。

 突然のことで避けることも出来やしない。母親譲りの大きな胸が僕の顔に押し付けられる。彼女の胸に収まった時、同時にルフィス様からは少し強めの香水の香りがした。

 あれ、これさっき堪能したソノフレラの香りに似てる。けど、ソノフレラ畑に漂っていたものより濃縮された香りは悪臭となって僕の鼻を刺激してくる。僕はこういう作られた臭いが苦手だ。

 小さな悲鳴を上げてしまったが、抱き込まれた胸は柔らかく、暖かくて心地よいと思ってしまった――のも束の間、僕の頭を抱き込んだまま振り回すように何度も髪を掻き乱す。縛っている髪の毛が引っ張られて痛い。


「シズク……本物! 本物のシズク! ああっ、何度夢に見たことか!」


 力一杯に抱きしめられ、ぐわんがぐわんと振り回され、髪の毛をわしわしと掴まれたりとかなり悲惨。

 豊かな谷間の感触やら一切喜べる状況じゃなかった。口元は彼女のドレスを間に挟んだことでどうにか密封状態は免れたけど布越しの呼吸は辛い。


「ぶはっ!」


 抱擁が弱まったところを見計らい、天国の谷間から抜け出した。大きく息を吸って酸欠状態から解放されようとした途端、今度は頭をがっちりと両手で掴まれ、まじまじと顔を覘き込まれる。


「る、ルフィ……」

「ちょっと動かないで!」


 見開いた目はぎろぎろと動き回って僕を凝視し始める。

 うわあ……ああ、前にもこんなことがあったなーなんて冷や汗をかきながらルフィス様の凝視に耐える。あの頃の面影を残しつつ、母親であるベルレイン様に似てとても美しくなったルフィス様のお顔はとても険しい。だが、直ぐに目を細めて「えへへぇ」と可愛い声を上げながら口をにんまりと緩ませ――僕の頬に自分の頬を擦り付けてきた。


「本物! ああ、懐かしい感触。最後にあなたの主人となったあの時のまま……シズク、シズク、シズクぅぅぅ!」

「ひぃぃっ!!」


 ルフィス様はまるで愛玩動物を可愛がるかのように僕に頬を押し付けてくる。

 ひいてしまうほどの全力でのこの可愛がり様はなんだ。

 ルフィス様はきっとペットを飼ったらノイローゼにする人だ。


(ああ、これがレティだったなら……)


 困惑した頭で別のことを考えてしまう。レティは絶対こんなことしてくれない。

 恥ずかしさが先に顔を覗かせて自分からは滅多に僕に触れてくれない。だからたまに伸びてくるレティの手が僕の手を掴んだ時なんてけっこー嬉しい。顔を赤くしてそっぽを向くレティと帰り道を歩いたりする時なんかはにかんじゃうほど……いや、そんな話は今はいい。


 助けてと手を伸ばして懇願したのは彼女の護衛だったか、側近だったか……来客であるもう1人、たしかヴァウェヴィさんだ。

 彼女は今まで呆気に取らたように立ち尽くしていたが、僕の伸ばした手に気が付いてか、自分の主人が乱心したことを諌めようと1歩前に――だけど、彼女が動きだすよりも先に動いたのは……。


「ちょ、ちょっと! あんた何してんのよ!」

「レティっ!」

「ああっ、私のシズク!」


 同じく今まで呆然とルフィス様の奇行を眺めていた、眉をこれでもかと吊り上げたレティだった。

 絶叫するレティに引っ張られ、どうにかルフィス様からの抱擁から解除される。


「だぁれが私のですって!」


 自由になった後、ぜぇぜぇと肩で呼吸し意識が遠退く1歩手前だったことを知る。くら……と、酸欠のせいでその場で足を崩しそうになるほどだ。

 助かった……と思ったのはその時だけ。

 今度は――。


「もぶっ!」

「わたしの……っ……シズクに馴れ馴れしくしないで!」


 今度はレティが僕を抱きしめる番だった。ルフィス様から隠すように僕の頭を自分の胸の中に抱きかかえだす。

 寝ぼけていたとはいえ、1度だけ触ったことのあるあの豊かな胸の中に僕はいる。

サイズで言えばルフィス様の方が圧倒的。けれど、ルフィス様以上に嬉しく天にも昇る思いだ。

 あ、石鹸の香りがする。ルフィス様には悪いけど僕は断然レティの香りの方が優しくて好き……何より、意中の異性である彼女の香りと思えば即座に顔は熱くなる――いや、顔はじわじわと熱くなっていく。


