第70話 お別れ

 人の持つ感情の1つ。恐怖。

 今もわたしの内と外を包み込んでいるもの。

 イルノートはシズクにはその感情が無いと言う。


「怖いだなんて……戦うことに怯えてたら戦えないじゃないか!」

「そういう話ではない。お前は日常に置いても怖がるような素振りを一度たりとも見せなかった。それが異常なことだとは思わなかったのか?」

「そんなのっ……言われたって、覚えてない。わからないよ……」

「わからない、か」


 イルノートの色の無い顔に、またも哀の感情が覗かせたのは私の気のせいじゃないと思う。

 けれど、直ぐに彼はウリウリに似た無表情を取り繕い、背筋が凍るような眼差しをシズクへと向ける。


「それもまた、以前のお前は当然だったのか?」

「そんなことないよ……。前は怯えてばかり……最後なんて怖くて怖くて仕方なかった」

「なら何故? 今のお前にはその弱さがない?」

「だから……そんなの……知らないったら! さっきからうるさいんだよ!」


 まるで吠えるようにシズクは言い返す。


「イルノートの言う通りさ! 僕はこの世界に来て一度だって怖かったことなんてない! 初めて魔物を狩った時だって、旅先で賊に襲われた時だって……イルノートに初めて助けてもらったあの時だって僕は怖くなかった! 恐怖なんて微塵も感じたことなんてない!」


 そう怒鳴り散らすシズクに対して、イルノートは盛大な溜め息をつく。


「……お前は、生命が生きる上で一番大切な感情を置いてきてしまったんだな……」

「何をっ……恐怖なんて無い方が良いじゃないか! 竦んでばかりじゃ前に行けない!」

「先に進むことだけが正しいとは限らない。恐れがあるからこそ、時には立ち止まることも必要なんだ」

「そんなことはない! 立ち止まった結果がこの世界ここにいる僕だ! だからこそ、いらない! そんなもの、そんなものがあったから僕はっ、僕はっ……大切な人を失った!」


 大切な人……そう、ぽつりとわたしは口ずさんでしまう。


(シズクも同じだったのかな。ここに来る前に大事な人とお別れしちゃったのかな……)


 シズクの悲痛な訴えに、これ以上は無駄だとばかりにイルノートは首を振った。


「……お前の過去に何が合ったかは知らんが、立ち止まらなかったことでこの結果を生み出した。そう言っても今のお前にはわからないのだろうな」


 また、目を閉じてから、おもむろにわたしへと視線を向けてきた。

 濁った、光の射さない眼にわたしは射抜かれる。けれど、その眼差しの奥には……いや、気のせいだと思うのに、慈愛に満ちたものを感じ取ってしまったんだ。


「……」

「……」


 どう言う思惑を懐いているのかも定かでないまま、イルノートは直ぐに目を逸らし、おもむろに口を開いた。


「……今朝、初めて彼女を見た時、私は酷く狼狽えてしまった。ルイと瓜二つなその容姿。そして、ブランザの娘であること……これからの娘を手にかける。正直に言えば吐き気すらこみ上げてきた」

「フォロカミ何を言っている? こいつがフルオリフィア様の娘だと? フルオリフィア様のご息女はルイ・フルオリフィア様ただ1人だけだ!」

「ははっ……そう、だったな。ブランザにはルイという一人娘だけ。お前にはそうんだったな……」


 自傷気味に鼻で笑い、小さく首を振る。


「私には……ランの面影をちらつかせるルイは眩し過ぎた」


 そして、わたしともシズクとも違う他へ、ここではない遠くへとイルノートは視線を向けた。

 細められた目はとても穏やかに見えたが、この場所にはそぐわないものだった。

 ただ、わたしにはそれがとても寂しくて悲しくて、胸を締め付けられるかのように感じてしまう。


「楽しかった……ああ、楽しかったよ。シズク、ルイ、リコ……私をいつも困らせ、そして驚かせてくれる日々。長年影に隠れていた自分が信じられないくらいに日向の中でその至福を味わうことができた。……ベルフェオルゴン様も言っていたな。何よりも満たされた日々だった、と。彼らしくない。最初はそう思っていた私も今なら理解できる。そう……けれど、それも終わりとなった」

