第105話 僕がすべきこと
炎上する甲板の上に黒い髪の人間がいる。
出来れば、見つけたくなかった人物だ。
白い少女の言う通り、彼が終わらせてしまったのだろうか。
「……行かないと」
私は直ぐに鉄の鳥を急降下させて彼の元へと向かう。
彼は穴の開いた船の中へと進んでいく。
「シズク……待って」
早く早くと速度を上げて落下していく。
このままシズクを先に行かせちゃいけない……今まで以上に、置いて行かれるような気がしたから。
◎
火の海と化した戦艦は沈黙する。
主砲を失い、殆どの機銃も損壊。これ全部を僕がやったなんて自分でも信じられないほどに。
でも、船はまだ生きている。
抵抗できないほどに壊したとしても、それは上辺だけのこと。
僕は武装を一時的に無力化したに過ぎず、船は僅かに微震を起こしながら進水していた。
リコの力を消した途端、膝が笑い出した。
先ほどまで昂ぶっていた感情が急激に冷めていく。残ったのはとてつもない疲労感だ。
大きなライオンの姿となったリコが僕の身体から飛び出して、こちらを気遣ってくれるように、何度も頬を舐めてくる。大丈夫だよ、と彼女の首に腕を回して小さくささやいた。
『……シズクくん。大丈夫か? その……』
「……はい、アサガさん。僕は大丈夫です」
お互いの健闘を称えるかのようにリコと触れ合っていると、所持していた札からアサガさんの心配するような声が投げかけられた。
僅かに恐れの乗った声色だった。
『そうか……わかった。今の魔法や行動に関して自分は何も言わないことにする』
「うん。そうしてもらえると助かります――これから内部に侵入します」
『……わかった。自分たちの遠視では艦内の映像は見ることは出来ない。十分に気を付けてくれ』
「はい」
何度も何度も呼吸を繰り返し、落ち着いて蒸気の立ち昇る露出した内部へと歩を進めるも、入る手前で足を止めた。
艦内は鼻が曲がるほどの悪臭が漂っていた。ひどく生臭い。
この臭いは以前、似た様なものを嗅いだことがある。
……そうだ。港町なんかの魚市場付近の塩辛い……ぎゅーっと濃縮したかのような臭いだ。
「……みゅう」
「リコは中で待ってていいよ」
敏感な嗅覚を持つ今のリコには辛いものがあるだろう。
後は任せて……と僕の身体の中に戻ってもらう。中に戻った後のリコは、よほど疲れたのか直ぐに意識を失くしてしまった。
お疲れ様。ありがとう。
臭いに我慢して進む。鉄で出来たつぎはぎ床には歩くたびにくちゅと粘液質の音と、こりっと固形物を足の裏に感じた。
足元をよおく凝らして見ると、それは腐った魚の死骸であることがわかった。どこもかしくも魚の死骸が散乱している。
中には貝や甲殻類、はたまた動物的な死骸なんかもある。サメか鯨か。もしかしたらアザラシとかそういうのかもしれない。
リコが身体に戻ったことで、僕の恐怖はまたも蘇る。薄暗い艦内とこの悪臭、無数の死骸を前に僕の心を掻き乱す。だけど、歯を食いしばって前へ進んだ。
目的の、目的だったかはわからないけど、僕が目指していたものは案外近くに居た。
「……イト」
声が聞こえた。陰の奥で蠢く何かが見えた。
僕が開けた穴から洩れる外光は届かずとも、何かの輪郭だけを映し出す。
「……ガ……」
細い紐に繋がれた何かがいる。
「……誰かいるの?」
つい声をかけてしまう。でも、当然とばかりに無反応。いや、こちらの声に反応したかのように掠れた音が返ってくる。
僕は光球を宙に生み出して、周りを照らした――。
「ひっ……」
思わず悲鳴を漏らした。
目の前にいたのは糸に吊るされた、人間……だろうか。
確信を持てない理由はその人が、あまりにも人としての部位を欠損しているからだろう。
痩せ細った身体は骨に近く、中でもその顔貌は嫌でも目に付く。
穴の開いた頬、不揃いな歯、削がれた鼻、空洞になった眼窩、頭部なんて皮の剥がれた朱色の皮膚を覗かせている。足元には頭髪の束が落ちてる。