「ぐっ! れ、レティ! レティ!」


 レティの豊かな胸と香りに包まれて至福に包まれていたのは一瞬のこと。

 今度はレティの番と、彼女の回した腕が僕の首をがっちりと食い込み絞めてくるのだ。放してくれと何度と腕を叩いても彼女は気が付いてくれない。


「ああ、ルイ! あなたも懐かし……あら? ずいぶん……と、女らしくなりましたわね」

「どっ、どこ見て言ってるのよ! というか、わたしはルイじゃないし!」

「え、ルイではない? そういえば、ぼくって一人称は直しましたの? あれはあれでなかなか可愛かったのですが……」

「だから別人だって言ってるでしょ! それは今はどうだっていいの! 何よ、こんな夜に押しかけてきたと思ったらシズクを抱きしめたりして!」

「え、ルイではないの? またまたご冗談を。こんなにも綺麗な青髪の天人族を見間違えるなんてありえませんわ?」

「それはいいって言ってるでしょ! も――! わたしはルイの姉みたいなものよ! ルイは別のとこにいるの!」

「はて、ルイの姉……ああ、なるほど。確かに胸――いえ、瞳の色が違いますわね。ルイは太陽に照らした葡萄酒のように真っ赤な瞳を宿してしましたし……綺麗な青と赤を持つ少女と私は覚えていますわ」

「今最初なんつおーとした! おい。さっきから胸ばかり見るな! わたしの顔を見ろ!」

「そうね。……あなたは心を奪われるようで清らかな深い蒼穹。髪の色に負けない強い青はとても素敵よ。ルイの血縁者だと言うのであれば頷けますわね。私の記憶の中のルイがもしも成長したらという姿をあなたは体現なさっていますもの。ただ、胸は予想外でして……つい」

「だ――! だから、胸胸いうな! 最近ちょっとコンプレックスになり始めてるんだぞ!」

「は……こんぷれ……? それはいったいどのような意味で?」

「え? えーっと……言葉にしておいてなんだけど、説明するのは難しいわね。劣等感……て言うべきか。や、別に劣等感には感じてないけど心的な抑圧を覚えるとか……あ――! もう、何が何だかわからなくなってきちゃったじゃない!」


 …………。


「あのぉ……」

「あら、奥方様。何かしら? 今立て込んでいるのですけど」

「ごめん! おかみさん! 後にして!」

「いやいや……ひとまず、彼のことを気にかけてやんなさいよ」

「……え? し、シズクっ!?」

「まあ、大変! シズク! 気を取り成して!」





 2人の喧騒にどうしたどうしたとここの宿を利用している人たちが現れたこともある。中にはスクラさんとキーワンさんの顔もあり、また心配そうにこちらを伺うリコの姿もあった。おまけにテトリアも食堂の扉からちらりとこちらを伺っていたりして。

 ルフィス様は「あらら、少し騒ぎ過ぎてしまいましたわね」と言い「誰のせいよ」とレティが愚痴った。

 僕が気が付いたのは直ぐだったけど、ルフィス様は改めて明日にでも話をさせてくださいと今日のところは引き返すことになった。


「話って何?」

「……まあ、依頼の話ですわ」

「依頼ですか?」

「ええ、最近、美しい2人ないし3人組の冒険者がいると耳に挟んだもので。少し個人的なお話を頼もうと……けれど、それがまさかシズクだったとは……詳しい話は明日のお昼頃にでも」

「あ、はい。わかりま――」

「わたしはよくないわ! 受けるとも言ってないじゃない!」

「――した……って、レティ」


 反対するレティには悪いけど僕はルフィス様の話を聞くだけでも行くことにする。

 だって、ここで行かないって言っても余計話がこじれるだけだったからね。

 数名だとは言え、宿泊している他の人たちによる見物人が増えていたのもいただけないし。中には睡眠を邪魔されたって怒っている宿泊客もいる。


「わたしは絶対受けないからね」

「話を聞きに行くだけだってば」

「どうだか? あんた、あの大きな胸にやられちゃったんじゃないの?」

「もう! そんなんじゃないよ! それならレティの方が良かったよ!」

「ばっ……!」


 なんて、本音を口にしただけだっていうのに、レティは怒って僕の尻を強く蹴り上げた。





「君も大変だね」

「旦那さんもそう思いますか?」


 苦笑いを浮かべた宿屋の旦那さんに話をつけて、僕用(男性)の部屋を1室借りた。

 今朝までなら痛い出費だなーと思うも、依頼の報告が終わった後の僕らにとっては心配することは無い。手に入ったのはまだ集めた小さなコア分のお金だけど、それでもいつも以上の収入を得ている。

