第59話 とある貴族の事件簿
話は、メレティミがいるゲイルホリーペ大陸の真下であり、2人が一年半もの歳月をかけて旅を始めたエストリズ大陸へと戻る。
話は、その大陸の王都グランフォーユの管轄区であるマルメニと呼ばれる町のとある貴族の屋敷から始まる。
◎
その日、とある娘が日課の勤労に励んでいた。
名前はベニーと言う。
明るく波立つ金髪に、日に焼けて仄かに汗ばむ頬には薄らとソバカスが浮かぶ。
齢はもういくつかで20歳を迎えるが、そのことをベニーは覚えていない。
誕生月は覚えてはいるが、それを数える間もなくこの年まで生きてきたのだから。
「そこにいるのはベニーかしら? ちょっと直ぐに来て下さる?」
「あ、はーい。奥方様。ただ今ー」
彼女は下にいた奥方に呼ばれ、やり途中の窓拭き仕事の手を止めて屋敷の中へと戻った。
三角巾に包んだ金色の巻き毛を揺らし若干息を切らして一階へ降りたのち、廊下を抜けて向かった庭の、屋根の付いたテラスでくつろぐ奥方と主人へと見苦しくない程度に駆け寄った。
奥方は笑みを浮かべてお茶を楽しんでいたのだが、主人の顔には若干の影が落ちる。
最近の主人の顔は優れない。理由は現在抱えている仕事に頭を悩ませている為だとベニーは聞いている。
息抜きも兼ねて奥方が提案したお茶会だったが、やはり気分転換とはいかないのかもしれない。
「お茶受けが切れちゃったの。悪いけどちょっと持ってきてもらえるかしら?」
「はい、畏まりした」
ベニーは言われたままに空いた食器を片付け始めた。
ちらりと自分が慕う主人へと視線を向けると彼の目元には薄らと隈が見える。睡眠も十分に取れてないのかもしれない。
この仕事に携わるようになってからと言うと、夜遅くに帰ってくることも多いなってきている。そして、帰ってきて早々に書斎に籠り、長々と報告書に目を通している主人のことをベニーを含めこの屋敷にいる従者たちは皆、知っている。
奥方へも視線を向けると、やはり夫の疲労に懸念を示している。
「旦那様、お茶が冷めてしまいましたね。新しいお飲物もお持ちしましょうか?」
「あ、ああ……じゃあ、クスラ茶を貰おうか」
「畏まりました。奥方様もいかがですか?」
「ええ、じゃあ私も同じものをお願いね」
一礼をし、ベニーは食器と共に屋敷の中へと戻る。
敬愛する2人の為ならばなんのその。ただの不満も思いつかない。
2人との付き合いはもう10年ほどになり、従者……いや、正確には奴隷としてこの場所で生活を行ってきた。
主人に買われた時は、内心びくついたものだった。
奴隷市場にいた時は年長の若い女たちから『奴隷として生きていくにはその身を差出し、主人へと弛まない奉仕を忘れるな』とその作法を教わったことも原因の1つでもある。
ましてや屋敷に着いて早々、顔を合わせたのは若い女……奥方だ。
ベニーは最初、彼女も自分たちと同じく買われてきた奴隷だと思い(今となっては失礼極まりない話だが)、これは大変な好色家なところに来てしまったのだとも思ってしまったものだ。
しかし、そこで展開されたのは激怒した女……奥方に平伏する主人という不思議なものであった。
奴隷を買うなんてふしだらな! ――何度も主人の胸を殴りつける奥方の姿は今でもベニーの目に焼き付いている。
主人は歴も浅い、いわゆる成金の二世貴族であった。
親元から離れて身ではあるが、家に奴隷がいるのは当然と言う生活を幼年の時から送っていた。そのため、金持ちとは奴隷を持つことが当然なのだと、親元から独立し家を構えた際にベニーがいた奴隷市場で一式揃えたというのだ。
逆に奥方の方は身分としてはそう大差はないものの、格式を持つ息だけは長い貴族の生まれで、奴隷については快く思っていないという方だった。
