第43話 新しい日々の始まり

 僕はこの日のために用意していた服に着替えを済ませる。その上から予備のメイド服を強引に着る。ちょっともっさり感が出てるけど万が一のためだ。

 もう油断はしない。命令違反で何かしらの罰を受けて身体が硬直するようなことは避けたい。

 エプロンとカチューシャはどうしようかなって思ったけど、結局身に付けておくことにした。


「忘れ物は……ふっ、そんなもの私たちにはなかったか」

「うん。僕たちのものなんて最初からここには何1つとして無かったよ」


 それから、荷物を纏めて部屋を出る。何1つないなんて言ったけど、最後まで捨てられずにとっておいたラゴンの服だけは、そこに残しておくことにした。

 未だ眠り続けるルイはイルノートが背負ってくれる。リコは尻尾を振りながら僕らの後をついてきてくれる。

 その後、宿舎を後にした僕は、待ちくたびれた様子のルフィス様を見つけて声をかけた。


「あら、終わりましたの? かなり時間がかかったのね。待つと言ったのは私ですが、レディを待たせるものじゃなくてよ?」

「それは失礼しました。ですが色々と一悶着ありまして……」


 そう言うとイルノートが苦笑を浮かべる。

 一体誰のせいだと言いたくなったけど僕も作り笑顔を浮かべて我慢だ。


「まあいいわ。後ろの2人はお見送り……あら? まだルイは意識を取り戻していないようですわね? 大丈夫なのかしら?」

「はい。私が部屋に向かった時にはルイは目を覚ましていました。今は泣き疲れて眠っているだけです」

「泣き疲れて……では、後腐れのないようしっかりとお別れを済ませたのね?」


 その問いに対して僕は声もなく首を横に振る。

 どちらとも取れない僕の反応にルフィス様がどういうこと、と首を傾げた。


「ルフィス様、そんなことよりも受け取って欲しいものがあります」

「そんなことって……でも、いいわ。何かしら?」


 僕は怪しまれないよう、この屋敷で覚えたお客様向けの笑顔を向けてルフィス様の前に立つ。

 後ろにいたヴァウェヴィさんが一歩踏み出して腰に挿していた剣の柄を握った。

 どうやら、僕が笑ったことで警戒されたようだ。でも、ルフィス様の表情はまったく疑うこともなく、僕からの贈り物を期待しているみたいに微笑んでいる。

 彼女の表情を今から曇らせるのはちょっと心が痛む。

 僕は別にルフィス様のことは嫌いじゃなかったんだから。


「では、ルフィス様――」


 僕はルフィス様へと跪いて彼女の右手を自身の左手で拾い上げる。そして、硬貨を握り込んだ右手を置いて、握手をするように掴む。

 両手で包み込み、終るまでは絶対に離さない。


「なにかしら? 硬い鉄みたいだけど」

「ええ、4リット金貨でございます」


 1枚多くしたのは現在の自分の金額がどうなっているかわからなかったからだ。

 ゼフィリノスに買われた時は3リット金貨に50リット銀貨だったけど、ルフィス様に譲った時は3リット金貨だったと先ほどは言っていた。

 どちらを払えばいいかわからなかったこともあるけど、もう無用なトラブルは回避したいっていうこともあった。

 うん? とルフィス様の口から洩れる。年相応の可愛らしさを浮かべてまたも不思議そうに首を傾げる。


「ルフィス様、ごめんなさい……」

「え……」


 思わずそんなことを呟いて、それを聞いたルフィス様の表情が一瞬固まる。

 ヴァウェヴィさんが今度は鞘から刀身を見せて僕へと向かう。でも、ヴァウェヴィさんが剣を抜き、こちらと接触よりも僕の方が早い。


「ルフィス様、“奴隷契約の解放を願います”」


 僕の身体の内から電流の様なものが駆け巡り、ルフィス様と繋いだ右手へと流れていく。


(……これが解放されたってことだよね)


 今までは意識なんてしてなかったけど、枷が外れたみたいに身体が軽く感じる。

 ルフィス様も同じく体を小さく振るわせる。同時にヴァウェヴィさんが剣を抜いて僕へと体当たりを仕掛けてくる。繋いだ手を離し、僕は雷の瞬動魔法を使ってその場から飛び退いた。