「イルノート……」


 けれど、優しそうな眼差しは彼の最後の言葉の通りここで終わり。

 シズクが呼びかけた途端、彼の彷徨っていた両目は、ぎょろりとわたしたち2人を非難するみたいに鋭く尖る。


「……何故だ? 何故、今まで言ってくれなかった! お前が異世界から来た者であると言うなら……私は……私は、絶対にこの里には行かせはしなかったっ!」


 わたしの知る沈着冷静なイルノートからは想像も出来ないほどに、最後は感情の籠った叫びを上げる。

 その声量は傍に控えていたウリウリですら竦んでしまうほどだった。ウリウリはイルノートへと怪訝そうに顔を向けている。


「僕がもっと早く……言っておけば良かったんだね。……ごめん、イルノート」

「謝るな。もう何もかも遅い……。今、私の中で酷い後悔が渦巻いている。恩師の約束を守るどころか、自分で破っているんだからな……私には、私たちには、もう後戻りするだけの道は残っていない……」


 そこからはまた2人して見つめ合い、無言が続いた。

 シズクは若干辛そうに肩を震わせている。怪我も響いているのだろう。

 出来ればすぐに治療してあげたいのに、それすらも許してくれない。許されない。

 わたしはどこまで経っても役立たずだった。

 本当に、悔しくて悔しくて。辛い。


「…………」

「…………」


 この無言が、いつまで続くのか。

 まだ数秒か10数秒程度だと言うのに、分を越えたほどの時間が経ったかのように感じる。

 その間、しびれを切らしてか、エネシーラ様たちが動き始めようとしていた。

 微かに踏む足音がきっかけかどうかは知らないけど、この沈黙を先に破ったのはシズクだった。


「……ねえ」

「……なんだ」

「もしも、もしもだけどさ。僕がここで素直に殺されればルイは守ってくれるの?」

「なっ――」


 何を馬鹿なことを!

 わたしがシズクの言葉を否定しようとした時、イルノートは髪を振り払うかのように首を振り、

 

「知らない! ルイなんてどうだっていい!」


 そう、怒鳴り散らした。


「私には! お前以外必要なかった! シズクさえ守れればそれでよかったんだ!」


 そう……彼は怒鳴り続けた。


「わかるか! お前にとってルイだけが大事だったように、私にだって大事ながあったんだ! お前を守れ! 残された私にはそのしか、もう何も残ってなかった! それが、それが、この――っ!」


 それから……彼はその場で膝を付き、手で顔を覆って大きく咆哮を上げた。

 まるで獣のように荒々しく、それでいて哀愁を含んだ叫び。咽び泣いているかのようにも見える。


「……」


 けれど、一折、息の続く限り声を出し終え、面を上げた彼の表情はまたも無表情の、そう普段のウリウリに似た能面のような顔を見せる。

 時間をかけて立ち上がり、風を吹かれた蝋の火のように身体を揺らめかせて、シズクへと足を向ける。


「もう、すべてを、おわらせる――私の、この手で……」


 砂利を踏みしめる足音は弱々しい。

 イルノートの顔には覇気は無い。なのに、短剣を握る拳は力強い。

 シズクは怪我からその場から動くことも出来ず、また呆然としたまま、成り行きを見ているようだった。

 逃げて……そう願っても彼はその場から微動だにすることも無い。

 こちらを背にしているシズクは今どんな表情をしているのだろうか。ふと、そんな疑問が頭によぎった。


「運が悪かったんだ……僕も、イルノートも……」


 背を向けるシズクが何かぼそりと呟く。

 その声は、まるで全てを諦めたかのように聞こえて……でも、わたしには何もすることは出来ない。今もこうしてリコちゃんに……あ。

 片膝をついて一向に動きを見せずに蹲るシズクの前にイルノートが立ち尽くす。

 そして、イルノートは手に持った短剣を逆手に持ち直し、大きくその手を振り上げてはシズクの頭上へと――


「みゅぅぅぅぅぅぅっ!」

「――リコ!」


 リコちゃん!