奴隷を購入すると決めたのは主人の独断でもあった。
ただちに返却するよう激怒する奥方に、“1人”を除いてベニーたちは困惑し狼狽した。
無一文の上、帰る場所も行く当てもない。あの窮屈な奴隷市場にも戻りたいとは思わない。
皆、置いてくれるよう何度も何度も頭を下げながら説得し続け……どうにか根負けした奥方に許しを貰えることになった。
ただし、最初の風当たりは強く、主人が風よけになってくれていなければ、今頃どうなっていたかもわからない。
奥方がベニーたちに向ける目……所謂、嫉妬の目、というものか。
2人は新婚だった。屋敷も婚約のために買い揃えたものと言う。
今回購入された奴隷は全員で5名で、うち3名がベニーを含めた女性である。
夫が自分に不満があるのではないか? と懸念を抱かさせてしまったのだろう。
出会って早々に激怒する妻に平謝り夫……という、かかあ天下な関係なのかと思いきや、屋敷の中では所構わず夫に抱きつくという光景をよく目にした。
これも見せびらかしての警戒か……別の意味でどう接していいのかわからないほどだった。
なので、ベニーと2人の女性とは秘密裏に、そういう一線を越える、もしくはそういう態度を見せる振る舞いは厳禁と約束し合った。
ベニーは奴隷として買われたが、そういう経緯もあって、今では雇用として扱われることとなった。
最初のうちは冷たい態度をとられたが、次第に彼女らの働きが評価され……根は優しい人だったのだろう。
いつしか奥方との軋轢も消え、次第に好かれるほどとなった。
自分たちは運が良かった。こんな優遇してくれる貴族は一握りにしかいない、と他の奴隷からベニーは聞いた。
例え位も持っていても奴隷を好んで買い込む貴族も大勢いる。その一握りに入り込むことができたのだ。
ベニーは見知らぬ誰かに……例えるならば神ともいうべき存在へと感謝を捧げながら毎日の従事をこなしていた――。
◎
奥の厨房からこの日のために奥方が買っておいた焼き菓子と茶葉に湯の入った急須を持ち、またテラスへと向かう。
「いつもありがとうね」
「いえ、これくらい私なんかを拾ってくれた旦那様や奥様のためなら」
礼をこなしながら新しいカップに緑色のお茶を注いでいく。
出涸らしから失敬して口に運んだことがあるが、若干渋みを感じるもとても舌触りのいいものだ。
お茶を淹れている間に、奥方が焼き菓子を一つ口に運び笑みがこぼれる。
奥方に進められる形で主人も小さく口に運び咀嚼を始め、それを見計らってベニーは一礼をした。
「それでは、失礼いたします。また何かあれば」
「ああ、ちょっと待ってベニー」
2人の邪魔にならぬよう、ベニーは早急に立ち去るつもりだったのだが、お茶を含みながら奥方がベニーを止めた。
なんだろう。
ベニーは奥方が口を開くのを待った。
「ねえ、ベニー。あなた、これから先どうするつもりなの?」
「え……と、これからとはどういうことですか?」
一体何の話をしているのだろうか。
奥方は口からカップを離すと、おもむろに顔を上げてベニーを見る。その眼は優しく細められていた。
ほら、あなた、と奥方が主人へと話の続きは急かす。主人も、一度カップを口に運び、そして喉を鳴らしてからベニーの目を見つめた。
「なあ、ベニー」
「はい、なんでしょう旦那様」
「君はまだ若い。……他の従者たちもまだ若いけど、君は特に、だ」
彼らはベニーたちを奴隷とは言わない。奴隷と奥方が言うことを禁止しているのだ。
ベニーの身分は奴隷だが、彼らはベニーたちを奴隷として扱わないと口約している。ここに住まうことを許されたのだから別にそんなことは構わないとベニーは思うのだが、彼らの体裁がそれを許さないと言うのでベニー自身も万が一にも他人から身分を尋ねられたら奴隷とは絶対に口にしないよう“約束”している。