「できたか?」

「うん、終わった。の制約は解けたよ」


 普通に話せることもその証。

 心置きなく僕は重ねて着ていたメイド服を脱いでいった。カチューシャもエプロンドレスもワンピースも、僕が女だったものを全てはぎ取る。

 こうして、久しぶりに男に戻れた……と思う。

 伸ばした髪はどうしようかな、なんて考えながら用意しておいた紐で結びつける。切ってもいいかもしれない。


「え? え?」


 未だに状況が理解できず、目を白黒させるルフィス様には悪いけどね。

 僕らの間を入ったヴァウェヴィさんがこちらへと剣を向ける。でも、僕らには戦う意志なんてない。そのまま彼女たちに背を向ける。


「ちょっとシズクお待ちなさい! ……なっ、私の命令を聞きなさい! 待ちなさい! シズク! シズクっ!」


 僕らの足は止まることはない。

 

「では行くか」

「……ちょっと待って。僕にはやることがあるんだ」

「やること?」

「うん……」





 ルイを背負ったイルノートを屋敷のエントランスホールに残し、僕はひとり2階へと昇っていく。

 から僕はずっと胸に秘めていた決心があった。

 奴隷から解放されたら、絶対にやると決めていたことが……そのためにも僕はゼフィリノスに会わなきゃいけないんだ。


「そうさ……あいつには借りを返さないとね……」


 ゼフィリノスのいる場所は直ぐにわかった。

 左翼奥の部屋の外には顔見知りの執事さんたちが佇んでいて、僕に気がつくとファイティングポーズを取るみたいに構えてきた。眉を吊り上げて睨みを利かせる人もいれば、困惑した色も浮かばせている人もいた。

 なぜこんなことを、とか、今すぐに投降しろ、とか、謝ればきっと許してくださる的なことを言われたけどそんなの僕の知ったことじゃない。


「みんなごめんね」


 身分は違えど、彼らは奴隷である僕らを少なからず受け入れてくれた同僚だった。

 男だと知っても女の子として扱ってくる人や、モルニルさんみたいに親切にしてくれた人もいる。

 だけど、僕は彼らへと向かっていった。

 威力を弱めて雷魔法を手に纏い、雷の瞬動魔法で彼らの間を走り去り、むき出しの地肌へと触れていく。

 執事さんを片っ端から昏睡させて、それから僕は部屋のドアノブを握った。


『…………【ファイヤー・ボール】!』


 突然の歓迎にも僕は右手を前に出してその火の玉を受け止める。

 熱くはない。ゼフィリノスが魔法を放つよりも先に僕の手の平に生み出した火球で飲み込むだけなんだから。


「……シズクぅぅぅ!」

「ゼフィリノス、お別れの挨拶に参りました」


 ベッドに腰を掛けているゼフィリノスに声をかけたところで壁を背にしたトラスさんが無言のままに僕を背後から殴り掛かる。


「ぐっ!」

「シズク、正気になり……ぎゃあっ!」


 不意を突かれて後頭部を殴られたけど、どうにか気絶するには至らなかった。

 その場でたたらを踏んで直ぐに振り返り、トラスさんへと距離を詰めては雷魔法で撫でてその場に倒れてもらった。

 メイドさんたちが悲鳴を上げる中、次にカリアさんがゼフィリノスを庇うように僕の前に立ち塞がってきた。


「……カリアさん、今までお世話になりました。あなたには本当に感謝しています。出来れば、ルイと一緒に挨拶できればよかったんですが……」

「シズクやめなさい! あなた、こんなことして許されると思っているんですか!?」


 カリアさんまで外にいた執事たちと同じことを言う。

 ただ、今までの御恩を思えば彼女とはちゃんと話すべきだと思った。


「きっと許されないことだと思いますよ。でも、今さら許すとか許さないとか……そういうのはどうだっていいんです。理由を話すつもりはありませんが、だけは許せないってだけです」

