第96話 怖くないよ

「……――なさい。いつも活発なリコちゃんのしおらしい姿を見ちゃったら、私、我慢できなくて」


 意識を朦朧とさせながら、僕はミヨさんに抱きかかえられ、ベッドの上で横になっていた。

 ミヨさんの手が僕の髪を撫でる。束ねた髪はミヨさんによって解かれていて、そのうちの一房が僕の頬をくすぐる。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 口では何度も謝って、申し訳なさそうな顔をしてミヨさんは僕の髪を撫でていく。

 先ほどと違って今度ははっきりと彼女の声が聞こえた。

 僕は少しだけ顔を上げてミヨさんを見た。視線が合うと、彼女の目がはっと見開かれる。


「り、リコちゃん。どうして、なんで? なんで意識があるの!?」

「……」


 声を出すほどの力は僕には無かった。起こす気にならない。

 ただ、じっとミヨさんを力のない眼で見つめる。


「そんな、分量を間違えた……いえ、そんなはず……あ! ごめんなさい。リコちゃん! 私、我慢できなくてつい紅茶の中に睡眠薬を……」


 そう、声を震わせて謝罪を口にするミヨさん。


「私学園の友達から薬を別けてもらってそれで試しに使ってみたくてそれでもうすぐ冬休みで当分2人に会えないからってもしかしたら使えるチャンスが来るかもってそれでリコちゃんが私の部屋に来たからつい離したくなくてそのああもう何話してるんだろう。その、ごめんなさい!」


 謝ってるのに、彼女は一向に僕の身体を離そうとはしない。


 何を我慢できなかったんだろう。

 何を我慢しきれなかったんだろう。

 僕も我慢すればよかったのかな。


 また次々と謝罪と言い訳を口にしながら、彼女の手は僕の頬を触っては首を伝い、制服越しに胸、脇へと這う。

 ミヨさんの手つきはワタリさんの触診とは違った恐る恐るといった怯えたものだ。ちょっとくすぐったい。


「リコちゃん…………その、ごめんなさい。私、私もう、もう――」


 その言葉の後、そっと目を閉じて僕の顔へと近づいてくる。

 でも……。


「リコ……ちゃん」


 僅かに視線を。顔を出来る限り、傾ける。

 その先は嫌だった。

 拒んだことで、ミヨさんの行動は寸で止まった。

 その距離は、唇と唇が触れるかどうかという本当に近いもの。

 薄らと目を開けたミヨさんの顔が悲しそうに歪む。


「……いいの。わかってる」

(何がわかったの?)


 でも、その言葉は僕の口からは出ない。

 ミヨさんは第一分校の藍色のブレザーを脱ぎ、首元のリボンを解いた。白のブラウスのボタンをゆっくりと外し、ピンクの下着を露わにして僕の上に跨る。

 水玉のブラジャーは年上のミヨさんには不釣り合いな子供っぽいデザインだけど、とても可愛い……そんなことを思う。

 まじまじと見つめている僕の視線から逃れるみたいに、首元にそっと自分の顔を押し付けてきた。


「ああ……リコちゃんの匂いだ……」


 すんすん、と鼻を鳴らし僕の首周りを何度も往復する。くすぐったい。

 それから……ひやりとした何かが首筋を這う。

 何度も、何度も。

 繰り返される行為と、次第に粘着性のある音が耳に届き、また僕の首に水気のあるものが流れていく。

 首筋に這うものが舌だと気が付いたのは少し後のことで、気が付いた後は舐められたところがやけに熱く感じてしまう。


「リコちゃん……リコちゃん……リコちゃん……っ!」


 僕とは違う別の名前を口にして、僕の首元を楽しんでいる。

 まるでアイスを舐めているかのよう、なんて少しおかしくて口元を緩ませた。

 それと同時に、申し訳ない気持ちが湧いてくる。


 ごめんね、と。

 僕はリコじゃないんだ、と。


「……私ね。初めて2人を見た時、すごい感動したの」


 顔を上げるミヨさんが満足げに笑いかけて口を開いた。

 その後、また僕の首元に顔を埋め、僕の胸に体重をかけてミヨさんが話を続ける。


「たまたま友達に誘われて教員の実技試験を見にいったの。そこで……貴方たちが突然現れて……私、驚いた」

「……技試……験?」

「ええ、友達が見に行ってみたいって……私は興味なかったけど、友達付き合いって大切じゃない? だから、渋々付き合って……」


 またぺろりと僕の首筋を舐める。


「……目も開けられないほどまばゆい光の中、何が起こったのかもわからなくて……でも、そこで泣き出したフルオリフィアさんがね、幻想的で……素敵だった。あんな綺麗な女の子が、とても綺麗に泣くの。リコちゃんは彼女の泣いた顔、見たことある?」


