第11話 ただの八つ当たりだ

「……しっかりしろ」


 暗闇に音が降り注いだ。音は波紋のように響き渡り、次に体を揺さぶられる振動で僕は意識を取り戻した。

 はっと目を見開く。

 夢か。嫌な夢を見た。男に乱暴される夢、悪夢……だったらよかった。どれだけよかったか……これは現実だ。

 現実である証拠に拘束を解かれ床に転がされていた僕の近くに、その男が仰向けになって気を失っていたのだ。


「……っ!」


 男の胸は上下に動く。呼吸をしている。

 

 そのことが許せなくて、僕の胸の中はどす黒い感情に塗り付けられていく。

 真っ暗なものは僕にささやく。


『こいつは生きてちゃだめだ。殺さなければ大事なものを奪われる』


 頷いた。

 僕自身が生み出した歪な意志による命令を疑うこともなく従う。

 もう奪われるのはまっぴらごめん。

 この男は殺す。殺さないと大事なものを、ルイを壊される。

 壊される前に――先に壊す。

 

 どうやって壊すかは考えてもいなかった。

 殺し方もわからなかった。

 でも、飛びつけば気がした。

 だから、疑うことなく声に従い男に飛びかかろうとする。同時に右腕を引き締め……左腕を誰かに掴まれ制させた。


「誰だっ!」


 邪魔をされたことに腹が立つ。すぐさま標的を腕を掴んだ人物へと変え、襲い掛かろうとして――やっと我に返った。

 イルノートがそこにいた。


「……っ……ぁ……イルノート、さん……」

「さんはいい。……すまない。発見が遅れた」


 イルノートはそう言うと近くに落ちていたぼろきれと僕を抱きかかえて部屋の外に飛び出ていった。

 僕をぎゅっと胸に包み、音もなくイルノートは走った。

 床を踏み込む足の音も聞こえないほど彼の走りは静かだった。




 有無を言わさず僕を連れ出した着いた先は大広間だった。

 明かりのないこの部屋でイルノートは僕を労わるように優しく降ろし、うつ伏せに寝かされる。

 彼は僕の耳に僅かに届く程度の掠れた声を上げて一説言葉を紡いだ。


『闇を照らす光よ。僅かばかりの灯火をお渡しください【ライト】』


 そう彼が言葉を発すると、宙にビー玉くらいの淡い光の粒が3つ浮かぶ。生み出された光は寝ている僕の真上に留まり仄かな光量と化して周りを照らす。

 次に僕の頭に手をかざす。また一説呪文を唱えた。


『癒しを与える光よ。その恩恵を与えください【ヒーリング】』


 僕の頭にかざされた手が淡く薄緑色に光りだす――治癒魔法を施してくれているようだ。

 頭から首、背中から腰、そしてお尻へと手を向けていく。

 薄緑色の光に触れることでやっと自分の身体に痛覚があることを知って、そして消えていった。

 治療を施される間、忘れていた感情があふれ出す。

 悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。


「あいつ……僕がやらなきゃルイに手を出すって……だから……!」

「わかってる。それ以上、何も言うな」


 そう言って彼は僕の口を治療に当てている方とは別の手で遮った。

 悔しいけど、彼の指示に従い憎悪の音を喉の奥に飲み込むことにする。

 悔し涙だけは、引っ込めることは出来なかったけど。


「……っ……でも、どうしてイルノートさ……イルノートはここに?」

「……ルイに頼まれたんだ。お前が帰ってこないってな。最近の事件のこともある。……嫌な思いをしただろう」  


 そう言ってイルノートは治療が終わったのか、素っ裸の僕へとあの部屋から持ち出したボロキレを手渡してくる。

 僕は泣きながらイルノートが持ってきてくれたぼろを手に取った。僕がいつも着ている服だ。

 切り裂かれほとんど原形を留めていない。着るというより体に引っかけるしかない。


「くそっ……!」

「こんなことを言って慰めになるとは思わんが……私があの部屋に入ったのは管理人が最中だった。すぐに魔法を使って男を気絶させたが、その時にはもうお前は意識がなかったが……」

「最後までいかなかったから安心しろって? ふざけるな! 気休めにもならないよ!」


 床を殴りつける。こんなことで怒りが消えるはずもないのに。どん、どんと、僕の小さな手は赤く腫れ上がる。

 ただの八つ当たりでしかなかった。


「あの男は絶対殺す、殺す! あいつは絶対に僕が殺してやる!」


 飲み込んだ音は我慢できず僕の口から吐き出す。僕はもう一度床を殴った。

 拳の痛みはますますあの男への怒りへと変わっていくようだった。


「すまない……」

「あや――」


 謝るな! もっと惨めになる!――なんて、罵声を浴びせようと、彼を睨みつけようとしたところで、僕は声は失った。

 深々とイルノートは僕に頭を下げていたんだ。

 両膝をつき、両手を前にそろえ、頭を床に付けていたんだ。


(……こんな、こんな、子供になんてことをするんだ)