「そいつって……あなた口が過ぎますよ!」


 僕は前へ出てカリアさんとの距離を詰める。皺が刻まれた初老のカリアさんが僕を前にして怯えている。本当に申し訳なく思う。


「ごめんなさい。カリアさん」

「や、やめなさ……」


 そっと触れて電流を流す。膝を折って倒れるカリアさんを受け止めて、ゆっくりと床に寝かせてあげた。

 大人2人を昏睡させた僕を見てか、仲良くしてもらっていたメイドさんたちは今以上に怯えだす。僕が近寄ると、さっと潮が引くみたいにゼフィリノスから距離を取った。

 ほっとする。

 やっと邪魔をする人はいなくなった。


「お、お前! 俺に盾突いていいと思ってるのか!?」

「思わないよ。君は貴族の子供だし、僕は奴隷だ。奴隷如きが貴族様に歯向かった先の末路なんて……考えたくもない」

「そ、そうだ! こんなことをして、死刑程度で済むと思うなよ! これはお前だけの問題じゃない! お前の仲間であるイルノートだってただじゃすまない! それが嫌だったらさっさとここから――」

「出て行けって? はは……ふざけるなよ?」


 ルイの借り物ではなく、僕が普段から使ってる剣を鞘から抜き出す。

 やっぱり普段から使ってるやつの方がしっくりくる。この剣で戦ってたらルイとは負けなかったかも……なんてね。

 僕らは剣士じゃない。魔法使いだ。

 そして、あの戦いはほぼすべてが魔法による戦いだった。そこに剣の良し悪しで決まるなら事態はもっと簡単に終わってた。


「おっ、お前ぇぇぇ!」


 ゼフィリノスのやつも、慌てながら近くに置いてあった自分の剣を抜き取りこちらに向けてくる。

 そうだ。あの日も僕はその剣を磨ていた。汚れどころか使用感すら全くないって言うのに、僕はメイドとして、従者として精一杯磨きかけたんだ。


「その剣、いくらくらいするんでしょうね。とっても高そうだ……今僕が持ってる剣100本買っても届かなかったりするんですかね。ねえ、ゼフィリノス様はその剣の価値って知ってますか?」

「し、知るか! 俺はもらっただけ……そ、そうか! お前、この剣が欲しくてここまで来たんだな! なら、この剣をやるからさっさと出て――」

「いるかよ、そんな剣」


 別に剣の話をしたのはゼフィリノスが抜いたからしただけだ。

 この世界の物の価値なんて、成人男性の奴隷が3リット金貨程度で売買されていたくらいしか僕は知らない。後はこれからの日々にかかる生活費くらいで十分なんだよ。

 そんな1人分の値段程度しか付いてない剣なんて誰がいるか。


「じゃあなんだよ! お前は、お前はどうしてここにいるんだ!」

「お前は知らなくていいよ。単に僕の逆恨みだ」

「逆恨みだと!? 俺が今までしてきた命令の恨みで剣を、剣を抜いたって言うのか!?」

「は? はは、ははは……」


 そうだよね。

 ゼフィリノスはそんな小さいことくらいしか僕がここに来た理由なんて思いつかないか。 


(お前のせいで、僕がどんな思いをしたか。どんな思いでここまで生きてきたか)


 あの日記には声がどうだと書いてあったが、それを信じるなら元凶は全部お前じゃないか。


(そう、お前さえいなければ僕はあの後も平穏な世界で彼女ともに笑っていられたんだ……!)


 長ったるいお話を終えて1歩前へ進む。


「そう思ってくれていいよ……お前は運が悪かったんだ」


 続けて2歩目を踏み付ける。さらに、3歩……ゼフィリノスが剣を振るってきたので、火の活性魔法で筋力を上昇させて強く弾く……進む。


「痛っ、け、剣がっ!? ちょ、やめっ……来るなっ、来る……や、やめて……」

「は、ははは……」


 自分を守るものがなくなった途端、ベッドの上で身体を丸めて、怯えるゼフィリノス様はとても滑稽だった。まさかそんな顔が見れるとは思わなかったよ。


 今はもう僕を止めるやつはいない。それは内側にいる僕自身さえも。

 どの僕もやれと口を揃えて僕に訴えかけてくる。

 心がはずむ。

 人を殺すことに対して今の僕には躊躇いは無い。不思議と罪悪感も恐怖もない。


「ああ、そうさ……」


 きっとこんなことをしたって何も戻ってこないこともわかってる。

 けれど、こいつを殺せばあの悪夢くらいは見なくなるかもしれない。

 そうだ。両親や彼女だってよくやったって言ってくれるに違いない。

 ああ、きっとスカッとするぞ。絶対、こいつを殺せたら僕はこれからもっと楽しくこの世界で生きていける。

 奴隷もやめられて前世とのケリも付けて、正真正銘、第二の、シズクとしての人生がここから始めてやるんだ――!