 レティが泣くところ。

 この世界に来る前にレティが泣くところは見たことがある。

 我慢して我慢して、それでも涙が止まらない、止めようとして精一杯耐えているレティの顔が思い浮かぶ。


 綺麗だなんて思う暇もなかった。

 けど、レティの涙は止めたいと思った。泣いている顔はレティには似合わないと直ぐに思ったからだ。


「……うん」

「そう。やっぱり、あなたの前ならフルオリフィアさんはいろんな表情を浮かべるのね。それだけフルオリフィアさんがあなたに心を許しているってことだけど」


 レティが、僕に?


(そんな、ことはない……けど、そうだったら嬉しい……)


 でも、違うんだ。

 きっと、レティと僕は同じ遭遇だから。ただ、それだけの関係。だから、他の人よりも距離が近いだけなんだ。


「でも、いいの。……そんな2人が好き。リコちゃんと一緒にいるフルオリフィアさんが好き。フルオリフィアさんの隣にいるリコちゃんが好き。そして、私はいつしか2人を眼で追い始めて……最初は興味本位で、次第にのめり込んじゃって……2人を見ていれば見ているほど知りたくなって、歯止めが効かなくなった。自分でも今もこうしているのが不思議なくらい」


 顔を上げて見つめ合う。とろんとしたミヨさんの瞳には涙が滲む。


「私、フルオリフィアさんも、リコちゃんのことも、もっと知りたい。だから……」


 ……彼女がまた、僕の首元へと顔を寄せた。

 舌はナメクジのように這い、首の付け根あたりに止まる。


「リコちゃんのこと、教えて……」


 そう呟き、同時に鈍い痛みを感じた、時だった。


「……っ……なに、した……っ!」


 擦れたかのような小さな痛み。

 それが僕の中へと大きく広がり、一瞬にして目の前に様々な映像が目に浮かぶ。

 知っている。

 その覚えのある鈍い痛みは、もう10年近く前の、思い出したくもない過去の痛みだ。


「ねえ、教えて。私に2人のことを――」


 ミヨさんが蕩けた様な笑みを見せながら微笑む。

 女の子が見せるにはあまりに猥らなその笑みに、僕は……!


「あ……ああ……っ……ああ……あああああああっ!」

「……え? ちょっと、リコちゃ――」





 晩御飯の時間になってもシズクは一向に帰ってこない。

 まだ学校に残っているのだろうか。心配になってきた。


「シズク遅いね。大丈夫かな……?」

「みゅう……」


 彼の帰宅を一緒に待っていたリコちゃんも項垂れながら細い声を上げる。

 少し元気がない。リコちゃんの身体を繕っている魔力が足りないのかもしれない。

 今回はいつもより外に出ている時間が長い。

 今、リコちゃんが身体に戻らないのはシズクのことを思ってのことだろうか。


「はあ……」


 ため息を吐いて、あの時のことを思い出す。

 リコちゃんが身体の中に戻った時のシズクのあの怯えぶりは、見ていられないものだった。


「わたし、シズクのこと庇ってあげられなかった……」

「みゅう……」


 あんなに弱っていたのに、わたしはあの異様な雰囲気に飲み込まれてただ抱きしめてあげる他に出来なかった。


「……はあ」


 もう何度目になる溜息が漏れる。

 なんで一緒にいてあげられなかったんだろう。

 その時のわたしは、きっと自分みたいに1人になりたかったんだとか、直ぐに帰ってくるって思って……思いたくて、結局1人で、途中合流したリコちゃんと一緒に寮に戻ってきたんだけれども……。


 リコちゃんはさっきから何度も壁と扉を見ての繰り返しだ。

 リコちゃんもシズクのことを心配しているんだろう。


「どこにいるんだろうね……連絡も寄こさないで……」

「……みゅう……っ……みゅう!」

「ん、リコちゃんどうしたの?」

「みゅーみゅう!!」

「もしかして、シズクの居場所がわかるの?」

「みゅうみゅう!」


 こくこくと何度も縦に頷き、またふりふりと首を横に振る。物凄い慌て振りだ。


(……イエスとノーってことはわかるけど、それは……どっち?)


