第12話 たとえ二人を分かつとしても
その晩、ルイと2人で勉強を始めようとしていたら部屋をノックする音が聞こえた。
扉を開けた途端、僕の顔にあの甘い臭いのする布を押し付けられ、軽く抵抗して意識を失った。
それから、気を失った僕は別の場所へと運ばれ、紐で縛られて床に放り出されていた。
後悔してももう遅い。
すでに後悔した現実はとぐろを巻いて僕の前でほくそ笑んでいる。
「んんー! んーんー!!」
「ふむっ……!!」
人の声が聞こえて僕は重い瞼を開く。視界は悪くも、あの重い匂いが鼻に届く。
またか。また僕は捕まってしまったんだ。
しかも、以前よりも体がだるい。
風邪を引いた時みたいに重い頭を上げ、僕は声が聞こえた方へと顔を向ける。
テーブルらしきものの上からぶらりと下がった足が見えた。その足が誰のものかなんて一目瞭然だ。
小さな両の足に僕とお揃いのリングがはまっていたんだ。
「むむ――っ!!」
声を上げるも、また口には詰め物に猿ぐつわがされている。
以前と同じ……いや、違う。以前とは違う。
僕はただ床に寝転がされて、今回はルイがテーブルの上に縛られているんだから。以前よりも最悪だ。
「おいおいおいおい! どういうことだよ! 2人とも起きたじゃねえか! 今度は原液のまま突っ込んだのになんで起きるんだよ! くそ、あの露天商の親父、まがい物買わせやがったな!!」
喚く男は以前と違って服を着ていて、地団駄を踏むように悪態を吐いた。
そして、その苛立ちをぶつけるように舌打ちをしながら僕を強く蹴りあげた。
「……ぐっ!」
「むうむっ!?」
蹴り飛ばされた僕は一瞬浮き上がり、床を何度も何度も転がり回る。
転がっている間に口を塞いでいた猿ぐつわが床と擦れて取れたけど、僕は胃から込み上げてくるものを咳き込みながら吐き出すことしかできなかった。
「げぇえ……うぇ……うぇえ……っ!」
「むうむむっ! むうむっ! むむっ! むうむ!!」
「おいおいっ、きったねえな! 何勝手に吐いてんだよ! ふざけんじゃねえぞ!」
また男が僕を蹴りあげる。
なんでこんな目に!
嘔吐と腹部の痛みに目を滲ませながら男を睨みつける。呼吸も乱れる。頭も痛い。視点は前と変わらず定まらない。
「話が……違う……! 僕……が、大人しく……すれば、ルイには手を出さないって言ったじゃないか!」
「はあああ? 誰がいつ手を出さないって言ったよ!? お前馬鹿か!」
「ふざけるな! お前、お前は……げがっ!」
また男が僕のお腹を蹴り上げた。
「あんな、いきなり意識失ったわけよ? 訳がわからんうちに目を覚ましたらお前はいねえ。俺一人裸で寝てる。寂しいったありゃしないわけよ!」
「げほっ……げほげほっ……! ごほっ……!」
「むうむむうう!!」
「それでチャラって俺が納得しねえんだよ! お前途中で逃げてんじゃねえよ!!」
男の理不尽な暴力は続く。
男はサッカーボールみたいに僕を蹴り続けていく。仕舞には壁に体が当たり行き場を失う。それでもやめることはなく、蹴り上げる反動の勢いが逃げることなく僕の身体を襲う。
自分で言うのもなんだけど、4歳児に本気で蹴りを入れるなんて正気じゃない。いや、そもそも性処理に使おうとしているんだ。正気どころじゃない狂っている。
「ごぼっ!」
口から血が吐しゃ物と共にあふれ出す。
痛い。痛すぎ。死ぬ……。
こんな痛み、今まで味わったことはない。今も昔も。狭い視界に小さな光が無数に浮かび始めて、意識が途切れそうになる。
雑音交じりで呼吸も危ない。耳が遠くて音を拾うのも難しい。
辛い。なんでこんな目に。
「はあ……はあはあ……大人しくなったか。……おーい、死ぬなよ? 親父に怒られちまう。なんたって、大事な商品様だからな」
「げぶっ……」
「おお、おっけーおっけー。それだけ元気があれば大丈夫だな!」
くそ……くそくそくそ……!