「じゃあね。ゼフィリノス

「や、や、やめろぉぉぉぉ!」


 周囲にいるメイドたちの悲鳴を浴びながら、僕はおもむろに剣を振り上げる。

 そして、強化魔法の勢いを乗せて、掲げた剣をやつの頭目掛けて一気に振り下ろし……。


 ――でもな、命を奪って喜びを見出す畜生にだけにはなってくれるなよ。


「……っ!」


 なんて、下ろそうとしたところで急に昔の恩師の声が耳元に届いた。


(なんで……今さら、ラゴンの言葉が出てくるんだよ)


「ひ、ひぃ……やだぁ……やめでぇ……殺さないでぇ……!」


 呆然としながらベッドの上にいるゼフィリノスを見ると、彼は涙やら鼻水を垂らし酷く狼狽しながら命乞いを繰り返している。

 いつものふんぞり返った生意気な彼はどこにもいない。そこには12そこらのどこにでもいる子供が泣き喚いているだけだった。

 ……なんだか、白けてしまった。


「はあ……」


 僕を絶望に突き落としたやつを殺せる……先ほどまでのわくわくとした気持ちなんて微塵と湧かない。

 もういいや……と振り上げた剣を鞘に納めたものの、これで終わりにするっていうのも違う気がする。

 ここまでしたんだから、けじめはちゃんと取らないといけないと思った。

 だから、僕は一発だけ殴ることにした。


「やっ、やめろ!! 離せっ、離じ――イデェェっ!?」


 見っともなく喚く彼の襟元を掴み、拳を振り上げて、顎へと打ち込む。

 火の活性魔法も使わずにこの子供の素手での打撃。

 10歳にも満たない子供のパンチだ。

 ゼフィリノスは大げさに痛がっていたけどそこまで強くは無いでしょう?

 逆に僕の拳が悲鳴を上げてるくらいだ。ひりひりする拳を見て、たはは、って笑いが漏れちゃう。


「はあ……これでいいか」


 胸の中のもやもやは晴れることはない。きっと、これからも悪夢は見続けるだろう。けれど、思ったよりはスカッとした。

 もう心残りは無い。

 悲鳴を上げてのた打ち回る元ご主人様に背を向けて、僕は部屋を後にする。


 ――それではさようなら、前の世界の人。


 そう、昔の言葉で話そうと思ったけどやめた。





 屋敷を出ると門のところでルイとイルノートにリコが僕を待っていた。

 どうやらルイは目を覚ましたみたい。僕は笑って彼らの元へと向かった。

 隣にはルフィス様がしくしくと泣いて僕を未練がましく見ていた。


「シズク……くん。今からでも考え直しませんか? 好待遇を約束します。ぜひとも、私の使用人として……」

「すみません、ルフィス様……いえ、ルフィスさん。僕はこれからルイと生きていきます」

「そう、ですか……」


 俯く彼女をそっと女騎士のヴァウェヴィさんが肩を支えた。未だにヴァウェヴィさんの僕らを見る目つきは鋭い。

 4リット金貨ほど減ったお金だけど、もう用事は済んだので残りは返すと言ったら拒否された。

 それはベルレイン様があなたたちへと送られた報酬です。だってさ。


「お世話になりました」

「お世話になりました!」

「みゅ~う!」


 オーキッシュ様やホルカ様を筆頭に皆さんにはとても良くしてもらった。彼らは奴隷である僕らを、人として接してくれたんだ。

 それを恩を仇で返すような真似をして心の底から最低だと思う。けれど、これが僕の選んだ道だ。

 ルイの為ならどんな泥でも被ってやる。


 2人に見送られる形で僕たち屋敷を後にした。他に、見送ってくれる人はいない。

 ちょっと後ろを振り返って屋敷を望む。庭掃除大変そうだな。と他人事のように思う。


(そういえば、ユクリアの姿を見てないけど、どこか外出中だったのかな……)