以前、道中で発見してしまった、魔物か何かに食い散らかされ、長い年月野ざらしにされた人の死体によく似ている。
目の前の人も、そんな旅の合間に見かけてしまった死骸とそっくり――なのに。
それでも、こいつは。
「……あかで……アン……ト」
生きている。
『シズクくん、どうした?』
「……アサガさん」
どう伝えたらいいのだろうか。
『先も言った通り艦内の映像はこちらでは見えない。一体中に何がいるんだ』
「……人です」
『人?』
「糸に吊るされた人がいます」
『人が……冗談だろう?』
「……しかも、まだ生きてます。痩せ細って皮膚はところどころで剥がれて、裂けた口の隙間から抜けて不揃いの歯が見えます。なんでこれで生きているの……これじゃあ、まるで――」
『……もういい。君はよくやった。後は自衛隊に任せるんだ』
――はい、と。
「…………いえ、ここで」
頷くことが出来れば、どんなに楽だっただろう。
『シズクくん?』
『おい、野花ちゃんっ!?』
でも駄目だ。自衛隊に任せているほど猶予は無い。だって、こいつ。
――僕を睨みつけている。
目を閉じて臭く吐き気さえ覚えるここの空気を無理にでも吸い込んで、それから目を開けて、
「殺らないと」
僕は男を殺すことを決断した。
「……ゥ……ト……スト……ァチ……」
吊るされた男ははっきりと僕を認識して、睨みつけながらこちらに声を浴びせてくる。男が音を漏らすたびに腐敗臭が飛んでくるかのようだった。
顔をしかめていると先に男が行動を起こす。今にも折れそうな手を僕へと突き出してくる。
それが合図か、彼の背後から数枚のカードが僕へと飛びかかってくる。ひっ、と怖気づいた時には僕を守ってくれているお札が壁を作ってくれて弾いてくれた。
弾かれたカードはそのまま外へと飛び出して行ってしまった。
「カ……カカカカッ……カッカカカカッカッ!」
今の僕の反応が面白かったのか、崩れそうな顎が何度も上下して不気味に笑う。
そして、先ほど以上の、何十というカードが男の背から飛び出して僕にぶつかりながらも外に放出される。
続いて。
「壁が塞がっていく……」
外からの修復か、ばちばちと火花の散る中、僕が魔法で開けた穴がゆっくりと閉じていくんだ。
閉じ込められる? でもその時はまた開ければいいなんて悠長に考えている暇はない。
同時に僕の思考をぶつ切りにするみたいに、船が大きく揺れた。その場で何度と足を踏み直した。
何をするつもり――いいや、駄目だ。何かをする前にやらないと。
僕は手に持った拳銃を男の顔へと標準を合わせた。
――撃たないと。
撃たなきゃ、こいつはきっと良からぬことをするに違いない。
今吐き出されたカードだってまた船を修復しようとする。例え消えない火だとしても油断はできない。この世界での魔法は僕たちの魔法とは違うのだから。
もしかしたら、消せる魔法もあるのかもしれない。可能性はある。だから、早く撃つ――!
だけど、さっきまで引けた引き金が奥へと絞れない。銃の尖端が震えてぶれる。
「撃たないと……」
撃って、終わらせるんだ。
息が上がる。腐った空気が胸の中に入り直すたびに喉の奥からこみ上げてくる。けれど僕の呼吸は止まらない。
(終わらせて、ユウコさんとトオルさんの安否を確かめに行って、それからレティに謝って……)
引いてよ。僕の指。動いてよ。動いて……ねえ、お願いだから……。
目を閉じて、意識を集中する。
思い出せ。
今まで何百と魔物を殺してきたんだ。今さら何を迷う必要がある。
いつも通りに殺せばいいんだ。いつも通りに。ほら。目の前の人だって、見た目からしてもう人ですらない。
楽勝だよ。人じゃない。もうこの人は、人じゃ……この人?
「――駄目だ! 何も考えるな!」
この人はもう人じゃないんだ。
撃て! ……なんで!? こんな化け物みたいなやつなのに!
僕の指は言うことを聞いてくれない。
(だから、だから人じゃないんだって! 撃てっ、撃て撃て撃て撃て撃てっ!)
――撃てェェェェっ!!
