第97話 お風呂で頭を冷やす

 シャワーから流れ続ける温水を頭に被り続けた。

 温水は僕の冷え切った身体を和らげ、荒れていた心を鎮めてくれていく。

 錯乱していた先ほどまでの自分が嘘のように落ち着きを取り戻している。ただ、胸の中のしこりは残ったまま。


(……何もしたくない。ずっとこのままでいたい。思考を停止したい)


 落ち着いても、身体は温まっても、心の中には未だ悲しい気持ちが重荷となって僕を心の底へと沈めてしまう。僕を押し込んだ分、奥に溜まっていたものが浮き上がり、涙となって僕の両目からぽつぽつとこぼれていくことを知る。

 涙を見られるのは嫌い。泣き虫になった僕は自分でも驚くほどに涙腺が緩んでしまう。

 だけど、今だけはシャワーが流してくれる。泣いていることを知っているのはこの浴槽中で、泣いている僕だけだ。全部、シャワーが隠してくれる。

 悲しい気持ちも全部流れちゃえばいいのに――……。


「……あんた、いつまでそうしているつもり?」


 と、お姉さんが浴槽の縁に頬杖をついて、呆れ気味に呟く。

 反射的にそちらに顔を向け――すぐに視線を戻す。ばっちりに決められた化粧を落としたお姉さんのむくれ顔が一瞬目に入る。すっぴんのお姉さんは化粧をしてなくても十分に魅力的だった。

 綺麗というよりも可愛らしい。あんなに派手な化粧をしなくても、こっちの方が似合っていると素直に思った。

 顔だけならずっと見ていたいけど、そうにもいかない。

 今の位置から見えるのは肩から上で、殆どはお風呂の中だとしても――彼女は今僕と同じく裸なんだから。

 だんまりを決め込んでいると、湯船の中のお湯を僕へかけてきた。


「そんなの水の無駄。どきなさい。ワタシだって髪洗いたいんだから」

「なら先に入ればよかったじゃん……」

「ばっかねえ。ずぶ濡れで震えるあんたを置いて先に入るほどワタシは鬼じゃないから」

「でも一緒に入るっておかしいよね?」

「ワタシも寒かったんだし一緒に入れば待たなくていいでしょ!」


 その理屈はおかしい。

 仮にも、いや仮じゃないけど、僕は男だし、お姉さんは女なのに、一緒に見ず知らずの他人がお風呂を共にするなんて間違って……もしかして?


「お姉さん、僕男だよ?」


 あまり自分で言いたくは無かったけれども、お姉さんは僕のことを皆と同じく女と思っているんじゃないかと心配になった。

 着ていた格好だって女子の制服だったわけだし。


「はあ、何言って……そんなの見ればわかるっつーの」


 指を指した先にはっとし、思わず手で隠す。

 もしかして、シャワーを浴びている間、ずっと見られていたのだろうか。すごい恥かしい……。


「これでも譲歩して先に身体洗わせてあげたの。でも、さっきからずーっとそのままじゃん。どうせ何もしないんだったら早くゆずれ」

「ゆずれって僕まだ何もしてない……」

「あんたがいつまでたっても出ないのが悪いんでしょう! まったく、ワタシを待たせるなんて良い身分ね! ワタシを誰だと思ってるのよ!」


 彼女は声を荒げ、先ほど以上にお湯をかけてくる。


(別にお湯を掛けなくたって……っ!)