 今更どうでもいいか。オレンジ髪の青年にはいつバレるかひやひやしたけど、歳も近いこともあってか屋敷でも多少気を抜けて話せる人だったしね。


(ルフィス様と同じくらいには嫌いじゃなかったよ)


 街を去るのだからと僕とルイの2人にリコを連れて、最後にお世話になった人たちに顔を出しに行くことにした。その間にイルノートは旅支度をしてくれるみたい。

 終わったら町の入口で合流することにした。


 最初は養鶏場のガブおじさん。

 僕の姿を見るなりに驚いていたけどこの町を去ることを告げたらとても悲しそうにしてくれた。


「そうか、達者でな。風邪引かねぇようにな」


 そう言いながら僕ら2人の頭をいつもみたいに乱暴に撫でてくれた。


 次に冒険者ギルドのおじさんのところだ。

 まだ夕方にもならない時間に訪れたから、ギルドの中での酒盛りは行われていないみたい。代わりに酒の入っていない素面の顔見知りたちが僕らを訝しげに見て、鼻を鳴らす。中にはグラフェイン家のメイドだと僕らのことを知ってる人もいた。

 おじさんは僕らに気が付くと仕事を放って駆け付けてくれた。

 無事に終わったことを告げるとおじさんは寂しくなるなと呟いた。


「そうだ。晴れて解放されたなら名前の変更していくか?」

「ん……どうしよう? 登録した名前変更する?」


 そう隣にいるルイに話しかけるとルイは首を振って否定した。


「ぼくはこのままウォーバンでいいよ。結構気に入ってたりするんだ」

「じゃあ、それで。別に気にいってはいないけど、とりあえず僕もジグのままでいい」

「あいよ。元気でな。俺もここにいるかはわからんが、またいつでも顔を見せに来いよ」


 そうして握手を交わし、飲んだくれとは別に顔見知りである他種族の人たちと会釈をしながらてギルドを後にした。

 外に出たころに、建物の中から大勢の人が『あいつらがウォーバンとジグっ!?』と大声を上げていて、僕とルイは顔を合わせてくすくすと笑った。


 その後も薬屋さんや八百屋さん、お酒屋さんといったお世話になったお店へと顔を出し、思い思いに別れを告げて、最後に立ち寄ったのが一番よくしてくれたパン屋さん。

 ノズ夫妻の元だった。


 夕方の買い出しでは常にお客さんがいるお店の中には今は珍しく人がいなくて、リップ夫人もカウンターの奥で肘をついて暇そうにしているところだった。

 そこへ僕らが顔を出したところでリップ夫人は大きく破顔して奥から出てきてくれた。


「あらあ! 珍しいわねー! しかも、こんな時間から。いつもの仕事着じゃないじゃない? 初めて見るわね、2人のそんな恰好は。あらあら、この猫ちゃんはなあに? このあたりじゃ見かけない猫ね。もう、シズクちゃんなんてなんかボーイッシュで素敵よ。これからどこかお出かけかしら?」


 そう笑みを浮かべて早口にまくるリップ夫人には悪いけど、僕らはこの町から去ることを告げるととても悲しそうに表情を落とした。

 すぐさま厨房の奥にいるノズ店長を呼び出して、僕らを見るなり無表情の中に笑みを浮かべるけど、僕らがこの町を去ることを告げたら一瞬硬直し、むすっとしたまま「そうか」と告げて奥へと引っこんでしまった。


「シズク最後にパン買って行こうよ」

「うん、僕も同じこと考えてた。おばさん僕らにパンを売ってくれる?」

「え、ええ。良いわよ。お金なんていらないわ! 好きなのをばんばん持ってっちゃって!」


 流石にそれは悪いからって辞退して、早速ベルレイン様から頂いた金貨を1枚渡して日持ちのするパンを買えるだけ買っていった。

 お釣りと銀貨・銅貨を含めて数十枚もらい、最後にもらったパンを布で包んで僕らに渡してくれた。


「それにしても、おばちゃん驚いちゃった。シズクちゃんじゃなくてシズクくんだったのねえ。こんなかわいい男の子がいるなんてね……あ、もちろんルイちゃんもシズクちゃ……シズクくんに負けず可愛いわよ!」