僕は意識を取り留めようと歯を食いしばって男を睨みつける。
その視線に気が付いたのか男はにやにやと笑うんだ。
「そんな見つめるなよ。大丈夫、この子が終わったらお前も続きをやってやるからな。それまで指を咥えて待ってろ! あ、指は縛られて無理か、ざんねーん!!」
「……むぅうう!! むううう!!」
「……ざっ……るな!」
ふざけるな。
言葉にしようとも、口は血まみれで呂律が回らない。
今すぐに飛びかかりたいのに身体は動かない。
痛み以上に拘束されていることで動けない僕を一瞥した後、男はゆっくりとルイににじみ寄り、ごつごつの指で彼女の背中をなぞる。
「ひゆぅ……!?」
ルイが、ルイが身体を震わせる。じたばたと暴れる足以外は固定されてて動けない。
「いいねえ。恐怖で支配されているこの感じ。そういえば、お前の時はまったく怖がってなかったな。やっぱりこの子みたいな反応が欲しかったよ!」
僕はお前が憎くて憎くて仕方なかったよ!
それすらも声に出ない。
きっと生の声が聞きたくなったのだろう。男はルイの猿ぐつわを外す。
「やっ……やめて! やだよ! こわいよ! シズクたすけて!」
ルイが喚く。予想通り男は笑って悦びだした。
聞いたことのない、聞きたくもないルイの懇願を僕は転がって聞いていることしか出来ない。
悔しい……!
悔しくて悔しくて涙が出た。
鼻水が出て、嗚咽も止まらない。
許せない許せない! なんでっ!
「ぐずっ……やべろ……やべでぐれ……ううっ……ああっ……!」
「シズク!? シズクぅぅぅっ!?」
「なんだ、泣いちゃったのか。おーい、大変だよルイちゃん! こいつ泣き出しちゃったよ! でも怖い怖い! 俺のこと睨みつけてくるんだ!」
チャラけて男はルイの背中に伸し掛かった。
ルイは悲鳴を上げるけど、僕は何もできない……!
男がルイの背中を舐める。
やめろ。それは……!
「それは僕のものだ……!」
男は笑って何度もルイの背中を舐めた。
「やだっ! やめて! きもちわるい!」
嫌がるルイに男は執拗もなく舐め続ける。
なんでなんでこんなことが許される。
この男はどうしてこんなことをして許される。
僕はどうしてここにいるの。
頭の中で感情が溢れるのに言葉にすることができない。
「シズク、たすけて……シズクっ! シズクたすけてっ!」
「ははっ、いいね。そういうの好きよ。すっげぇ興奮する! そうだ! いいぞ、もっと助けを求めろよ! でも、残念! お前はこれから無残にも俺に食い荒らされる“運命”だ!」
「……!」
(……運命?)
ぎゃははは、とルイに伸し掛かった状態で笑う、男の最後の言葉に僕はまるで胸の中に風穴を開けられたかのように何かが抜けていくのが感じた。
「…………ああ」
「あん?」
「これも……“運命”ね」
さっきまで満身創痍で痛みから呂律も回らなかったのに、すんなりと言葉に出来た。
そして、ただぽかんと口を開けて男を見つめた。
男は呆然とした僕を見て笑う。
今こいつは“運命”と言った。
ルイはこいつに慰み者にされるために今日まで日に当たることなく生きてきたことが運命――そう言うんだね?
ルイをむざむざと目の前で傷付け、奪われるのが――僕の運命だと言うんだね。
ははは……なんて乾いた笑いが漏れた。
(……ふざけるな)
どうして……どうして、今もあの時も僕から奪うのか。それも運命だから、か。
あの時の僕は瓦礫に潰されるのが運命だった。もう変えようもない。
じゃあ、今は?
僕がこんな限界の中で発狂しつつまだ理性が残っていることに驚く。
だって、今の今まで僕は保守的な考えを保っていたのだから。
だって、ここでこいつを殺したら、僕はこの場所を出ていかなきゃいけなかったんだから。
そしたら、ルイが独りになっちゃう。
守ってあげられないじゃん……。
「あはっ、あははっ、ははははっ!」
何を思っていたんだろう。
馬鹿め! 馬鹿馬鹿馬鹿! 大馬鹿野郎!!