 ただ、その晩、僕は借りた部屋のベッドに横になったのはほんの少しだけだった。


 ――月が頂点を迎えて夜も更けて。


 僕は宿屋の裏手に1人佇んでいた。そこは洗濯物を干す裏庭で、今は日中僕らが着ていた雨具が地面に並んで重ならないように広がっている。


「こうして……こうして……こう」


 僕は手の平を前に突き出して頭の中で思い描いた魔法を発動させる。手の平を向けた何もない空中に丸と三角を合わせた光り輝く図形――魔法陣が発現する。

 魔法陣は中々にうまく描けたと思うけど、発現させようとしていた座標より後方にずれている。こういう時、空間認識能力が高ければなあって思う。

 以前は宙に指で書いていたけど、スタンプを押すみたいに1度に出せるかなって実行してみたら以外も以外。こっちの方がしっくりきたのでこっちを採用している。

 ただし最初は形は歪で、線は繋がっていなかったり円の中から三角形がはみ出たりと落書きに近いものばかりだった。形がまともになってきたのはここ最近のことだ。

 頭の中にはアサガさんが書いた魔法陣が綺麗に出来ているのに、実際に表現すると言うのは思いのほかに難しい。


「よし……次」


 僕は設置した魔法陣に魔力を注ぎ込むと、強く光り輝く。

 薄いコンタクトレンズの様な可視化した光壁を現してそのまま継続。

 向かって右手を伸ばして火球を生み出し――継続中の魔法陣に射出する。

 射出速度、火力は共に通常の半分だ。火球をゆっくりと放出させて魔法陣に接触。そこから頭の中で数を読み始める。

 数を読みながら魔方陣のレンズを火魔法で炙り続ける。


(……――25、26、27……お?)


 パリン、と空気を震わせる音を鳴らしてレンズは割れる。


「大体30秒が限界かな」


 僕の魔力が限界だったわけじゃない。レンズが割れた後も僕は魔力を注ぎ込むことが出来ていた。余裕はまだある。魔法陣の方が限界だったと言う訳だ。


 さて、今僕が出した魔法は以前アサガさんたちがいた世界での魔法であり、学園や区内に張られていた障壁の真似事だった。

 この魔法は以前、レティと観光で東京に出向いた時に乗った旅客船の上で思いついたものだった。


 魔法陣を書くだけなら照明として使う光魔法の光球よりも魔力消費は少ない。その後で書いた魔法陣の効果を発揮し継続して光壁を作っている時は思った以上に魔力を消費する。量で言えば強化魔法で消費し続ける魔力なんて可愛いくらいに重い。

 ただし、現在の僕らには些細なことになっている。


 この世界に戻った後、僕らの魔力は大幅に拡張されていた。身体の中に存在する貯蔵量も、一度に出せる排出量も多くなった。

 どういう理由かはわからない。ただ、感覚としてなら覚えはあって、以前ラゴンから貰った魔力量を抑えるリングを外して魔法を使った時と似ていたんだ。

 この世界に戻ってから、魔法を使った時、僕もレティも思った以上に魔力が出てたことに違和感を覚えていた。その違和感がリングを外した時の例と似ていることから、きっと僕らの魔力が強くなったんだと思う。