 わたしが気付いた時にはリコちゃんは高く跳躍をしてイルノートへと飛びかかっていた。

 前足をイルノートへと向けて振り落とす、と言うよりも振り払うかのように薙ぎ、イルノートもまた辛うじて後方へと避ける。

 その後もリコちゃんは唸り声を上げてイルノートへと追撃へと向かう。が、ウリウリがリコちゃんの前に立ちはだかって腕を振った。

 離れたわたしにまで届く突風がウリウリの前方から発生し、強風の直撃を受けたリコちゃんはその場で踏ん張りを見せるようにして勢いを落とす。


「……『令、続き応じよ。幽かなる言。刃となり――」


 続いてウリウリが呪文と同時に手に風を纏わせてリコの前に対峙する。

 その呪文は聞き覚えがある……いや、わたしが魔法を使えるようになってから、ウリウリに教えてもらった初めての魔法だったからこそ、直ぐに理解した。


『いいですか。この風は大切なものを守る風。他者を傷つけ殺めるためだけの魔法ではありません』


 なんて教えてもらった思い出の魔法……それが今、わたしの大切な友達へと――ウリウリは即座に手を振り落として魔法を発動させる。


「――憚る妨げを断ち切れ! 【凪断】!」

「――だめ!」


 鉄をも切断する滅風。

 そう声を上げるのと同時に不可視の刃がリコの身体に一線――


「……きゅっ!」


 ――が、リコちゃんは悲鳴にも似た呻き声を上げるだけで、その場に留まった。

 身体は……大丈夫そう!? いえ、若干地面にはぽたりぽたりと血が流れている。

 良かった……そう安堵するのも束の間。


「む……!」

「無駄だ。クレストライオンには生半可な打撃や斬撃は強靭な体毛が防いでしまう。ましてや実態の伴わない刃ではなおさらな……これ以上、手を出すな。私が全て、全てに蹴りをつける」


 ウリウリの肩を掴んで無理やり後ろに退かせ、リコちゃんと対峙する。


 「みゅ……――ガァオォォォオォォン!」


 リコちゃんは喉の奥から唸り声を上げて威嚇するも、イルノートは怯むことなく、両手を広げて呪文を唱え始める。両手に水球が生み出される。

 呪文を唱えている間に、リコちゃんがイルノートに飛びかかった。

 前足を立てて、あの大きな口を広げてイルノートへと襲いかかろうとしても――それもイルノートは簡単に避けてしまう。

 いや、その突進すら逆手に取るように、最後まで呪文を読み終えたイルノートはそっとリコちゃんの懐に忍び込み…… 


(……済まない)


 そう微かに動くイルノートの口から紡がれた謝罪の言葉と同時に、イルノートはリコちゃんのお腹に手を当てる。


 ――瞬間。リコちゃんの体には満開の花が咲いた。


 氷で出来た無数の細い棘がリコちゃんの背から飛びだした。

 わたしは……絶句しながらその様子を見ているしかできなかった……。


「あ……あ、ああ……」


 魔法の威力からか、リコちゃんの大きな身体が後方へと飛ばされ、宙に舞った。

 宙に浮いている間、まるでスローモーションのようにリコちゃんの身体を貫いた氷の花が粉々に砕け散る。

 それが赤い、ケラスの花弁のように見えた。


「あ……ああ……リコォォォオオオっ!」

「……あっ……り、リコちゃんっ!?」


 あんなにもボロボロだって言うのにシズクは足を引きずってでもリコのもとへと、わたしも同じく後に続いて、地面に転がったリコちゃんの身体に2人して触れた。

 熱い血潮がどくどくと手に溢れていく。今の一撃で、シズク以上の流血を流している。


「リコ、リコ……リコっ!」

「あ……ああ……あ……リコ、ちゃ……ん……!」


 ……いや、いやだよ! まだ出会ったばかりなのに!

 わたし達の周りにリコちゃんの命が広がっていく……!


「ああ……リコ……リコなんで……!」

「死なないで! リコちゃん! やだよ! か、回復っ回復……っ……なんでこんな時にわたしは使えないの!」


 出ないのはわかってる。でも、わたしは無駄だとしてもリコちゃんの傷口に両手をあてて治癒魔法をかけようと……なんで、なんで出ないのよ!