自分自身を罵倒してもまだ足りない。
いいよ、もういい。
我慢はした。我慢はしたんだ。そして、男の暴行も受け入れた。なのに、男は約束を違えて僕からルイを奪おうとした。
――もう、僕から奪うな。
「はは、はははは……ははははっはははははっはははっ!!」
「し、シズク?」
「ん、なんだ。ついに壊れたか?」
我慢はしたんだ。ルイのために僕は我慢をしたんだ。
なのに、意味を成さなかった。ここでルイを壊されたら僕が我慢した意味はもうない。
ここでルイがこの男に乱暴にされて、これから先ずっとこの男の影を纏って長い人生を送っていく?
……ふざけるな!
笑いが止まらなくて身体の痛みも忘れて転げまわった。
僕の奇行を見てか、それとも目障りになったか、男はルイから離れた。
たぶんまた力を使って僕を黙らせるつもりなんだろう。
いいよ。黙らせてみろよ。ルイから離れてくれたことは僕にとっても好都合だ。
「ははっははははっ……はあ――もう限界だよ。いい? 僕から何も奪うな」
一通り笑い終えた後、僕は男ににっこりと微笑んだ。
身体の中にたぎり膨れ上がった感情が解放されていくような気がした。
怒りは熱となって僕の身体に血を送る。
不思議だ。痛みは、ない。
「ああっ、奪うな!? じゃあ、どうするっていうんだ? ええ!?」
男の言葉はもう耳に届かない。こんな男にここまで振り回されて本当にどうかしてた。
もう気にしなくていいと思うと心からほっと安堵し、解放感に包まれる。
同じく、ぞくり、と歓喜に身体が震える。
だって。
――今から、こいつを殺すことができるんだから。
「ねえ、ルイ」
「な、なに!?」
「おい、シカトか、こら!?」
僕はもうルイしか見えてない。
ルイは混乱してるのが目に見えてわかった。そうだよね。初めての時、僕も一緒だったよ。お揃いだね。
でも、考えたくもないけど、うん。ルイがもしも先に手を出されていたら……ルイは我慢できたのかな。
……ああ、いや、ううん、考えないでおこう。だって、ルイが手を出されず、僕が先に手を出された。
これが僕らの“運命”なんだから。
にっこりとルイに笑いかける。
「僕らさ」
ごめんね。ルイ。
2人の日々はこれで壊れちゃうけどさ、これもルイの為なんだよ。
離ればなれになるのは死にたくなるほど嫌だけどさ。
「――魔法、使えるよね?」
――ごめんね。
瞬間、僕は身体を縛っている紐に向かって火魔法を発動させる。
焼き切れた瞬間に両腕を強く開く。加減が出来なくて軽く服が焦げちゃったけど気にしない。
よいしょと胡坐をかいて肩を軽く回す。ああ、やっぱり痛いや。
でも、なんでこんな動けるんだろ。さっきまでちょっと身じろぐだけで激痛が走ったんだけどな。実際に、さっきまで虫の息だったし。
まあいいや。考えるのは後にしよ。
ルイの方も、僕を倣ってか縛っていた紐を焼き切ったみたいだ。
うんしょ、なんてかわいい声を上げてテーブルから降りた。
「な、お前、え? な、なんでこいつも、は? ど、どうして、は? 魔法? え? 呪文は? え、なんで、おま……」
僕はおもむろにルイに歩み寄り、同じくルイも僕へと駆け寄ってきた。
顔なんて涙でぐちゃぐちゃにしてさ。もうせっかくのかわいい顔が台無しだよ、と近寄り抱きしめる。
ルイも僕に身を任せて背中に手を回してくれる。
暖かい。ルイがここいる。僕のルイが……よかった。
「……ごめんね。ルイ、助けることが出来なくて」
「……いい。シズク、ぼくもごめんね。あのときのシズクのこと……こわくて……わかってあげられなくて……こわかったよね?」
「ううん、怖くはなかったよ。本当だよ。ただね、ずっと我慢してた」
恐怖はなかった。
その言葉に偽りはない。でも、強がりって思われちゃうかな……思われてもいいや。
こうして、ルイを壊されずにこの手にまた掴むことができたんだから。
「ルイ、ちょっと目を閉じてもらってもいいかな?」