――主人の話は続く。
「君はこの先ずっと僕たちの従者で終わってもいいのか……そう妻と話をしていてね。君は何か望みとかは無いのかい?」
「……すみません。そのようなこと一度たりとも考えたことはありませんでした」
「そうか……先に言っておくが、この話は他の従者たちにもしていることだ。変に気に悩まなくていい。だから、もしも、君が望むなら僕と交わした“それ”を解除し、好きな場所に飛び立ってもいいと考えている」
それはつまり……。
「ど――としての契約を破棄すると?」
約束が働き、その単語は口に出来なかったが、ベニーの発言に2人は縦に頷いた。
「ただし、今すぐにとはいかないけどね。ベニーが抜け穴を埋める算段が付いてからと、希望者が多かった場合はある程度の時期を待ってもらうことになる。一斉にみんなやめられたら僕たちの生活は回らなくなってしまうからね」
口にして苦笑気味に主人が笑った。
ただ、突然そんなことを言われても……と、ベニーは困惑するのだが、なるべく顔に出さないように振る舞い、笑みを浮かべて1人を見た。
「……ふふ。そうですね。今、私が、いえ……私たちがこの場から離れてしまったらお疲れの見えるご主人様のお世話は全部奥様に任せてしまうことになってしまいますね。そう考えてしまったら、心配で屋敷から出ることなんて考えにも及ばないでしょう」
「まあ、ベニーったら!」
「すみません。突然のことで私は何を話しているのか……。ちょっと時間を貰えませんか?」
「ああ、そうしてくれ。今ここで言われてもぱっとはしないだろう。皆と相談してもらっても構わない。こちらとしてもなるべく融通を聞けるように頑張ろう」
「わかりました。考えておきます」
では、と一礼をし、ベニーは2人に背を向けて屋敷へと去った。
窓拭きを再開しながら今一度契約について考えを巡らせてみる、が彼女の頭の中はただ、真っ白で曖昧なものしか浮かんでこない。
未来や将来といった先のことを今まで考えてこなかった、考えるのをやめていた結果がここにきて出てきたのだろう。
ずっと奴隷として生きていく。
この考えが彼女の根本に深く染みついていたこともある。
(私はどうしたいんだろう)
窓拭きも終えて、他の仕事に就く傍らで他の従者である十年来の年上の仲間と主人に言われた話をした。
やはり同じようなことを言われたと2人は口を揃える。
「最近は爵位も上がったしね。奴隷がいるってことで蔑まれる可能性もあるし……」
そう発言したのは3人の中で年長であるマーユだ。
彼女はそう口にするもこの場所を去るつもりはないと言う。見た目的にはまだ若くももう年だからと苦笑する。
ただし、もう一人は首を振る。
「あたしは辞めるさせてもらうわ。無一文の時に比べりゃ微々たるもんだけどお金も溜まった。外に出ても大丈夫だし、今度こそ違う生き方を送りたい。ベニーあんたはどうするの?」
「私、ですか……」
話を振られて口淀むが、実はベニーの考えはもう決まっていると言っていい。
彼女の場合は思考の停止と言ったほうが正しいが……。
しかし、簡単に決めるのも違うと頭の奥にいるベニーが囁き、今はまだ結論を出せずにいる。
「まだ、考え中です」
「あー……まあ、いつでもいいって言われたらね。ただし、決めるならさっさと決めちゃいなさいよ。だらだらと後回しにしていると結局決められないままにすぎちゃうんだからね」
「そうですね。なるべく早く伝えられるようにします」
言うなりベニーは目を伏せた。
◎
2日と、3日と過ぎた。
同僚2人は主人に辞める辞めないと伝えたと聞く。だが、ベニーは未だに悩んでいた。