 シズクも同じく右手をリコちゃんに当てるのに何の反応も示さない。


「リウリアさんお願いだよ! 僕に魔法を使わせて! 僕に治癒魔法を使わせて! このままだとリコがっ、リコが死んじゃう!」

「お願いウリウリ! このままだとリコちゃんがっ、リコちゃんがぁぁぁっ!」


 役立たずのわたしに代わって今リコちゃんを救えるのはシズクだけ。だけなの!

 なのに! ウリウリは目を逸らすだけ!

 どんどん血が溢れて行く。嫌だ、とまってよ! 傷口が、血が!

 呼吸が薄い。目も閉じられている――開けて! ねえ、リコちゃん目を開けてよ!

 身体から……どんどん温度が抜けていく。

 滑った血が、暖かった噴き出す血だけが暖かくて、それから直ぐに冷えていく……。


「もう、遊びは良いだろう。……詰まらない余興だったな」

「余興……余興だと!? 私が今どんな思いでこの場にいると思って――」

「ふん、貴様のような穢れた忌子の考えていることなぞ、知りたいとも思わない。小娘一人殺せない役立たずの愚図が……」

「ふっ……ざけるなっ! 元はと言えばお前らが私に頼んできたんだろうが!」

「身を弁えろ、穢れの分際で……あの方への温情故、生かしてやっているというのに……インパ。オルファ……こいつを黙らせろ」

「……へい」

「はい」


 わたしたちの背後で大人たちの会話と何かが衝突する音と鈍い音が聞こえた。

 けど、そんなのはどうでもいい。

 今はリコちゃんが、リコちゃんが……――っ!



◎ 



 

 もう自分は助からないことはこの傷から理解している。それなのに2人はリコへと近寄りその身を抱き起してくれる。


(ああ……駄目だ。ここにいては……リコを置いて2人とも逃げろ……)


 でも、当然人の声は出ない。いつもの鳴き声だって出やしない。

 イルノートが地面に倒れる音が聞こえ、辛くても目を開ける。

 真っ白な霞む先にシズクとメレティミの泣きそうな顔が見えた。

 そして、背後のことも。2人がリコに気を取られている間に、あの老人が呪文を唱え終えた。


(2人とも……後ろを見て……)


 老人の前の大地から、雨が逆さまに振るみたいに土塊が掘り起こされ、それは大きな土玉となって宙に舞う。

 身体を振り動かして2人を追い払おう……と、したいのに全くと言っていいほど動かない。


「懺悔するがいい。この地に生まれてきてしまったその運命に」


 よく聞き取れもしない不快な言葉と同時に、老人の作り出した大きな土塊は空高く舞い上がり、自分へ、自分へと抱きしめる2人へと注がれる。


 ――逃げて。今ならまだ間に合う。


 だが、2人は動く気配はなく、けれど、2人が顔を上げたのは同時。

 気が付いていなかったのだろうか。2人の目が見開かれる。

 なんてことだ。リコのせいで2人を巻き添えにしてしまうのか。


 ……悔しい。


 まだシズクもルイも、そしてまだ出会って日も浅いメレティミとも触れ合い足りないと言うのに。

 リコならば守ってあげられると思ったのに。無様だ。こんな最後になるなんて……これが最後?


(いやだ。こんな最後はいやだ。だって、こんな2人を巻き添えにする最後なんて……!)


 誰か……! 誰か……!

 お願い。お願いだ……。

 こんな散りかけで申し訳ないがリコを犠牲にしてもいい。

 2人をどうか、助けてやってほしい。


「……みゅう」


 けれど、最後にリコがか細く発した声はにいる人には誰にも届くことは無い。


「……シズクっ!」

「レティっ!?」


 その後、リコの意識はシズクを力いっぱい突き飛ばすメレティミの姿を見たところで……暖かな安らぎを得る。けれど、それでいて背筋の凍る不安にも駆られた、矛盾した何かに包まれて――。