 くそう、わたしにも2人みたいにリコちゃんの声1つで会話が出来ればいいんだけど、如何せんそんなスキルは持っていない。

 シズクが言うには声の感じで何か言いたいかは大方わかるらしい。らしいって何よ。わたしにはわからないからそれが本当かどうかわからないわ。


「あ、リコちゃん!」


 リコちゃんが飛び出してドアノブへと跳ねる。


「外に出たいの?」

「みゅう!」

「うーん、わかった。そうね。シズク、探しに行きましょうか」

「みゅうみゅう!!」


 わたしはよし、と意気込み、決心を新たにリコちゃんと部屋を出た――……ところで奥の方の部屋から豪快な音を立てて扉を開けられた――え?


「きゃっ! な、なに――!?」


 開かれた扉の先、黒い何かが転がり飛び出してきた。

 つい、驚き身構えつつ――直ぐに目を見開いてしまう。

 だって、そこには探し求めていた彼の姿があったのだから。


「シズク!」

「……ルっ……レティ」


 髪を垂らし制服を乱したシズクがいた。

 顔は真っ白で息は荒く、地面に這いつくばって呼吸を繰り返す。

 ほどけた髪がシズクの顔を遮って、房の間から覗く黒い眼は物凄い見開かれている。

 シズク、帰ってきてたんだ、とか、どうしてその部屋から、とか、どうでもよくて、わたしは一目散に彼へと駆け寄った。


「どうしたの!?」


 と、彼の肩に触れた時、彼の身体からは甘い香りが漂ってきた。 


「何この臭い……それに……ちょっと、シズク! その指どうしたの!? 血が……怪我してる!」

「……え?」


 指摘すると、まるで今気が付いたのかと自分の親指を見て目を開く……「痛っ」と悲鳴を上げた。

 皮がむけたのか、たらりたらりと床にシズクの血がこぼれていく。

 わたしは急いでシズクの右手を手に取り治癒魔法をかける。直ぐに血は止まり、失った皮膚は戻る。僅かに爪が欠けていて、それだけは直らなかったけど……。


「もう、心配させないで……って、なにこれ?」


 反対の左の親指には八の字をした金属のものが付いている。

 シズクの指に合わせたみたいにがっちりとはまっていて、左手の親指も赤くなり、血が滲んでいた。


「リコちゃん! 待って!」

「ミヨさ……っ!?」


 悲鳴にも似た上ずった声を上げて、続くように部屋から出てきた知り合いを見て思わず絶句してしまう。

 そこには下着姿の半裸のミヨさんがいて、わたしを見るなり彼女は本当に驚いたような顔をする。いつもの長いツインテールの片方が半分ほど無くなって、頬は赤く3本の蚯蚓腫れが出来ていた。


「……いやっ」


 シズクは彼女の姿を見るなり、顔を歪ませて玄関へと走っていった。

 唖然としながらも、出てきた部屋とシズク。そして、下着姿のミヨさんを見て……。


「あなた……シズクに何をしたの!?」

「ふ、フルオリフィアさん……」


 わたしは頭の中が真っ白になりかけながら、声を荒げてしまう。


「どういうこと!? なんでシズクがあなたの部屋から出てあんな顔してるのよ!?」

「わ、私にもわかんない……でも、リコちゃん……突然苦しみだして、約束したのにって約束と違うって……何度も呟いて……っ!」

「訳わかんない! ちゃんと話しなさいよ!」

「わかんない! 私だってわかんないわよ! どうしてっ!? どうして、私を拒んだの!? 私はただリコちゃんを知りたかっただけなのに!」


 半狂乱とヒステリック気味に泣き叫ぶ彼女にはもうそれ以上会話を続けられる状況じゃない。

 次第に寮生がどうしたと現れたので、その人たちに彼女のことを任せてわたしはシズクの後を追うことにした。


「シズク……どこ……シズク!」


 1階に降りて、疲れ顔のエプロン姿のサイトウさんとすれ違って、声を掛けられたけど返事を反す間もなくて、靴も履かずに裸足のまま外に出て……。


 玄関を出た矢先に、追いかけようとしていたそいつはこちらに背を向けて空を見上げていた。

 風が黒くて長い髪を吹き付けている。


「シズクっ!」


 名を叫び。駆け寄り。手を伸ばし。


「……っ……来ないで!」


 寸でで彼の拒絶の叫びが吹きつけられる。

 振り向いた彼の目には涙に濡れていた。


「ねえ、レティ……」


 声を、震わせて、わたしに訊ねる。


「僕は人殺しなんだよ。そんな奴と一緒にいて怖くないの?」

(……シズクを怖がる?)