 

 この世界にも土下座という謝罪方法があるのだろうか。

 どっちにしろ、頭を下げることが謝罪としての意味合いを持っているのだろうというくらいは今の僕でも理解できる。そして、こんな5歳にも満たない子供にする行いとしては十分すぎる謝罪であることも。

 真摯に頭を下げた彼の姿勢を目の前にしたら、振り上げた腕を落とし握り込んだ弱々しく拳を開くしかない。

 なんで助けられた僕がイルノートに謝られてるんだ。


「……いや、悪くない。ごめん、八つ当たりして。イルノートは悪くない。あいつが悪い。自分は襲われないと高を括っていた僕も悪い……」 

「だが、私はお前を助けることができなかった……ベルフェオルゴン様からのご命令であったというのに……」

「……ベルフェオ……ルゴン様……?」

「……それは」


 イルノートがしまったとばかりにばつの悪い顔をした。

 なんでもない……そう言いつつもイルノートは綺麗な顔を歪ませて、

 

「……すまない。今は、まだ話せない。もう少し、お前が大人になったら……全てを話す。だから……それまで、待ってくれないか……」


 そうイルノートは口を開いた。





 イルノートに見送られる形で僕は大広間を去った。足取りは重い。

 一歩進んで立ち止って、大広間から直ぐそこである自室までの数メートルにかなりの時間をかけた。

 十分に時間をかけてたどり着いた部屋の扉も重く感じる。まるで後ろから誰かが引っ張って開けるのを邪魔しているのかと思った。重いと感じるのは僕の心が弱っているからだ。

 部屋の中は出る前と同じで真っ暗なのに、いつも以上に暗く感じた。


「だれっ!?」


 そう、僕が扉を開けた暗闇の底から悲鳴みたいな声がかけられる。寝具の上でシーツに包まれて身構える少女のものだ。

 ルイ。

 ルイだ。

 僕が今一番大事に思うもの。誰にも渡したくないもの。掛け替えのないルイだ。

 僕は居てもたってもいられなくて寝具の上にいたルイに駆け寄り抱きしめた。


「いや! やめて! だれ、だれなの!?」

「……ルイ、僕だよ、シズクだよ!」

「……シズク? シズクなの!? いままでどこにいた――なにそのかっこう!? ふくがやぶけてるよ! どこかけがでもしたの!?」


 こんな真っ暗なのに、ルイは今の僕の姿がはっきりと見えているみたいに言う。

 心配させたくないって僕は首を振る。


「……ううん、なんでもない。なんでもないよ。ルイは心配しなくていいんだよ」

「なんでもないわけないよ! シズク、そんなかおしてなんでないなんてうそだよ! それになんかへんなにおいするよ!」


 思わず腕を鼻に近づけて嗅いでみた……あの部屋の臭いがする。

 甘く、濁った臭い。あの部屋の、あの男の臭い……吐き気がする。

 この臭いを嗅いだ途端、僕は深く汚い泥に飲まれそうになる。

 泥は部屋に戻るまでの数メートルで落ち着かせた気持ちを容易く染め直していく。


「このにおい……ラゴンのへやのにおい……なんでシズク、あのへやの――」 

 

 言い終わる前に僕はルイをもっと強く引き寄せ、前のめりに押し倒した。

 ルイに伸し掛かるように横になり、彼女の首元に顔をうずめて臭いを嗅いだ。


「……っ!」


 びくん、とルイが驚いて身を震わせる。

 この身体にまとわりついている臭いを上書きしたかった。ルイの臭いで上書きしたかった。

 だから、僕はルイの臭いを嗅いだ。

 深く口で息を吐いて、すーっと鼻で息を吸う。

 

「シズクっ!?」

 

 ……ああ、これがルイの臭い。


 こんなにも近くで人の臭いを感じたのは初めてかもしれない。

 ちょっと汗っぽく、でも柔らかな甘いにおいがする。身体を洗う機会なんて滅多に無くて、だけどルイの身体は優しくも乳臭い香りがする。

 あの部屋の記憶を飛ばすように僕は鼻をルイの首に何度もこすりつけた。


「ちょ、ちょっとシズク!?」


 我慢できずぺろり。首元に舌を這わせる……しょっぱい。


「……ひゃ……っ!!」


 ぴくりとルイの身体が震えた。

 その反応が可愛くてくすくすと笑ってしまう。

 可愛いな。ルイはとっても可愛いや。


「……誰にも渡したくない」

「し、シズク……や、やめて……くすぐったいよぉ」

「やだ」


 いつも元気で強気で年上ぶるルイが僕の下で弱々しい声で鳴く。

 抵抗して僕を押しのけようとする片手を握り締めて外に流す。僕とルイの力は同じくらいだと思うけど、この時ばかりは僕の方が勢いに勝っていたのかもね。指を絡めて握るとルイも力いっぱい握り返してくるんだ。