 なんでそうしたのかはわからない。


「……シズクっ!」


 ただ、前みたいに身体が勝手に反応しちゃった。

 落ちてきた大きな塊は確実にわたし達を押し潰すのは目に見えていたし、このまま3人死ぬより1人が助かった方が良いからって、わたしはシズクを突き飛ばした。

 ふと、あの忘れることができない悪夢が頭を過ぎる。

 偶然にも今と悪夢の内容が殆ど一致している。でも、それでいい。今はあの悪夢にすら感謝する。

 おかげであの時よりも瞬時に、そして力いっぱいシズクを弾き飛ばすことが出来たんだから。


「レティ!?」


 勝手な自己満足ではあるが、わたしはシズクに1秒でも長く生きてほしくなった。

 だってもわたしのトラブルに巻き込んでしまったために、彼は死にかけているんだ。本当に勝手だけど、これくらいはさせてもらいたい。

 もしかしたら、その1秒に奇跡が起こるかもしれないしさ。

 それでシズクが助かるなら万々歳だ。

 わたしは、今も最後も2人の足を引っ張ってしまったんだ。これくらいやらなきゃバチが当たる。


(シズク……じゃあね)


 シズクを押し飛ばした後、あの時と同じように、わたしは精一杯の笑顔を浮かべた。

 あの時も、今もわたしはうまく笑えているだろうか。

 ただ、わたしが死んでもなるべく悔やまないで安心して欲し――。


「ああああああああああああああああああああああぁぁぁぁっ!!」


 叫び。


 咆哮か。


 シズクの口から吐き出される音が耳に届いた時。

 わたしの身体は押し退けたはずのシズクに抱き留められていた。


「レティ!」

「シズ――」


 馬鹿っ! 何やってんのよ!

 その言葉は届く前にわたしたちへと――土塊が降り注がれた。


 そこで、わたしの視界は深い闇に落ちた。





 ――暗転。


 痛みは無く、身体の感覚も無い。

 だが、音だけは届く。


 暗い暗い闇の中、光源は無いと言うのに、自分の身体を感じ取れないのに、ただ、足元のぎざぎざ円盤は理解した。


 誰とも噛み合うことなくその場を弱々しく回っている歯車――わたしだ。

 メレティミ・フルオリフィアとなるはずだった歯車を押しのけたわたしの歯車だ――。


 わたしがメレティミ・フルオリフィアとして生まれてから幾日かは現状の理解に苦しんだ。

 茶や金ならまだしも、赤や青なんていうカラフルな毛髪に耳の尖った人たちはにのこの世界はいったい何? 言葉もわからない。

 そして、見知らぬ女性……お母様。ブランザ。


 ブランザに育てられ、自分が如何に大事に慈しまれているのかをこの身で知った時、ブランザにもこの子にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 本来受けるべき愛情を関係のない赤の他人であるわたしが受け取り、本来のメレティミ・フルオリフィアはいないものとして扱われてしまっているのだから。

 わたしという異物がこの2人の居場所を奪ってしまったことに何度も何度も後悔をしたんだ。


 そして、懺悔の果ての告白。

 その結果があの悲しげでそれでいて困ったような顔だった。

 本当はすっごい悩んで悔やんだんだと思う。

 ……本当にごめん。

 心から申し訳ないと思うからこそ、本当の娘としてお母様が誇れるようにすごい頑張ったんだよ。

 うん……頑張ったんだ……。


 でも……いいや。もう。終わったことだし。

 わたしのメレティミ・フルオリフィアとしての歯車の役割は終わったんだ。

 不甲斐ない娘でごめん。

 

 こうして、今わたしは落下しているのかもわからず、ただ1人でこの何もない空間を回っている。


 ……ふと、思った。


 前の世界でわたしという歯車が無くなって、あいつは……その後も1人で生きていけているのだろうか、と。

 もしかして、失意からわたしの後を追って……駄目だ!