「なんで? どうするの?」
「いいから、言うこと聞いて……ねえ、ルイは誰のもの?」
「な、なに、とつぜん?」
「いいから。お願い……聞かせて」
「ぼ、ぼくは……シズクのもの」
「うん、僕もルイのものだよ」
「う、うん!」
今まで意識してなかったけど、こうして並ぶと僕とルイの身長ってルイの方が高いんだね。気が付かなかった。
大変だったけど、見栄を張ってつま先立ちでルイの頭を撫でてあげる。
ちょっと頬を赤らめて恥ずかしそうにルイが目を閉じた。
僕はそっとルイから離れ、男を見た。
「おいおい、なんだってえ? ちょっと驚いちゃったじゃねーか。すげえな! お前たち魔法も使えるのか! すげえよ! なんだもっと早く言ってくれよ! それならもっと高く売れるじゃねえか!!」
男は興奮が止まらないのか顔を真っ赤にしている。
へへへ、と笑う男の声は先ほどまでの狼狽えっぷりが嘘のように消えて、目の中の光も性欲に溢れたものから別の欲望を灯していた。
「な、なあ、お互いに今までのことは水に流そうぜ。したら、俺だって態度を改めるよ! で、3人で一稼ぎしねえか! 最初は冒険者ギルドに行って魔物を狩って名を売って、そこから貴族に取り入ってもらって……あ、ああ、売るなんてしないしない。俺の手元に置いておく! この場所からも出してやる! なあ、いいだろ!?」
魔物? へえ、そんなのもいるんだ。でも、それは今どうだっていい。
男は金のことしか考えていない。これから自分の身に襲い掛かるものが何かもわかっていない。
まあ、いいかなって思う。
鬱憤は溜まりに溜まった僕がこれからやることはただ1つ。
――男に飛びかかることだ。
何をするのかは考えていない。何が出来るのかもわかっていない。でも、飛びかかればどうとでもなる気がする。
子供の無邪気な笑顔を意識して笑いかける。男も僕の笑顔を見てにっこりと笑い返してきた。
多分、承諾したとか思ったのかな。
「わかってくれたか!」
「うん」
そして、僕は男に向かって跳躍、同時に右腕を引き締め力を込める。
ピキン――と足元で音が鳴ったけど気にしない。
男がぎょっと目を開いて驚く様に笑みを浮かべる。
お互い様だよね。
僕は男の肥えた腹に向かって力いっぱい――
「……え?」
――右腕を突き刺した。
◎
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!」
男の叫び声に驚いて、ぼくはシズクとの約束を破って目を開けちゃった。
そこにはシズクが男の弛んだお腹に手を突き刺していたんだ。
「はは、はははっ……気持ち悪い感触……」
愉しそうに笑ってシズクは男のお腹から手を抜く。
男は床に倒れ自分のお腹を両手で抑えるが、
「いがぁ……ひあっ!? あっ、ががががっぎゃああぁぁぁっ!」
傷口が突如として燃え上がり、直ぐに火は男の身体を飲み込んだ。
じたばたとお腹を掻きむしってもき苦しむ男から、前に一度嗅いだことがある嫌な臭いが甘い匂いを押しのけるみたいに立ち込める。
「し、シズク……」
「ああ、ルイ。だめじゃないか。目を閉じてって言ったのに……」
「や、や、それより……」
ぼくはシズクの血に汚れた右腕を見て驚いていた。
シズクの右腕は黒いモヤに包まれながら鈍色の鉄板を重ね合わせたようなトゲトゲしいものを纏っていたんだ。
「うわ、何これ……手甲? 飛びかかればばどうとでもなるってこれのことだったんだ」
なんて、血が付いたままの右手を嬉しそうにシズクは見つめている。
まがまがしい。
ぼくが抱いた感想はそれだった。
けど、シズクは喜んでる。だから、ぼくは何も言えないままにその場で立ち尽くしている他になかった。
でも、シズクは……。
「あ……あれ?」
そう口にしてふらりと身体は傾き地面に倒れた。
「シズクっ!?」
慌てて駆け寄ってシズクに声をかけても返事がない。