 いつもならそんなことをされても怒らないのに、さっきから勝手な態度と言い分と、今の心境からムッと腹を立てお姉さんへと睨みつけ――


「誰だってそんなの知らな――……っ!?」


 言葉が途切れる。

 それもお姉さんは湯船の上で立ち上がっていたからだ。

 その時の勢いからお湯が飛んだんだ……なんて余計なことに頭が回る。違う、そうじゃない。


 目が釘付けになった。

 湯船から飛び出た豊満な2つの乳房がふるりと震える。色白で張りが合って、重そうなのにその形を崩すことなく湾曲を保ち、その頂点にはつんと主張する桜色のものが見えた。

 真っ白な肌はお湯に温められて仄かに赤く染まっていて、まじまじと彼女の裸体を眺めてしまう。

 抱き締めたら折れちゃいそうな細くくびれた腰。贅肉とは無縁の引き締まったお腹にぽつんとくぼんだおへそ。その下には慎ましげに生え揃った……。


「――……きれい」

「なにっ! なんか文句あるの!?」

「う、ううん! なんでもない!」


 ……つい口から出てしまった。

 怒りを露わにして僕を睨み付けるお姉さんの裸は……とても、綺麗だった。

 見蕩れそうになって、思わず顔を俯かせ、目を強く瞑る……瞑っても、彼女の裸体が鮮明に焼き付いて離れない。慌てて目を見開いた。

 顔が熱くなっているのがわかった。お湯のせいじゃない。

 胸が高鳴る。うるさい。


「……お姉さんが誰だなんて知らないよ……それに、前……」

「前~?」

「前隠してよ……」


 ちらりとなるべく下に下げないよう頑張って顔を向ける。

 お姉さんは自分の体と僕へと視線を向けた後、ははーんと意地悪そうな声を上げた。


「なあに、毛も生えてないお子様が一丁前に恥ずかしがってんのよ!」


 なっ! 気にしてることなのに!


「生え……いや! 生えて無くても僕男だし!」

「男って……ぶはっ!」


 今度は噴き出し大声を上げて笑い出す。

 お腹を押させて腰をくの字に曲げて盛大に笑う。その後、一折笑い上げると、お姉さんはもういいわと浴槽から足を上げて僕の背後に回りだした……何を!?