 そんなこと、思ったことはない。


「…………」


 けれど、わたしは「怖くない」と言えなかった。その時、直ぐに「怖くない」と言えればよかった。

 でも、彼の悲しそうな目を見て、わたしの言葉は封じられてしまったんだ。

 それが最後の後押しになったのかはわからない。けど、遅い。そのほんの僅かな間がシズクへの回答と思われてしまった。

 泣き顔のまま、シズクが下手くそに、一見して辛そうに、無理してるのがわかるのに笑うんだ。


「……レティ、やっぱり僕のこと怖がってたの?」

「シズク、違う。わたしは――」

「ううん、もういい。僕ね……ミヨさん傷つけちゃった」

「お願い、聞いて――」


 シズクはわたしの話を聞こうとしない。

 それどころか、わたしへと顔を向けず、自分の右手を見つめる。その右手は震えていた。


「あと少し気が付くのが遅れたら……殺しちゃってた」

「殺すって」

「……ねえ、こんな僕がレティの近くに居ていいの? レティは僕のこと怖くないの!? 嫌だ……嫌だよ! レティに怖がられるなんて僕は嫌だ! なんで、どうして! 僕は自分の気持ちすらわからない! わかんない、わかんないよっ……僕もうどうしたらいいのかわかんないよ!」

「シズク! 待って! ねえ、待っ――」


 取り乱したシズクは、わたしの顔を一度たりとも見ることは無い。

 また背を向けて走り去って、夜光の奥へと消え、その後をリコちゃんが負う。

 けれど、わたしは……彼の後を追うことは出来なかった。

 伸ばした腕は力なく項垂れ、掴むはずだったこの手は解けて無力にも宙を握る他にない。


(……シズクが去っていった。いなくなった。わたし、置いていかれた……?)


 少ししてからその事実を受け入れたことで、胸の奥で締め付けられていく。


(シズク……シズク……わたしは……)


「怖くないよ……わたし、シズクのこと……怖くないよ……」


 この言葉がすぐに出たら彼は留まってくれたのだろうか。

 もう、何もかも遅い。

 シズクはそこにはない。この言葉を聞いているのは自分自身だけ。もう見えない。

 胸の奥で生まれた嫌な気持ちは、わたしの目の奥を熱くする。


「シズク……わたし……怖くないから……」


 目の前は滲んで何も見えない。





 さざ波の音が聞こえる。

 同時に、人の声も聞こえてきた。内からと外から。外からは罵詈騒音に近いもので、内からは心配そうに語り掛けてくる。

 目を覚ますと、僕は薄暗い見覚えのない場所にいた。


 片方を見れば深い黒……海に星の様な光が転々と見える。

 もう片方を見れば何やら丘のようで……それが堤防であることに気が付くには少し時間がかかった。


『シズク! よかった!』

「な……リゴ……?」

『心配した! もう安心! じゃ、リコは先に寝るから!』

「ちょ、っリゴ……っ……はっくしょん!」


 大きなくしゃみが漏れた。鼻水が出そうになる。

 リコは『おやすみ』と頭の中で挨拶をして、それ以上話すことは無かった。

 ぐっしょりと濡れた制服は重く、肌に引っ付いたスカートが気持ち悪い。

 身体は震えが止まらず、がたがたと震えだす。歯も何度もぶつかり合い音を鳴らす。


「やぁっと、気が付いた。どう、もう冷静? まったく、海に飛び込むから頭でもおかしくなったのかと心配したじゃん」

「……なたは……」


 向けられた声へと顔を上げると、そこには黒い長髪の綺麗なお姉さんがいた。

 見覚えはある。あの白い少女の隣にいた人だ。

 お姉さんは深く化粧の施された顔を近づけて僕を睨み付ける。


「感謝しなさいよ。ワタシが助けなかったら今頃あんた水死体よ。もう、さんざんだわ。おかげでワタシまで濡れちゃったじゃない」


 ほら、って見せてきた両手の指先が僅かに濡れている。でも、それだけ。

 昼間にも見た薄いワンピースはどこも濡れているようには見えなかった。


「……どじで僕、ごこに?」

「ワタシがここまで運んだの。海の中で溺れてるあんたを助けても、帰りたくない帰りたくないって、仕方ないから海越えてアヤカの外まで運んでやったんじゃない。まさか、覚えてないの?」

「全然……あ……」


 あー……はっきりと覚えている。言われて思い出した。

 自暴自棄になって、走って走って……気が付いたら海に飛び込んでいたんだ。

 そうだ。それで、海で前々へと進んで(溺れて、かな)いたら空から人の声がかけられたのも思い出した。

 あの時は自分で作りだした声だと思ってずっと拒否してたんだけど……その声はお姉さんのだったのか。


(我ながらどうしてこんな真似をしたのかさっぱりだ……)