 こんなにしおらしいルイは初めて見るかも。

 ちょっとイジワルそうに、顔を合わせて微笑んで見せる。


 僕だけのものにしたい。

 ルイ。僕のルイ。


 僕は彼女の髪に手を差し込み、撫でるように触れる。


「綺麗だな……」


 あの世界じゃ染めない限り見ない青くて細い髪。でも、これは彼女の地毛なんだ。指を通すと引っ掛かりもなくするりと抜ける。

 でも、指を擦るとちょっと油っぽい。ここから出たら僕がちゃんと洗ってあげよう。

 ちょっと顔を下げて、尖端の長い耳。

 これもあっちの世界じゃ漫画やゲームの世界でしかなかった。天人族の証でもある長い耳……はむっと先っぽを口に含む。


「ひゃあっ!?」


 唇で甘噛み。軟骨をこりこりとする。甘噛みに釣られてひくひくと唇の間で耳の先が動く。

 自由に動かせるのかな。多分、反射の一種だと思うけど、もっとイジワルしたくなる。


「ルイ、耳が動いてるよ。くすくす……犬とか猫みたい。ルイもテトリアみたいに亜人族なんじゃないの?」

「ちが……! うごかしたくてうごかしてるわけじゃ――」


 否定なんてさせない。

 歯を立てて軽くちょっと力を入れて噛む。


「いたいっ!」

(ああ、悲鳴を上げるルイに何か目覚めそう……)


 ルイの悲鳴は僕の嗜虐心を煽るんだ。

 そのままルイの顔にまたも自分の顔を近づけて彼女の瞳を覗き込んだ。

 真っ赤でルビーみたいな瞳。目元は潤んでいて泣きそうだ。困惑で揺れる視線で僕を見る。

 でも、それが堪らない。

 堪らなく、愛おしい。

 そっと、彼女の顔に近づき、反射で閉じた瞼に自分の唇を落とす。

 またぴくりって反応がいちいち可愛くて仕方ない。


 (……は僕のものだ。ルイを僕のものだと周りに見せつけたい)


 そんな自分勝手な独占欲が湧きたってきたら、面白いことを思いついた。

 首元に戻って唇を押し付ける。

 そして……強めに首筋を吸い上げた。


「……やぁ……っ!」

「……こんなものかな」


 部屋の中は真っ暗だと言うのに、先ほどのルイと同じくどうしてか今の僕にはよく見えた。ルイの首には赤い小さな痕が付いている。

 真っ暗な部屋なのに、僕の目はルイの白い肌に咲いた小さな蕾が見えた。


「……なるほどね」


 あの男が背中にキスマークを付けていた理由がわかった気がする。

 これは自分の名前を付けるようなものだ。自分の所有物だって印みたいなものだ。

 男は自分が手を出した獲物に自分の証を残したんだ。それが一時的なものだとしてもね。


「……っ」


 ……けど、それを悟ってか苛立ちが蘇ってくる。

 あいつは僕の身体に名前を付けたんだ。

 それ以上のこともした。

 許せない……けど、頭の中で男を呪うことしかできない。相手に害の一つも及ぼせない憎悪程度ではこの衝動が収まるはずもない。

 だから……僕はこの苛立ちを目の前の少女にぶつけることにする。


「ねえ、ルイ……ルイは誰のもの?」

「……ぼ、ぼく? ぼくのものだよ?」

「違う。ルイは――」


 きゅっと強く手を握る。首筋を、自分でつけた名前の上をぺろりとまた舐めた。


「ひぃぅっ!」

「――僕のもの、だよね……?」

「ぼく……は……シズク、の……もの……?」

「うん、もう一度言って?」

「ぼくはシズクのもの!」

「そうだ、ルイは僕のものだ!」


 そうして僕はまた彼女の首元に唇を押し付けて吸い上げる。

 さっきよりも強くきつく吸い上げる。


「いたい! いたいよ! シズクやめて!!」


 今度は紫色に変色するくらい吸い上げた。

 ちょっと可哀想だったかな?