「えへへ、ありがとう。ぼくたちかわいいってさ!」

「それ、褒めてないよ……」

「あっははは、かわいいなんて男の子には禁句だったかしらねえ!」


 なんて話をしていると、奥からノズ店長がむすっとしたまままた戻ってくる。


「ほら」


 そして、いつも通りの仏頂面で焼き立ての丸々としたパンを編かごに入れて僕らに渡してくれた。


「さっき焼き上がったばかりだ。移動中にでも食べなさい」

「あ、ありがとう、ございます。お金を……」


 そう巾着から硬貨を出そうとしたところでノズ店長が待ったをかける。


「無粋なことを言わせるな」

「……ありがとうございます。大事に、大事に食べさせてもらいますね」

「……うん、ノズ店長。ありがとう!」


 そしたら、ノズ店長があの不器用な表情を変に曲げて笑ってくれた。

 まあ珍しいとリップ夫人が驚きながらもそっと目尻に涙を浮かべて拭う。

 店を出た後も2人は見送りにきてくれた。


「道中、気を付けてな」

「2人とも元気に過ごすのよ! 変な人について行っちゃだめだからね!」

「はい、それじゃあお世話になりました」

「元気でね! ばいばい!!」


 僕たちはお店を後にした。

 少し歩いて振り返ると、2人はまだそこにいて周りの視線も気にせずに僕らにずっと手を振ってくれた。僕とルイも負けじと手を振り返した。

 ノズ店長、リップ夫人、今まで本当にありがとう。





 サグラントの外に出ると、1台の四輪幌馬車が止まっていた。

 イルノートがその背にもたれ掛っているからまた買ったんだろう。

 これ、いくらするのかな。前にイルノートが買ったものよりも遥かに良いものだ。そりゃ、グラフェインやフォーレ家のものとは比べることは出来ないけどね。


 幌は新品同然の真っ白で解れも無い。馬車の方もニスで磨かれたみたいにぴかぴかだ。車輪のタイヤに当たる部分は鉄が巻かれている。

 馬具に繋がれたのは栗毛の巨大馬だ。見た目と比べて温厚そうな顔つきで、のんびりと地面の草を食べていた。


「お待たせ」

「……では、行くか」


 イルノートが御者台に乗って手綱を握る。僕らも後ろから馬車に乗り込み、頂いたパンを近くに置いて腰かけた。

 荷物がいくつか乗っていたけどスペースには余裕がある。でも、僕とルイはどちらが言う訳でもなく肩を寄り添わせながら隣同士に並んで座った。

 イルノートが手首を返して手綱を操ると、馬はゆっくりと前へと進んでいった。


「じゃあ、次の目的地はルイの言っていた……」


 と、とこで言葉を詰まらせてしまう。なんだっけ。なんとかの里。


「ユッグジールの里だよ。そこにレティがいるんだ!」


 と、目を輝かせてルイが教えてくれる。


「ユッグジールの里か……」


 そうぽつりとイルノートが呟いた。


「イルノートは知ってるんだっけ?」

「……多少は、縁がある」

「そうなんだ。もしかして、故郷だったり?」

「……さて、どうだったかな」


 前にルイがユッグジールの里? に行きたいって言った時もなんだか言いにくそうに答えたんだよね。

 でも、口数少なくもイルノートからはここから結構遠いと言う話を聞いている。

 大陸をひとつ跨ぐんだって。長旅になりそうだ。

 ルイはレティのいる場所だからとあれこれとイルノートに尋ねていたけど、イルノートは口を濁すだけだった。

 いい思い出がないのかな。


「ルイ、無理強いしたらだめだよ。それよりさ!」


 とりあえず、と僕はノズ店長から貰ったパンをみんなに分けていく。イルノートの微妙な反応にむくれていたルイがやった、と声を上げる。

 イルノートは前を向きながら片手でパンを受け取った。最後にリコにも分け与える。

 いただきます、の挨拶を忘れずに、僕らは思い思いにパンへかぶりついた。

 あれ、猫にパンって与えても大丈夫? でも、夢中に食べてるからいいよね。


「……中々にうまいな」

「でしょう? 数日はこのパンを楽しめるから期待しててよ」

「うんうん、ノズ店長が作るパンは最高だよ!」

「みゅ~う♪」


 そうまだ熱の残るパンを口に運びながら、僕らの旅は始まったんだ。

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