何を悩む必要があるのか。ベニー自身もう答えは出てはいたのだが、ただ1人だけ相談したい相手がいた為に未だに言葉には出来ずにいたことも大きい。
その1人と言うのが同じ奴隷市場から買われた青色の鱗を持つ竜人の少年……今ではもう成長し青年と化したハックのことだった。
最近は深夜の見張りを任されることが多く、自由に顔を合わせることも少なったことにある。
彼が非番であるこの日を見計らい、やっと顔を合わせることができたのだが、話をするなりハックは当然とばかりに鼻で笑う。
「俺はここから出て騎士団か剣闘士になる」
「そう。変わらないね」
「当たり前だろ。俺はウォーバンのおっさんみたいに一旗揚げるんだ」
「はあ……男の子って皆好きね」
彼の夢はあの頃のまま灯し続けていた。その夢に向かって彼が鍛錬を続けているのも知っていた。
この近辺は王都も近くにあることから治安も良い。
騎士団や自警団の働きで警邏も行き届き、強盗や魔物の襲来と言う類の話は全く聞かないが、留守を狙った空き巣と言った軽犯罪は後を絶たない。
勿論、この屋敷でもこの数年、何度かはそういう輩には遭遇した――それも全て事前に門番であるハックが食い止めて犯人を捕まえてしまっている。
これも日々の鍛錬の成果が出ていると言ったところか。ただ、本人からしたら空き巣を捕まえるために鍛えているんじゃないと怒り狂うだろうけれど、主人たちからも彼の評価は高い。
本人は素っ気ないふりをしているが内心喜んでいるのは長年の付き合いからベニーはわかった。
彼は緊張している以外、喜ぶときには長い尻尾が動かないのだ。
人のように顔色が変わるわけでもないが、表情からも読み取れる。人に言わせれば竜人の顔の変化の見分けはつかない、と言うがこれはまた同じく長年の付き合いからのベニーの一種の勘に近いものだけれども。
ただ最初の方は不機嫌に、苛立っているかのように見せる彼の態度に主人たちもどう扱っていいか手に焼いていた時期があった。
だからまだ若かったころのベニーは不躾ながらに夫妻2人を引っ張ってハックを観察したこともある。
今思えば礼儀知らずもいいところであった、とベニーは反省しているが……。
「あれが暇な時です」
ハックが尻尾の先端を上下に振るときは暇を持て余している時。
「あれはお腹が空いているんでしょう」
ハックの尻尾の先端が丸まった時は空腹時。
「あれは近くに獲物……多分虫か鳥がいて警戒をしているんでしょうね」
ハックの尻尾が左右に振られている時は何かに集中している時。
「あれは……私たちの視線に気が付いて怒りをあらわにしています」
「それは、私にもわかるわ」
「奇遇だね。僕もだよ」
ベニーたちへと眉尻を吊り上げきつく睨み付ける彼に、3人で回れ右して屋敷に戻ったりもした。
その晩、ハックの食事は彼の機嫌取りもあって主人たちはいつもよりも豪勢にしてくれた。
口では悪態を吐きながらも美味しく食べる彼の尻尾は微動だにせず、
「あら、本当だわ。喜んでいるのね」
「なるほどね。僕にもあったよあんな何にでもぶつかりたくなる時期が。なんだ、彼も僕らと同じなんだね」
陰から見守る2人に微笑ましくなったのはベニーの秘密だ。
ハックは気難しい一面もあり、主人である彼らに若干の反抗を見せる時もあるが(ベニーは見るたびに肝を冷やす思いだったけれども)、それも彼の個性だと主人たちの器の広さも伺える。
なんだかんだでハックはここで上手くやれていると思っていたが、外の世界へと出ていきたいと言うのだ。
ただし、現在のハックの尻尾は縦に振られているので、悩んでいるか機嫌が悪いか、と言うところが気がかりでもあったのだが。
「ベニーはどうするつもりなんだ? 俺と同じくここを出ていくのか?」