 こんな真冬に海に飛び込むなんて……なんて馬鹿なことをしているんだろう。


「……ええっど、助っげでくれ、でありがどう、ございます」


 震えながらも頭を下げる。震えた唇はたどたどしいものが出た。


「ふん……まあいいわ。こんなことになったのもワタシにも責任あるし……ん? 誰か来た」

「え、だ誰が……?」


 お姉さんが話の途中で顔を横に向け、僕もつられてそちらを向く。

 かさかさと草を踏み分けてくる音が聞こえてくる。音は2つ。

 音の先には黒い人影が2つにじり寄ってきていた。


 次第に、距離は縮まってきて、身構えるも……身体はがたがたに震えてしまって傍から見たらきっと前のめりに震えている変な人だ。止めたいけど止められない。

 もしかして、警察? 自業自得だとは言え、ここで補導されるのはごめんだ。


「にげ、逃げる?」

「逃げる? どうしてワタシがそんな真似しないといけないの?」

「ええっ……へ、へ、へっくしょんっ!」

「わ、汚っ!」


 僕のくしゃみに草の踏み分ける音が止む。……鼻をすすった。


「誰かいるの?」

「いるわよ。冬のトーキョー湾に飛び込んだずぶ濡れの馬鹿と、その命の恩人である絶世の美女がね」


 尋ねられた声にお姉さんが高らかに宣言をする。

 ずぶ濡れの馬鹿って……確かに自分でも馬鹿だなぁって思うけれども。そして、自分のことを絶世の美女って言えるその自信はどこから……確かにすごい綺麗な人だけども。

 人影はお姉さんの声に反応して足を速めてきた。


(もう駄目だ。捕まる……!)


 これまでか――と何かをする暇も許さないほどに人影は近づいて……その風貌が露わになった時、僕はぽかんと口を開けてしまった。

 意外な人だった。


「か、カナギざん!?」

「あれ、もしかして……シズクくん!?」


 防寒着に身を包んだカナギさんがそこにいたんだ。

 隣には色違いの防寒着を身に付けた男の人もいるけど、その人には見覚えはない。

 男の人は怪しげに僕らを見渡し、カナギさんを庇うかのように身体半分を遮り前に出る――けれど、カナギさんは男の人の身体を押し退けて僕へと近寄ってきた。


「久しぶりに“感知”したから来てみたけど、まさかシズクくんだなんて……って! あなた本当にびしょ濡れじゃない!? こんな真冬に水遊びなんて、何馬鹿なことしてるの! 病気になっちゃうじゃない! もうっ、こんなに震えて……早くうちに来なさい!」

「この子がユウコさんの言ってたシズク君? 男の子だって聞いてたけど……というか、なんでこんな夜遅くにこんな場所に……」

「そうよ! 彼がシズクくん! 女子の制服を着てる理由なんて深く聞いちゃだめよ! って、もうトオルさん先に帰ってお風呂湧かして! 早く!」

「でも、ユウコさんを1人置いていくわけには……今だってこんな寒空に身重のユウコさんを外に出したくなかった――」

「いいから! さっさと行って! シズクくんが死んじゃう!」

「……了解」


 トオルさんと呼ばれた男の人は、何度もこちらを振り返り、心配そうな顔をしながら、来た道を戻っていった。

 よし、と息巻いてカナギさんは僕を睨み付け「君を怒るのは後にします!」と視線をお姉さんへと向けた。


「あなた、シズクくんのお姉さん?」

「え……っと、あー、んー……ま、あ……そうね」

「い……やっちが――」


 いいや、違うでしょう?

 けど、訂正する間もなくユウコさんが僕よりも先に怒声を上げる。


「もう! お姉さんならちゃんと弟くんのこと見てあげないと!」

「あ、ええ、はい……――スミマセン」

「もう、いいわ! 2人とも早くうちに来なさい! すぐそこだから! お姉さんも女の子なんだからそんな薄着で外に出ない! ほら、直ぐにお風呂入らないと!」


 ――なんて、僕はカナギさんに肩を支えられながら家へと案内されていった。

 横を歩くお姉さんが「ワタシ関係ない……わけじゃないけど……もういいわ……」と不満そうに呟いていた。




 家に着くまでの間、自分が濡れることを気にせずにカナギさんは僕の肩を抱いてくれていた。

 悪いと思いながらも今の寒さで体力を奪われた身体は拒むことはできない。


 ただ、この場で不謹慎かもしれないけど、カナギさんから伝わる体温は、ミヨさんとはまた違った温かさを僕にくれたんだ。

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