 そんなこと考えちゃいけないって思うのに、そうだったら嬉しいって思ってる自分がいる。

 彼が生きていることを喜ばないといけないのに、彼の隣にいれないことにすごい悔やんでいる自分がいる。


 でも、これであいつがもっと自発的に、もっと自分で進んでいけるなら……。


 だって……わたしは、他者によって回されるあいつが嫌いだったから。

 他者とは基本的にわたしのことで、わたしによってあいつは回されているのだ。

 そんな、わたしに寄りかかったあいつがわたしは嫌いだったから。

 嫌いだったから……。


 ……違う。


 本当は好き。とっても好き……大好きだった。

 この気持ちには付き合う前、ううん。それ以前から気が付いていた。

 でも、きっと気のせいだって思って、思い込まないといけないって思ってた。

 関係が壊れるなんてことは言わないけど、そう……何かが変わってしまうことが怖かった。


 だから、言えなかった。

 だから、なし崩しでも恋人になれた時は本当は嬉しかった。

 だから、だからこそ……。


 本当は、大好きなあいつにわたしを回してほしかった――。



――あなたの心象世界は寂しいわね。それでいて、カチカチと耳障り。


「……誰かいるの?」


――いるわ。あなたの心の中にね。興味深いからの中から入っちゃった。


 彼? 彼って……シズクのことらしい。

 即座に彼と言うわたしの疑問に1人の少年の顔が頭に浮かぶ。つまり、これが彼ってことだそうだ。


「あ……れ?」


 と、気が付けばわたしは歯車の上に座っていることに気が付いた。

 実体だ。けれど、その身体は、メレティミ・フルオリフィアで、元々のわたしの身体ではなかった。

 ただし、若干彼女とは違う。

 そう……少しだけ、違和感を感じる。その違和感の正体はわからない。


――あなたたち2人にはやって欲しいことがあるの。


 声の持ち主の姿は見当たらない。声と言うか、音? いや、音なのかもわからない。ただ、その幼い女の声と思わしきものは、前から後ろから、はたまた下からや上から、いたるところから発生してわたしに届く。

 本当に心の中に? 馬鹿馬鹿しいとは思わない。

 この空間こそもうすでにおかしいのだから。

 することも無いこの状況にわたしは素直に答えることにした。


「やって欲しいこと? わたしたち2人?」


――そう、1人より2人の方が可能性があるでしょう。……ワタクシの願いを1つ叶えてほしいの。勿論、ただじゃないわ。代わりにあなたたち2人が望んでいることをワタクシも叶えてあげる。


「わたし……たち、が望んでいること?」


 わたしでもシズクでもなく、わたしたち2人の願いなんて……思いも付かない。


――この話を聞くかどうかはあなたたち次第。叶えてくれないなら次の駒に頼むわ。時間と代わりならうんざりするほどあるの。まあ、今はまだじっくりと考える時間が必要でしょう。これはワタクシがあなたたちに与える褒美が嘘ではないことの証明……。


「……どういうこと?」


――それはであなたが考えなさい。それからどうするかはあなたたち2人で決めて。ワタクシはただ、もううんざりなのよ。この下らない児戯も何もかも。


「児戯? 児戯って何?」


――……それに答える時間はないみたい。だから、そろそろ目を覚ましなさい。いい返答を貰えること、期待しているわ。


「待ってよ! 何がなんだかわからな――」


 と、その女の一方的な遮りと同時に、この暗い空間に閃光が広がっていく。





 視界に瞬いた閃光が眩しくて眩しくて、

 

『人だ……』

『人が現れたぞ!?』

『どうなってるの……!?』


 そこは不思議な場所だった。


 床にはわたしを……わたしとまだ気を失っているシズクを中心に、丸や三角によくわからない文字列の並んだ幾何学模様の描かれた布が敷かれている。その布の先は色とりどりの線が引かれている。

 壁には2階の方に吹き抜けになった観客席のような場所があって、幾らかの人がわたしたちを見てか、とても驚いていたり不思議そうな顔をしている。


「何……」


 彼らに引っ張られる様にして湾曲を描いた天井を見上げると、火とも魔道具とも違う違う眩い光が降り注がれている。

 あれは……何って……そんなの照明だ。人工の電気を使う巨大な電球型の照明……え?


「何……なんなの……」


 他にも、ある。

 壁にかかった編み込まれた紐がぶら下がっている四角形のボード。

 周囲を見渡せるような壇上。

 無数のパイプ椅子。

 両開きの鉄の引き戸。

 床に引かれた白のライン――。


 わたしたちの背後に、2人の男性がいることにも気が付いた。

 メガネをかけた男性と紫色の髪の男の人で、2人は抱き合うようにして倒れていて、上にいる人たち以上に驚き戸惑っている様子で……。


 ここで、やっとわたしは気が付いた。


「……ここは……ここは……っ!?」


 ここはまるでわたしの昔の記憶にある――


「ここは……あ……ああっ……まさか……そんな……!?」


 ――体育館そのものだと。

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