「いいからいいから! まったく、光栄に思いなさいよ!」

「や、だから隠してって、ちょっと!?」

「このままだと埒が明かないでしょう? それとも水洗いだけで済ませる気? ばっかじゃない。あの汚い海水浴びた髪なんて磯臭くてたまんないっつーの!」


 鏡越しにお姉さんがボトルを掴んで、僕の頭に直接シャンプー液を掛けた。

 それからはごしごしと力任せに泡立てていくんだ。そこに力加減は無く、僕の長い髪がぷちぷちといくつか千切れる音が聞こえたかと思う。

 痛い痛いと悲鳴を上げる。


「男なんでしょ!」

「痛っ、それ、と、痛い! これとじゃ、話が違、いっ!」

「はいはい」


 今度はタオルにボディーソープを染み込ませて泡立て、皮膚が剥がれるかと言うほどの馬鹿力でお姉さんは僕の身体を擦る。

 その力加減はまるで窓や壁にこびり付いた汚れを取るかのようで本っ当に痛い。

 何度も悲鳴を上げてやめてといってもお姉さんはやめてくれない。


「ん、何これ? 指輪……違う。拘束具?」

「痛っ……え?」


 そう、掴まれた左腕の先に注目する。

 あ、そういえば、左手の親指にはミヨさんに付けられた八の字の輪っかが付いたままだ。

 外そうにもぴったりと嵌っていて取れそうにない。

 自分で銀の輪っかに触ってみるも、回転はするけど関節が邪魔して抜くことは無理そうだ。絞められている皮膚の周りが赤く滲んでいて、これもまた痛い。


「外れない……どうしよう」

「何、外してほしいの? そう言う趣味じゃなくて?」

「どんな趣味……」

「SM……?」

「違うって! もうっ、勝手に付けられたの! 僕の意志じゃないし趣味でもない……外せるなら外したいよ……」

「付けられたってどんな理由から……いいわ。聞かないであげる。じゃあ抜いてあげるわ」

「抜くってこんなぴっちり嵌ってるのに?」


 と、お姉さんは僕の腕と輪っかを掴みだし、一瞬焦る。

 脳裏には先ほど受け続けていた暴力が指先に集まる気がし、ひい――と無理やり外すのかと思ったのだが、お姉さんの指が銀の輪っかをなぞる。

 途端に銀の輪っかは僅かに熱を帯びた後、液体みたいに溶けて僕の親指から外れた。こつんと、音を立てて数字の6みたいな形になったそれは床に転がった。

 こんな簡単に取れた……。


「ありがとう……って! もういいから! 本当にやめて!」


 感謝するのも束の間、またお姉さんが僕の体を洗い始める。

 前は良いって言ってるのに、背後から手を差し込んで僕の胸をごしごしと洗っていくんだ。

 本当に痛い。垢すりじゃないんだってば。泡越しに皮膚が真っ赤になっているし。

 ほんのわずかな善意からか、下半身は流石に手を出さないでくれたけど……。

 壁に設置されていたシャワーを掴んで、乱暴に僕へと振りかける。

 合図も無しに突然かけられたから目に泡が入って、これまた痛い思いをした。

 頭は痛い。皮膚も痛い。目まで痛い。

 全身痛くて本当に最悪だ。


「はい、おーわり……と、どぼーん!」

「ぎゃにゃぁぁっ!?」


 最後に、泡を流し終わるとその細い体のどこにそんな力があるのかと、お姉さんは僕を持ち上げて湯船へと投げ込む。

 一応借りている人のお風呂なのにこんなぞんざいに扱って――。


「ぶはっ! もうっ、やめてよ! お風呂壊れるよ!」


 湯船から顔を出して抗議するもどこ吹く風。


「はいはい、そん時は直しますよーだ」


 お姉さんは生返事を上げると僕が座っていた椅子に座っては、自分の身体を洗い始めた。

 そこに僕の身体を洗った時の荒々しさは無く、すばやくも丁寧なものを見せる。

 僕の時にはぎゅっぎゅって音を鳴らしていたと言うのに、自分の番では音すらしない。


(……不公平だ。自分の身体だから労わるにしても、なんだよもうっ!)


 ならそれならそれで加減してよ、と睨みつけようとして、お姉さんが手を上げ脇へとタオルを差し込んだところで……また見えてしまった胸にドギマギしてしまい、僕の声を殺してしまう。

 恥ずかし紛れに、鼻下までお湯に浸かって息を吐いた。

 ぶくぶくぶく……。


「もういいよ……」

「ん、何か言ったー?」

「別に何でも!」


 お姉さんから視線を逸らし、僕は顔を上げてお風呂に身を任せた。

 湯船に髪を浸けるのはマナー違反だとしても、纏める気力は無くそのままに。

 散らばった髪を搔き上げて、隣に座るお姉さんを視線から外しながら天井を見上げる。水滴が粒となって今か今かと落ちようとしている。

 お風呂は暖かい。

 シャワーとは違った温度は僕の隅々まで温めていく。だけど、やっぱり僕の中までは染み込むことはない。

 先ほどのお姉さんとのやり取りの合間は忘れることが出来たのに、また落ち着いちゃうと胸の奥がざわついてきてしまう。

 やっぱり、だめ。考えちゃう。


(どうしよう。これから先……)


 今はカナギさんに保護されてこうしてお風呂に入ってるけど、これから先はどうしたらいいんだろう。

 鬱憤じみた感情の昂ぶりをレティにぶつけてしまった……情けないことをした。

 これで、完全に嫌われちゃったかもしれない。そんな僕がどんな顔して戻ればいいのやら。

 はあ……憂鬱だ。最悪だ。辛い。また泣きそう。


「まーた泣いてる」

「泣いてないよ!」


 項垂れるように縁に頭を預けていると、お姉さんがまたしても隠すと言う言葉を知らない感じで、仁王立ちして僕を見下ろしていた。あと、僕はまだ泣いてないから!

 視線を逸らしていると僕の肩を掴んで前へと押し始める。


「もう1度入るから隙間あけて」

「開けろって、2人も入らないよ!」

「入る入る。ほら背を起こして」

「いや、だから――まっ、待ってよ!」


 2度目の待ったにも構わず、お姉さんは僕の背中を押し込んで空いた隙間に足を突っ込み、腰を落としてその身を滑らせる。僕の腰回りへと両足を突き出してしゃがみ、本当に無理やりお風呂に入ってきた。人数の増加でお風呂のお湯が溢れる。

 悦を含んだ溜息を背後から感じた。


「やっぱ、いいわー。ゆっくり浸かれるお風呂最高!」


 鼻歌を鳴らして気持ちよさそうに、2人も入っている狭いお風呂を堪能している。


(もう何この人。やだ……)


 別の意味で泣きそうになりながら、背筋を伸ばしお姉さんに触れないように頑張っていたのに「肩まで浸かれ!」と僕の首に両腕を絡めて抱き寄せてくるんだ。

 背中にふにゅりとした柔らかな感触が生で伝わる。


(わ、わわ! 触れてる触れて――)

「――で、こんな冬場に海に飛び込んで、頭は冷えたの?」

「……っ!」


 その声に、どぎまぎとしていた心情はまるで冷や水をかけられたみたいに鎮火していく。


(…………ああ)


 緊張していたものが消え去る。張っていた肩の力が抜ける。胸の奥で1つ、深く鐘を打ち、冷えていく。

 もうどうにでもなれ。

 僕は抵抗をやめて彼女に身を任せた。


「…………冷えたよ。そりゃあもう凍え死ぬかと思うほどにね」

「そっか、そりゃよかったね」

「よくない……」


 だけど。


「けど……けど……けてくれて……」

「なに?」

「助けてくれて……っ……!」


 ぐっと目を強く瞑って大きな声で言い放つ。


「助けてくれてありがとうっ!」

「どもども、どういたしましてー」


 助けてもらったことには感謝している。

 自分でもあんな無茶な真似をして、正直なところ反省はしているんだ。

 海に飛び込む前後の記憶は……おぼろげながらにある。

 あの時の僕はあそこにいたくなくて、皆から逃げたくて走って、走ったその先が海だった。

 海に入ったのは進行方向に海があったためだった。今思えば空を飛べばよかったのに……あ、でも、飛行距離の問題で結局のところは海に落ちてたか。

 そういえば、海で助けてもらったことといい、今の銀の輪っかを外してもらった時といい、この人も魔法が使えるだよね?