「私は……考え中……」
そうベニー口にするとハックの尻尾はぴたりと止まった。
「そっか。じゃあ、もし、ベニーが良かったら俺と一緒に――」
「――だったけど、今決まった」
ハックに相談したら何か変わると思っていたベニーであったが、そう変わるものでもなかったらしい。
結局、主人たちに話を振られた時に出た結論を口にする。
「私はここに残るわ。この場所で生きていく」
ベニーはこの場所以外で、ここ以外で生きる術を知らない。
外に出れば何かしら新しい道が開けるかもしれないが、それを見つけることに自信は無い。
甘えと罵られてもいい……怖いのだ。
人に捨てられるのが。
人から拒否されるのが。
人を疑うのが。
これには自分が奴隷にならなくてはいけなかった理由も関係してくる。
一言で言えば元いた家族での口減らしが理由なのだが――過去が頭に浮かびそうになったところでベニーは首を振った。
今はハックに自分の意志を、それが思考停止の末のものだとしても見せなければならない。
ハックの尻尾が縦に振られるのが見えた。
「そう、かよ。じゃあ、近いうちにお別れだな」
「……長い間いっしょにいられてよかったわ」
「……話はそれだけか? 仕事あるんだろ。もう行けよ」
「……うん。わかった。じゃあね」
ハックからの返事は無く、ベニーは若干寂しい思いをしながら踵を返して歩きはじめる。
背後からたんたん、と地面を叩く音が聞こえる。ハックの尻尾だ。この音を聞き間違えるほど付き合いは短くは無い。
数歩進んで、ベニーは振り返り――
「ハック! 誘ってくれてありがとうね!」
ハックからの返事は無い。
けれども、尻尾の音は止まっていた。
◎
それからベニーは自分がこの屋敷に残り、従者として再雇用してほしいという旨を伝えようと主人たちに元へと向かおうとしていた。
しかし、それもお預けをくらうこととなる。
門番がベルを鳴らす音が聞こえた。ベニーは向けた足の行き先を変えて玄関へと急ぎ出迎えなければならない。
ドアノッカーを叩く音に続いて、門番が顔を覗かせる。彼もまた数年来の付き合いのある奴隷仲間だ。
他の仕事に赴いていた従者2人もその場に駆け付け、慣れた振る舞いで門番の後ろに佇む1人の青年を出迎えた。
見知った顔である。主人の部下だ。
急ぎ取り合って欲しいと青年に言われ、2人に応接を任せベニーは一礼をして主人の元へと足を速めた。
青年の顔は険しかった。これは主人の頭を悩ませている事件と関わりがあるな、とベニーは考える。
詳細は聞いていないが、確か1年ほど前に名のある貴族が惨殺されたというものだった。
使用人からその貴族の同僚まで、屋敷にいた全ての人間が殺されたと言う。
聞くだけで身の毛もよだつ話である。
ただ、地理に疎いベニーからしたら、ここマルメニと、近くに存在する王都グランフォーユ以外の場所は見当は付かないので、遠く離れた南部での出来事でしかない。
何故、我が主人がそんな遠くの事件を任されているのは知らない。……厄介ごとを押し付けられたのだろうか。
言っては悪いがベニーの主人は貴族と言えど、下級の貴族だ。回り回って上から面倒事を任されたのかもしれない。と、一端の従者如きが知る由もない。
書斎にいた主人を呼び出して、青年のいる応接間へと向かう最中もやはり気の乗らない表情を浮かべていた。睡眠不足からか多少身体のふらつきも見せる。
応接間へと主人を送り届け、ソファーに腰を下ろしたのを見計らい、ベニーは対応していた2人と同じく後ろに控えた。
体面に座っていた青年がベニーたちをちらりと目を向けるが、主人は「いい」と彼女らの滞在を許した。主人は従者たちを信頼していることもあったのだろう。