ぼくはただ、呆然としてシズクの左手を握ることしかできなかった。
右手は、シズクが意識を失ってすぐに黒い霧に四散して元に戻っていた。
それから少しして、男の大きな叫び声にでも引かれたのか、他の奴隷たちが駆けつけ、同じ様に悲鳴を上げる。
誰も部屋に入ろうとはしない。ぼくはただシズクの隣で座り込むことしかできない。
「……大丈夫か」
その声に顔を上げるとイルノートがいた。
ぼくはほっとしてから意識を失った。
◎
「あの老いぼれ! 拾ってやった恩を仇で返しやがって!」
夜が終わった。
目を覚ました途端、ぼくはご主人さまに呼ばれて大広間に来た。
そこで怒っているご主人さまに怖気づきながら昨日の晩にあったことを説明した。ぼくは覚えている範囲でぜんぶ答え、ご主人様の顔が青から赤へ、そして青に戻ってまた赤くなった。
それから、長い時間をかけて黙ったご主人さまの最初の言葉がそれだった。
「く……殺人を犯した奴隷……俺の息子を……!? あいつは屑で仕方なかったし死んでも当然だった! だが、死人が出たなんて噂が出たなんて知られたら……他の奴隷たちに見られている……糞っ、拾ってやった恩を忘れて……拾……って? 俺が拾って……? ……ああ、なんだこれは! 頭が痛いっ、糞っ、苛々する! 奴隷たちの口をふさぐことは無理……信用が……俺が客の信用を得るためにどれだけ時間を……」
頭を掻きむしり、長い独り言を呟き続ける。随分と悩んでるようだった。
「あの……」
「なんだ!?」
びくり、と体を震わせる。
ぼくはさっさとこの場所から去りたかった。けど、そんなことを言える様子じゃない。
早くシズクのもとに行きたい。シズクがどうなったのか知りたい。シズクのもとに行きたい。
こんなことしてるよりもシズクに会いたい。あれから、シズクどうなったの?
……もしかして、シズクもういないの? シズク、ぼくをひとりにするの? そんなのいやだよ……。
涙がぽろぽろと出てきちゃうんだ。
「あ、あの、失礼します!」
守衛の人が重い扉を開けて現れた。
焦っているようで、機嫌の悪いご主人さまがきっと睨みつけてもすぐに近寄り、そっと耳打ちする。
「な、なに!? グラフェイン卿のご子息だと!? ほっ、本当か!? なんでこんな時に! わかった、直ぐに行く! 俺が相手をしている間に奴隷たちには奴隷市の準備をさせろ!」
慌ててご主人さまが踵を返す。かなり焦っているみたい。誰か来たみたいだけど……そんなことどうでもいい。今はそれよりもシズクのことだ。
「あの!」
ぼくは残った守衛さんに声をかけた。
「シズクはどこ!?」
「……あいつは物置部屋で隔離されている。お前もさっさと部屋に戻れ」
それを聞いてぼくも同じように重い扉を背にしてシズクのいる物置部屋へと駆ける。
後ろからちりんちりんちりんと乱暴に鐘が鳴った……呼び出しの合図だ。鳴った回数は3回。お客さんが来た時の合図だ。
いつもなら部屋で服を脱いで大広間に行かないといけない。
でも、ぼくはシズクのもとに行きたい。
部屋から出てくる裸の奴隷の人たちとぶつかりそうになりながらもぼくは走る。
「シズク、シズクシズク……シズクっ!」
昔ぼくたちがいた部屋の扉を乱暴にあける。
入ったところで何かにつまずき、転げそうになりながらも踏ん張って前に。姿勢を崩しても前を向き続ける。
だって、ぼくはシズクを見つけたから。
隅に置かれた四角形の檻の中にシズクは横たわっていた。ぼくらが赤ちゃんの時に過ごしていたあの檻の中だ。
「シズク!」
飛び付くように檻の中へと腕を伸ばし、格子越しのシズクに手で触れる。
身体は冷たい。目は開けてない。顔は真っ白。部屋の薄暗さと彼の真黒な髪にも負けないくらい白が目立つ。さらに茶色い染みみたいのがシズクの顔についてる。せいいっぱいに腕を伸ばして触ってみるとぱりぱりと剥がれて指に付いた。固まった血だ……怪我!?