 こうした魔法の練習はいつもなら寝る前にレティと2人で行っている。でも、今日は僕1人、寝付けずに魔法の練習に精を出している。

 下水道での掃除やテトリアとの再会なんてこともあり、またルフィス様とのやり取りも重なって結構な疲労を感じている。

 しかし、眼が冴えて眠れない。ルフィス様のこともあるけどやっぱり1番はテトリアのことを思ってしまって中々寝付くことは出来ずにいたんだ。

 だから、眠れない時は身体を動かせば寝れると思って僕は魔法の練習をしていた――ん。


「……シズク」


 呼ばれて振り返ると暗闇からテトリアが姿を見せていた。

 亜人族であるテトリアもリコと同様耳がいいのだろう。

 起こしちゃったかなと申し訳ない気持ちになりながらも手を上げ、小さく頭を下げた。


「テト? ごめんね。起こしちゃった?」

「シズク……」


 寝間着なのか、彼女はゆったりとしたネグリジェを着ていた。テトリアの為にレティが買ったのだろうか。それにしてもちょっと大きい。

 よれた襟首は大きくテトリアの右肩をのぞかせている。丈は長く彼女の足のくるぶし付近をひらひらと舞った。

 テトリアはゆっくりと僕へと近寄ってきた。寝ぼけているのかふらふらと身体を震わせ――妙だ。彼女が僕に近づくにつれてわかった。


 月は僕らの真上で顔を利かせていたけども、照らしているのは頭の上。オレンジの髪がテトリアの顔は隠している。俯いていることもあって表情はよく伺えない。が、僅かに見えた頬だけは赤らめて見えた。


「シズク……」

「なに、テト」


 恐る恐ると近寄ってテトリアが顔を上げて僕を見た。目をうるませて僕を見た。

 泣いている……違う、と思った瞬間に思わず息を飲む。彼女は微笑んでいた。

 テトリアの目には光がなかった。虚ろでこちら見ているようで見ていないという覇気のない目だった。

 テトリアの笑みははっきり言えば不気味だった。何かに操られているような危うい笑みだ。

 僕の中の記憶のテトリアには程遠い顔をしていて、彼女に似た別人なんじゃないかって一瞬疑いそうになった。

 でも、あの時のテトリアはもういない。別人も何も僕はテトリアのことなんてあの時しか知らない。

 それだけ彼女は見違えるほどに大人へと成長していたのだから。


「テト、大丈夫? 顔が赤いよ。風邪だったら大変だよ。早く部屋に戻って寝ないと――」

「シズク……」

「何? テト――」

「――シズク!」

「ぐっ!」


 心配して肩に触れようとしたところで、テトリアから体当たりを受けた。彼女にしたら胸に飛び込んできたのかもしれない。

 思わぬ不意打ちに僕は胸を強く打たれ、彼女の身を受け止めきれずにその場に倒れた。また、倒れた時にテトリアの頭が僕の顎に当たり……胸、背中、顎と痛い。


「いったぁ……」

「シズク……」

「なぁに、もぉ……」

「シズク……お願い……」

「テっ……ト……?」


 馬乗りになった僕の上でテトは膝を立てる。

 ネグリジェの裾の両端を持って……ゆっくりと上げていく。


「な、なな! テト! 寝ぼけてるのっ!?」

「……お願い」

「お願いって何!? どうし……!!」

「テトの……」


 持ち上げられた裾は太股よりも上に、大体お腹まで持ちあがった。

 テトリアは何も穿いていなかった。パンツとか下着とかそういうのを。


「ご主人様になって……」


 暗くてよくは見えなかった。

 今が夜であったことや、真上から照らす月で逆光だったことや、持ち上げた裾で出来た影で覆われていたとか。

 兎に角、僕は見えなかった。

 ソコも、ソコに集中した体毛も、そして、腰を僅かに傾けていることでよじれた痛々しい焼き印も。

 僕は慌てて両手を顔に当てて叫んだ。


「テト! 隠して!」

「お願い、見て……見て……ください」


 テトリアはか細くも羞恥の声を上げて、僕に見ろと懇願してくる。当然と僕は拒否する。


「ご主人様は……テトがこうやって、こういうことをすると喜んでくれました。男の人は、こういう風に誘われるのが、好きなんでしょ?」

「そんなの知らないよ! どうしたのテト! いいからどいて!」

「お願いします……何でも言うことを聞きます。シズクがしたいこと。喜ぶこと……なんでもします。だから……」

「テト! 僕はそんなこと望んでないよ!」

「……テトのご主人様になって」


 そう言うと、テトリアはしな垂れて僕に身を任せてくる。


「お願い、シズクお願い。テトのご主人様になって。テトもう行く場所も無い」

「て、テトぉっ……!」

「知らないの……あの場所以外でどうやって生きたらいいかわからないの……テト上手だよ。私、いつも役立たずだってご主人様に怒られたけど、これだけは上手だって何度も言われた……だから、ね」