また“ある種の話は口外しないこと”という約束も効いていると踏んでのことだ。
出来ればベニーたち自身もこの場から去りたいと内心溜息を漏らすが、そこに気が付き気遣い考える余裕がないほどに主人は疲れていた。
「要件はやはり……」
「ええ、サグラントのグラフェイン侯爵殺害の件です」
「そうだよね」
主人はソファーに深く腰を落とし片手でこめかみを軽く揉んだ。
「……何か進展でもあったのかい?」
「はい、あの損傷が激しい死体の身元がわかりました」
「ああ、あの顔の面が剥がされていた中年男性の変死体ね。こればかりは自分の目で確認しなくてよかったと思うよ。とても妻には聞かせられないな」
「そうですね。人に見せられるものではありませんから。……身に付けていた“家紋”から死体はユクリア・ヘンドという貴族のものだそうです」
聞きなれない名前に主人は顔を上げて青年を見た。
「ヘンド? そんな貴族はいたかな……」
「表向きには5年ほど前に没落した貴族です。覚えてませんか? 一度俺たちで報告書を纏めたんですが。あの剣術指南として名を上げていた――」
「ん……あ、ああ。思い出した。あの殺人事件のところね。犯人は、依然不明。両親、兄弟2人、後は養子の子供も亡くなってたよね。そして、犯人と思われていた三男だけが見つかっていない……ってまさか」
「……はい、その三男が今回見つかった死体だと報告に上がっています。まあ、ヘンド家の殺人は隠匿扱いでしたので、ヘンドの名が上がるまで長い時間を要しました」
「なるほどね。あの事件なんて僕らくらいしか知らないもんね。で、その三男さんの死体が見つかったと?」
「はい、見つかったユクリア・ヘンドの死体は中年男性のもの。記録に残っている通りならば、年齢と一致しますし、本人かと思われます」
「うーん……それで、そのなんでユクリア・ヘンドがどうしてグラフェイン侯爵のところに?」
「はい、ユクリア・ヘンドは剣術指南としてグラフェイン侯爵の子息に稽古をつけていたと言われています。本人はあまり敷地内から姿を見せず、領民の殆どは見たこともないそうですが、又聞き程度には存在を知っていたそうです」
「本当に彼を知らないの? 誰も?」
「家族と従者以外で屋敷に頻繁に訪れたのは2人ですが、その2人とも屋敷内で見つかっていますし……」
「その2人は聞いたね。確かゴドウィンという元冒険者と、シーナ・カルナカというグラフェイン侯爵の側近。シーナ・カルナカに至っては犯人が男と現状思われている証拠ともなったもんだ」
「はい、シーナ・カルナカには暴行の後がありました。……被害に遭われた男性全員の性器を調べても行為に及んだ形跡は無く、彼女が今回の事件の犯人によって犯されたと考えられる……部外者の犯行と結論付けられた証拠にもなりました」
「部外者ね……」
主人は納得いかないかのように呟きまた、頭を抱えだした。
ベニーは顔を真っ青にしながら話を聞き、途中顔を背けたくなったが、せいぜい目を伏せるまでに我慢した。
そして、遮った視界の中、主人が一つ身を捩じらせた。
「そう言えば、唯一生き残った子息くんいたよね。あれから変わらず?」
「はい、ゼフィリノス・グラフェイン……ですね。彼は今王立学校に通ってます。当初は随分と塞ぎ込んでいましたが、現在では犯人の検挙に快く応じてくれています」
「そうか。彼も大変だったよね。王都に進学した先での事件だ。期待に胸を弾ませていた時期だったろうに」
「そうですね。立ち直ってくれて良かったと思いますよ。……あ、そういえば、事件には関係のない些細なことですが新たに上がった報告書には彼について妙なことが書かれてましたね」
「妙なこと?」
「ええ。領民の話を纏めた報告なんですが……彼には以前、2人の女の子がお付きにいたらしく……その、彼女たちが奴隷だったとも……」