「シズクけが!? たくさんけられてた! くるしそうだった! は、はやくちゆまほうで!」
「安心しろ。治療ならすでに終わった。随分と痛めつけられたみたいだな」
突然かけられた声にびくりとしながら振り返った。
そこには壁に背を預けて座っているイルノートがいたんだ。彼の赤い目がぎろりと光って見えた。
「イルノート!? ずっとみててくれたの!?」
「……あんな状態で放っておけるわけにもいかないだろう。そこまで人体については詳しくはないが、素人目にも危なかったしな」
「ありがとう……イルノートありがとう……」
ほっと安心したら、ぽろぽろと涙が流れる。
「……招集がかかっているがお前は行かないのか?」
「いかない。シズクのもとにいる」
「後で罰を与えられるぞ」
「それでもいい。シズクをのこしていけない」
「そうか……」
イルノートだって立ち上がろうとしない。
そっけないけどやっぱりイルノートだって心配なんだ。
◎
ぼくはシズクのいる檻格子に背中を預け、シズクが起きるのを待ち続けた。
罰がどんなものかは知らない。他の奴隷の人も受けたところは見てない。それだけ皆ご主人さまの命令には素直だったもん。
シズク、いつも言ってたもんね。できるだけ周りに逆らうなって。
……でもね、シズク。ぼく背いちゃったよ。ご主人さまの命令逆らってまでシズクのもとにいたいって思ったんだよ。
ねえ、シズク……。
ぼく、もっとシズクのそばにいたいよ。
シズクのこと知りたいよ。
だから、って言うのかな。
「……イルノート、あのね……まえにもね。シズク、がね。あのおとこのへやのにおいつけて、もどってきたことがあったんだ」
「そうか……そんなことがあったのか」
ぼくは顔を上げて目の前にいるイルノートに聞いてみた……ぼくは何を話してるんだろう。
それはきっと聞いちゃいけないことだと思うの。でも、ぼくの口はぼくの気持ちとは別に開いていくんだ。
多分、ぼくが縛られたあの先の事をシズクはあの男にやられたんだと思う。でも、それがどんなものかぼくはわからない。だけど、あの夜のシズクの変わり様は……。
それだけひどいことをされてきたんだと思う。
「もどってきたときのシズク、すっごいこわかった。きっとひどいことをされたんだ……ねえ、シズクはあのおとこからどんなことをされたんだろう? イルノートは、わかる?」
「……ああ。薄々は、な」
イルノートは冷たい声で頷いた。
そっか、イルノートは知ってるんだ。
「きいちゃ……だめ?」
「駄目だ」
「どうして?」
イルノートの顔が歪むのがわかった。
「もしも、お前がシズクのことを大切と思っているなら……」
「……うん」
「シズクのために聞かないことを選べ」
「みんなして、ずるいよ……」
ぼくはシズクに手を伸ばしても、投げ出された手に触れることしかできない。
本当ならいっしょにこの檻の中に入ってぎゅっと抱きしめてあげたい。でも、出来ないよ。
前はいっしょだったこの箱、蓋が開いてないんだ。ぼくの力じゃ開けることもできないんだ。
この隔たりが今のぼくとシズクの距離なんだ。
どうせなら、ぼくもシズクが受けた痛みをいっしょに受ければよかったのかな。
そうしたら、シズクの気持ちをわかってあげられたかな。シズクがこんなことにならなかったのかな。
ぼく、わからないよ。シズク。
まだ子供なぼくにはわからないことが多すぎる。でも、シズクは知ってるんだね。
ぼくよりもちょっと年下なのにぼくよりも物知り。ラゴンに教えてもらったの? ぼくに内緒で教えてもらったの? 辛いこと教えてもらったの?
シズク、たまに辛そうな顔をするよね。夜に怖い夢を見てうなされていることも多いよね。いっしょにこの場所で生きてきたのに、なんでシズクはそんなに辛いことを知ってるの。なんで辛いこと知ろうと思ったの。
知りたいよ。ぼくはまだわかんないけど、わからないことをわかるようにしたいよ。
ねえ、シズク。ぼくにもシズクの辛いことわからせてよ。
「……」
でも、目の前のシズクは何も答えてくれない。
ラゴンがしんだ時みたいに、全く動かないんだ。
イルノートは大丈夫って言ってたけど、本当に大丈夫なの?
ねえ、シズク。本当は起きてるんじゃないの? ねえ、シズク。意地悪しないでよ。また、すねちゃうよ。ぼく泣いちゃうよ。
――そしたら、いつもみたいにぼくのこと慰めてくれる? あの日みたいに、背中を擦り続けてくれる?
「……」
……シズクは、答えてくれない。
「うぅ……うう……シズク……やだよ……いっしょにいてよ……さきにいかないでよ……ぼくのことおいていかないでよ……」
でも、シズクはやっぱり答えてくれなかった。
寝たふりをする意地悪なシズクに悔しくて悲しくて、ぼくは泣くことしかできなかった。
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