 テトの伸びた手が悪戯に僕の胸の上を動く。細い指は何度も僕をなぞった。

 思わず声が出そうになって身体が震える。テトリアの指は僕の身体を這う。くすぐったいのとは別の何かが身体を走る。テトリアの熱い吐息が首筋にかかる。


「シズクならご主人様にされたことも我慢……ううん。シズクならきっと、私……喜んでできると思う。……ねえ、なんだってするよ。今すぐここで裸になれって言っても恥かしくないし……私ね。舐めるがすっごい、いいんだって。舌がね。他の女よりも長くて、ざらざらしてるから気持ちいいんだって。ただ、1度だけ歯が当たってすっごい殴られたこともあるけど……けどね。おかげで鋭い歯にあたらないようにうまく舐めれるようになったんだ。ね、シズクにもしてあげる……ほら、出してみて。ね――」

「や、やだ! やめて! テト……テトっ!」

「……きゃっ!」


 無理やりズボンを脱がそうとしてきたテトリアを僕は力の限り突き飛ばてしまった。

 思いの外力が入って、テトリアは悲鳴を上げながら2回ほど転がり、その場で蹲った。

 身体を丸めて頭を両腕で隠して――。


「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 痛いのはやだ! 殴らないでっ! なんでもします! 逆らいません!」


 ――何度も謝罪を繰り返しながらテトリアは身体を震わせて泣き続ける。


「……テト」


 ああ、なんて……見ていていられない泣き方だ。

 こんな泣き方をした少女を1度だけ見た記憶が思い出される……自分がこの世界に生まれて、唯一の心の拠り所だったあの晩の少女の姿が脳裏に鮮明に描かれる。

 あの日の自分の犯してしまった失態を思い出し、奥歯を噛みしめ……1度かぶりを振ってから僕はテトリアに近寄り肩に手を振れた。

 大袈裟に見えるほどテトリアは大きく体を震わせた。


「……テト。そんなこともうしなくていいんだ。テトを虐める人間はここにはいない」

「ほ、ほんとうに……?」

「……うん」


 くしゃくしゃに泣き腫らした顔を上げてテトリアが僕を見た。

 先ほどまでの虚ろな瞳に光が戻ってくる。焦点の定まっていなかった目が正確に僕を捉えた。


「……あ、あれ? シズク?」

「……テト」

「あれ……もしかして、私……またしちゃったの?」

「また?」

 

 そう、テトリアは事情を教えてくれた。

 彼女は主人の元から逃げた先、夜になると気が付けば知らない場所にいたことが多かったと言う。そして、その多くで知らない男と裸で寝てることがあったそうだ。


(もしかして、奴隷として交わした契約書の効果が生きているんじゃ……)


 以前の経験では、主人となったものからある程度の距離を取ることで命令された事柄を拒否することが出来た。けれど、テトリアは主人から脱走した身。僕は逃げた奴隷に及ぼす契約書の効果を知らない。

 テトリアは半身を起こして、思いの丈を漏らし出した。


「もうやだ……本当はしたくないの……テトはおもちゃじゃない……テトの身体に誰も触らないでほしいの……」

「テト……」

「痛いの……辛いの……。気持ちいいなんて嘘……全然よくない! だけど、テトの口は勝手に気持ちいいとかもっとしてとか求めるの! 言われたことをやらないと痛いの! 口にしないと頭がガンガン痛くなるの! やだ! もうやだよ! なんでそんなことするの! テトの口から変な声が出る! 聞いてて気持ち悪い! やだやだやだやだ! もうやだよ! 助けてシズク! シズクシズクシズク!」 


 僕は彼女の横に座って手を握ってあげるだけだった。

 叫びだされる悲痛な声を聞き続ける。握った手を強く強く握り返される。

 ……身体だけ大人になった、あの頃のままのテトリアがここにいた。

 泣きじゃくる彼女の声は静寂に包まれた町の中ではやけに耳に届いた。


「……テト」


 テトリアは僕に助けを求め続けていた。けど、僕は答えられない。

 僕にはテトリアを助けることは出来ない。安易な言葉をかけることは出来るけど、今のテトリアには何の意味も無い気がした。

 僕にはテトリアの心の傷を癒すことなんて出来やしない。

 僕が出来るのは彼女の悲痛な叫びを聞いて、手を握ってあげるだけだ。


「……だから、もうテトを見捨てないで」

「……」


 その言葉にも僕は無言を貫くだけだった。





 泣き止んだ後、彼女は僕の部屋で寝ることになった。

 僕は備え付けられていた椅子をベッドの近くに持ってきて横になるテトの手を握り続ける。


「シズク……そこにいる?」

「いるよ」

「いなくならないでね」

「うん」


 似たような会話を何度か交わしつつ、テトリアが眠るのはそれから少し先だった。

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