「彼ってまだ14か15だろ? それなのに、女の子の奴隷を? 僕も人のことは言えないが、それはまたなんとも……」
「奴隷かどうかは定かではありませんが、町では評判のメイドだったそうです。事件の起こる数か月前に町から出ていったらしいのが……。黒髪の女の子に、もう1人は青髪の天人族の女の子。名前はシズクとルイと――」
「……シズクとルイ!?」
と、そこでベニーが思わずその名を口に出してしまった。
主人が大切な話をしているのに勝手に割り込んで、こんなこと従者として失態だった。
皆の視線が集まり、身を縮こませて頭を下げた。
「あ、いえ。口を挟んで申し訳ありません」
「ん、どうしたんだい?」
そう主人に見つめられ、どうしたものかと視線を這わせ、悩んだ先に口を開くことにした。
「……昔、その名を持った知人がおりまして……特徴も似てたので。ただ、黒髪の女の子、は記憶では男の子でしたから、人違いでしょう」
と、ベニーが口にすると、側にいた従者2人もああ、と何かを思い出したように声を上げた。
すると青年は驚いて目を見開き、その反応について主人が訊ねた。
「ええ、数名……彼らと親しくしていたと言う領民の中には男の子だという話も上がってました。ただ、女の子だ、と断言する人もいて……判断が難しかったのでこちらでは女の子として扱ってますね」
その後、話はユクリア・ヘンドの話へと戻り、ヘンド家殺害の容疑者として取り扱うか、ということに2人して頭を抱えて悩み始めた。
何度か言葉を交わすも、結局は保留と言う形で収まり、青年は腰を上げてソファーから立った。
「と言うわけで、一応変死体の報告だけでした。後に報告書をまとめて出しておきますね」
「ああ、お手柔らかに頼むよ」
そこではっと気を取り直し、ベニーは2人に続いて主人と共に青年を屋敷の外まで見送りに玄関へと向かった。気が付けば、シズクとルイについて考えてしまっていた。
外に出て青年が門を潜り抜けたところで沈黙を続けていた従者2人がシズクとルイという以前いた奴隷仲間について話を始める。
「シズクとルイかあ……」
懐かしい名前だとベニーは感慨深く思う。
自分よりも、周りの大人たちよりも値の張った特殊な子供だった。
自分なんかじゃ比べられない宝石のような綺麗な子供たちだった。
ハックは自分との価格の差に彼らのことをいつしか遠ざけるようになったが、ベニー自身は当然だと思っていたために全くと言っていいほど気を悪くしたことは無い。自分に価値は無いと思っていることもある。
元々、ベニーの器量ではあの奴隷市場には入ることはできなかった。
そのため、別の奴隷市場へと流されそうになったところを、管理人であった老人の口添えからあの場に置いてもらえることになったのだ。
老人……ラゴンには感謝しきれないほどだ。
「……ああ、思い出した。あの店主が妙に売り込んでいた子供たちか!」
そう、従者2人の話を聞いているうちに思い出したのか、主人が声を上げて頷いた。
「確かに綺麗な子供たちだったが、僕には必要としなかった。だいたい僕には愛する妻もいたしね。彼女の前ではどんな女神だって――」
なんて、のろけ話を始めたところで従者2人はさっさと屋敷へと足を運び、それに気が付いた主人が後を追う。
ここにはもうベニーしかいない。彼女もまた3人に続くように屋敷の中へと踵を返した。
そういえば、と口にする。
「テトリアは元気にしているかな……」
ベニーは立ち止り、もう1人あの場で共に暮らした獣人の女の子のことを思い出していた。
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