「ええ、使えるわ」

「学園の生徒? もしくは卒業生?」

「ううん、学園とは無関係。むしろ敵対関係と言ってもいい」

「敵対関係……?」

「気にしないで。特に意味は無いから」


 気にしないでってなら余計なこと言わなきゃいいのに。


(学園が大らかなのか、それともこの人が敵地? に大胆と足を踏み入れる図太い神経をしているから……いや、そもそも、この人と初めて会ったのは白い少女が現れた時。この人が学園にいた理由は白い少女と関係が――)

「その話はいいわ。というか、あの“女王様”の言葉に滅入ってるんだろうけど、それにしっちゃあ自暴自棄になりすぎじゃない?」

「う……反省してる……」


 女王様ってあの白い少女のことだよね。

 確かに、それもあるけど、それ以外にもあるんだ。

 きっかけはミヨさんが作ったけど、だけどそれは些細なことでしかない。

 一番はレティ。

 彼女のことだ。


(僕は、レティを怖がらせちゃった……)


 レティの強張らせた表情が頭から消えない。僕が怖いかという返答に言葉が詰まった時の、レティの顔が消えない。

 その表情から得た回答に、自分が酷く醜いものしか思えなくなった。

 寒空の下、声を荒げている時からどうしようもなく惨めで――消えていなくなりたかった。

 レティに嫌われるのが嫌で、怖がられるのが嫌で。でも、嫌われて怖がられて。

 そのことを認めなきゃいけないのに、認めたくなくて。だから……僕は彼女の元から逃げるしかなかった。

 醜い自分がレティのもとにいてはいけない。

 走っている間、増大する感情に塗り潰されて前が見えておらず、そして、気が付けば海の中、だったと思う。

 ……1つ、聞いてみた。


「お姉さんは、僕のこと怖くないの?」

「ん? 可愛いと思っても別に怖いとは思わないけど……どして?」


 可愛いって……。

 男としての威厳は僕にはもう備わっていないのだろうか。

 指摘して会話を脱線させるのも億劫だし……もういいと割り切って続ける。


「だって、僕……人を殺してるんだよ」


 あの時の反応、みんなが僕に向けた視線はとても悲しいものだった。

 僕が人を殺したことを知った大人たち。レティは……前から知っていたはず、だけど……やっぱり、改めて指摘されて、僕を見た時の痛々しい視線が記憶の奥に残っている。

 僕は前を向いたままお姉さんの言葉を待った。

 お姉さんは一度唸り声を上げて、


「……致命傷を受けた仲間から頼まれて介錯してあげたことがある」


 と、言う。


「え?」


 お姉さんの話は続く。


「いい気持ちで酔った帰り道、女の子に暴行をしていた男たちに腹立って槍で串刺しにした。でも、手元が狂ってその子も巻き添えにした。たまたま標的が潜んでいたと思わしき民家に巨大な岩を落とした。民家にはその標的とは関係ない元住民の死体を発見した。先陣切って特攻してきた馬鹿を火あぶりして躍らせた。断末魔は喧騒に紛れて――」

「何の話をしているの?」

「何って、ワタシが今まで殺した人。他にもたくさんあるよ。ある時には村1つ火の海に変えたこともある。その中でワタシが狙っていた対象は5人だったけど、その村の住民100人ほどが死んだかな」