「あ、あああっ! あああああァァァァ――!!」
「――もういいよ。シズク」
迷いを振り払うかのように慟哭を上げ、その勢いから目を開けようとして、僕の視界が何かに覆われた。
そのまま背後から誰かに強く抱き締められた。
誰かって? ……わかる。レティだ。
彼女の匂いだ。この臭い部屋の中でどうしてわからないでいられるか。
「……っ……レティ」
なんでここに……最初は極度の緊張から生み出された幻聴か何かかと思った。
だけど、僕の目元を覆う手と、僕の背中にかかる体温は幻なんかじゃない。
ひんやりと冷たくなったレティの身体だ。
「いいよ。無理しなくて。辛いんでしょう」
「……でも、僕がやらないと。僕じゃないと。僕がレティを――」
僕がレティを守らないと。
その言葉は、更に強く抱き寄せられたことで途切れた。レティの身体が僕を包み込んでいく。
背中からかかる彼女の声は僕の張った集中を霧散させる。
……また、泣きそうになった。
冷たい彼女の手がとても心地よくて暖かいものだったんだから。
……ううん、もう泣いていた。
僕の閉じた目からこぼれた涙が、レティの手の中に納まる。
レティは拳銃を握った僕の右手に自分の右手を重ねてきた。
「これ、本物?」
レティは僕の右手に自分の手を重ねながら訪ねてきた。
「……同じようなもの。サイトウさんが持たしてくれた」
「サイトウさん、こういうの好きだからね」
この場には全く不釣り合いな微笑が耳に届く。彼女の笑い声だ。ほんの少し離れただけなのに、久しぶりに聞いた気がする。
拳銃を握る僕の右手に手を重ねながらレティは続ける。
「ねえ、わたしね。考えたんだ」
「……何を」
「シズクとどう向き合えばいいのか」
「……」
「でも結局答えは出なかった。だって、わたしは君と同じ目線で物を見ることは出来なかったから」
「僕と見てるものが違う……? そんなことない……あったとしてもレティには必要ない……」
「ううん。必要だった。少なくともわたしには必要と感じたの……そして、今が君と同じ目線で見る方法を得られる場所なんだね」
そう言うと彼女は僕の右手から銃を取り上げる。
何をするか。頭の中の彼方にいる僕にはわかったけど、取り返す気力はもう残っていなかった。
遠くにいる僕が警告を発している気がした。だけど、力が入らないんだ。このままレティに抱きすくめられていたい。
「……ナハ……」
彼女の右腕が伸びるのを感じる。
何をするのか。わかっているのに止められない。
彼女がこれから行うこと。僕が行うはずだったこと。
止めなきゃいけないと思ったのに僕はもう動けない。
彼女の身体が僅かに硬直する。触れている僕を巻き込みながら。
「……なが――」
金属のこすれる音。
風切り声。
何かが弾け飛ぶ音。
大きな衝突音。
これらが同時に聞こえ、今まで声を上げていた人の声が途切れる。
シリンダーから吐き出される熱波が僕らを撫でる。
――その後、戦艦の微震はあっさりと止まった。
僕の顔を覆っていた彼女の手が離れる。
ゆっくりと横に並ぶレティへと顔を向けた。暖かなずっと焦がれ求めて止まない彼女がいる。
彼女は何も言わずに僕の手を引いて外へと向かった。
そして、無言のまま外に鎮座していた大きな鉄の鳥へと誘われ、僕は頷いて上に乗った。
レティも続いて乗り込むと、僕たちは燃え盛る戦艦を後にした。
◎
鳥は大空へと掛け昇っていく。
吹き付ける風は冷たくて痛いものだったが、構わずに空へと飛び続ける。
大きな鉄の棒を握ったレティがこちらを向いて口を開く。
「シズク、今度こそ聞いて」
「……うん」
弱々しくもにっこりとレティが笑う。
その笑みは、とても、綺麗だと思った。
「わたしシズクのこと怖いって思ってないよ」
「……うん」
「怖いなんて、一度も思ったことないよ」
「……うん……うんっ……ごめん……レティ……ごめ……んっ」
「何を謝る必要があるのよ。謝るのはわた……わたし……っ」
声が震えて頷くことしかできない。
次第に彼女の肩は震えだして、ぽろぽろと彼女の目から涙がこぼれだす。
「あれ……あれあれ……」
「レティ、ごめんね……僕がやるべきことなのに……なのに任せちゃって……」
僕は震える彼女の身体を強く抱き締める。
氷みたいに冷たい身体は今の彼女の心の中を表しているみたいに思えた。
「いいの……わたしは……これでシズクと同じ目線に立ったから……」
「違うよ……! そんなの必要なかったんだ……なのに、なのに……!」
後悔ばかりが残る。失敗だらけだ。こんなはずじゃなかったのに。
彼女に引き金を引かせたこと。彼女にやらせてしまったこと。彼女に人を殺させたこと。
僕はとても後悔していて、とても悲しかった。
悔しくて悔しくて、レティと同じく涙がぽろぽろと流れていく。
ごめん、ごめんと何度も口にした。
その都度、レティは泣きながら謝らないでって言う。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで仕方なかったんだ。
嗚咽を上げ声を震わせて2人して咽び泣いた。
空にいる僕たちの声は誰にも聞こえることは無い。
声を上げ、癇癪を起こしたように泣き続けた。
泣き止むまで、僕たちはアヤカへは降りることは無かった。
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