「嘘でしょ?」


 思わず振り向くと、そこにはにんまりと悪戯を成功させた子供みたいな笑みを浮かべるお姉さんの顔があった。 


「――なんて、ホントかどうかわからない話を聞かされて、君はワタシのこと怖いと思う?」


 僕は、ふるふると首を振る。

 怖いと言うか、信じられないってことの方が大きいけど。

 リコの反応はめっきりと無いけど、僕の身体の中にいるリコの感情を借りたとしても、そんな話を聞かされても僕は怖いとは思っていない……。


「ちなみにホントの話。大袈裟なものは半世紀も前のことだけどね」

「半世紀って、お姉さんいくつ?」


 半世紀ってつまり50年前ってことでしょ。程度にもよるけど、おばさんかおばあさんだよ。

 でも、お姉さんは若くて、見た目17か18って位だと思うんだけど……。


「んー……あいつらと知り合ったのが20世紀初頭だから、100歳前後かな?」


 おばあさんだ。


「またまた?」

「またまた、ってあんたが言う? あんたはあんたで30前後の年月を生きてんじゃないの?」

「う……」


 そうでした。

 僕は三十路手前のおじさんと呼ばれて良い歳だ。人のことは言えない。


 それからお姉さんは自分のことを稀代の大魔法使いだと自称した。

 魔法を学んでいく過程で、老化が止まり、以来ずっとこのままの姿だと言う。

 「年食ってる分、こんな可愛いナリしたあんたを男として見るっていうのが無茶な話。男として見てたら一緒に風呂なんて入るわけないじゃん」とのこと。

 それはそれでショックだ。


「で、どうよ? 怖い?」

「わからない。でも、今の僕はお姉さんのこと怖いとは思わない」


 実際に人を殺した場面を見ていないからかもしれない。

 お姉さんのことを全然知らないからかもしれない。

 僕が知っているのは今のお姉さんだけ。口が悪くてガサツで馬鹿力で図々しい――今のお姉さんを怖いと思うことは無い。


「そんなもんだって。怖い怖くないなんて些細なこと。ワタシの昔話を知ってるのに、ワタシに着いてきてくれる仲間がいるもん。それ以上に離れていった人間も多いけどね。用は心の持ち様――ねえ、あの青髪の子はあんたを怖がったの?」

「……うん」

「本当に?」


 本当って……。

 あの態度を見れば誰だってそう思うはずだ。


「……言い方を変えるわ。レティはシズクを怖いって言ったの?」

「それは……」


 言ってない。

 けど本人を前にして「怖い」だなんて直接言える人なんてそんなにいるもの?

 口を濁した僕へと大きな溜め息をついてくる。


「自暴自棄から勝手に解釈してない?」

「そんなこと言っても……じゃあ、なんでレティは言ってくれなかったの……そしたら僕は……」


 こつん、と僕の頭を叩いた。

 痛くは無い。


「あんた全然彼女の話に耳を貸そうとして無かったじゃん!」

「……」


 確かにそうだ……。

 けど、それ……なんで知ってるの?


「もう、ほんと見てられなかったわ! こんな馬鹿なんてほっとけばいいのに! レティは最後まであんたを――」

「待って……見てた? 見てたの?」

「……あ」


 お姉さんがしまった、とばかりに顔を曇らせ、直ぐに眉を吊り上げて僕を睨み付ける。


「あーあーもうっ! 見てたわよ! あんたのなっさけない喚き散らす姿をずっと“空”でね! ……その話はいいの! それ以上追及するな! あんたはちゃんとレティに最後まで話を聞いてきなって! いい!? 返事は!?」

「は、はい! わ、わかった!」


 勢いにやられて素直に返事をしてしまった。

 もしかしたら、海で溺れていたところを助けてくれたのもずっと見ててくれたからなのかな。

 デバガメしていたことを含め、詳しい話は聞けそうにないけど……。


(お姉さんに言われた通り、僕は勝手に勘違いしてたのかな……)


 でも、やっぱり尻込んでしまう。

 言いたいことだけ言って逃げた僕に、改めてレティと向き合う資格はあるのだろうか。

 

「ねえ、僕は……レティのところに戻ってもいいのかな?」


 お姉さんは直ぐに返事をしてくれなかった。

 代わりに僕を後ろから強く抱きしめてくる。痛いくらいに。

 ちょっとの間があった。その間、僕たちはずっと無言。

 ぴちょんと天上の水滴が落ちる音がして、それからお姉さんが口を開く。

 

「それを決めるのはあんた自身だよ」

「僕が決めていいのかな……」


 僕が戻りたいって、レティに会いたいって思っても、いいのかな。

 本人を前にして聞くのは、ちょっと“怖い”けど。

 だけど、お姉さんの言葉は押し込められていた僕の心を引っ張り上げてくれる。

 ありがとう……その言葉を伝えることが出来ればどんなに良かったんだろうけど、気恥ずかしさから僕は言えない。


「……ねえ、お姉さん」

「ん? なに?」

「化粧しない方が綺麗だよ」


 逆に照れ隠しでついそんな言葉が出てしまった。

 誤魔化して、お姉さんがむくれて何か反論してくるのを期待したんだ。


「そ、そう? ……ん、考えとく」

「……う、うん」


 しおらしい返答に言葉が詰まった。

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