 優しくぺろりぺろりと何度も僕が残した痕を舐めてあげる。

 ずっとこの痕が残ればいいのに。でも残念だけど、これはいつか消えちゃうんだ。だけどさ。

 これから先、消えないように毎日刻み続ければいいんだ。

 だって、ルイは僕のものなんだから――


(そうさ。ルイは僕のものだ。これは絶対に渡さない。誰にも、誰にも渡さ……)


 ――チャラ。


 ……ふと、金物のこすれる音が聞こえた。

 舐めている最中に舌が小さな鎖をに巻き込んでしまったらしい。


「これは……」


 僕は呆然と舌に触れたものを見た……ラゴンからもらったペンダントを見た。

 そう、ルイの髪みたいに青い石のついた僕とお揃いのペンダントを僕は見て――。


「ラゴン……あっ……!?」


 ようやく彼女の弱々しい拒絶の声を僕の耳は拾い上げた。


「……やだ、やだよぉ……シズク……こんなの……やだぁ……」


 嗚咽を漏らしながら拒絶するルイ。

 顔を涙でぐちゃぐちゃにして僕に抱き絞められたまま動けずにいる彼女を見て……僕は正気を取り戻していた。

 

「ルイっ!?」


 慌ててルイの上から退いた。握った手も放して……でも、どうしていいかわからず、彼女に手を伸ばす――けど、びくっ! ってルイは体を震わすんだ。

 その場で体を守るみたいに丸まって震えながら嗚咽を漏らしていくんだ……。


「ご、ごめん。ぼ、僕……ル、ルイ……ルイ、ご……めん。どうかしてた。僕、ルイをいじめたくなっちゃって……ごめん。ごめんね。怖かったよね……」

「し、シズクぅ……ぼ、ぼく、こわかった……もうあんなシズクやだよぉ……」

「うん……ごめんね。ごめんね。ルイ本当にごめん……」


 それ以降ルイが嗚咽以外で言葉を発することはなかった。

 背を向けて僕を拒絶する姿にどう言葉を投げていいのかもわからない。僕は彼女が眠りつくまでずっと彼女の背中を擦ることしかできなかった。

 何度もごめんと謝っても、ルイは一度として僕への拒絶を止めることはない。


 擦る手だけは、拒まれることはなかった。





 結局一睡もできないまま朝を迎えたようだった。

 朝になったことに気が付いたのは、部屋の外から大人たちが動き出す音が聞こえてきたからだ。朝になってもここは暗い。この世界に陽の光が射すことはない。

 眠気はあった。でも、眠気よりも強い興奮と懺悔に苛まれていた。


 実のところ、冷静になった後でもルイへの衝動や渇望といった黒い感情は捨てきれなかった。けど、目が覚めた分、抵抗することができた。

 ルイへの執着を抑え込むのに朝までかかっただけの話だ。この時ばかりは本当に死にたくなる。けど、死ぬわけにはいかない。


 睡魔が襲い掛かってくる。

 そろそろルイを起こして朝ごはんに向かわないと。それからいつもの仕事が待っている……。

 大きな欠伸が出た。






 数日が経った。

 この間に一度奴隷市が開かれ、いつも通りの日課になるはずだったけど、若干違うことも起こった。


 1つに、部屋に待機してる時、僕とルイは言葉も交わさずに距離を取るようになった。寝具の上で来客を告げる鐘の音を待つ僕らの間に1人分の隙間が開いていた。シーツはルイに使ってもらうことにした。


 もう1つに、僕の値札に数字が書き込まれていた。

 8リット金貨。

 ルイは依然として何も書かれていなかった。僕だけだ。

 多分、あの男がご主人様オーナーにでも言付けたんじゃないかって考えている。僕を早めに売ってしまおうってことじゃないかな。

 幸か不幸か、僕を買う人はいなかったけどね。

 お金持ちのマダムが僕のことを大変気に入ってたけど、やっぱり8リット金貨に少し苦い顔をしていた。交渉しようにもそこから先はご主人様なりの線引きがあったんじゃないかとは思う。結局、そのマダムは何も買わずに出て行った。


 市が終わった次の日、いつもなら僕の隣に並んでくれていたルイが、あの一件があったせいか、僕からちょっと離れて前を歩く。でも後ろ姿はそわそわして落ち着きがなく、たまにこちらをちらりと振り向き、僕と目が合うとすぐに前を向いた。

 ルイと喧嘩した日は大体こんな感じになるんだけど、いつもならその日限りで終わるんだ。でも、今回は長引いてる。

 正直、僕は参っていた。


「……ルイ」

「……っ……な、なに?」


 声をかけるとびくり、と背を震わせ、恐る恐る僕の様子を窺うような表情をする。

 はあ……やっちゃったな。


「ルイ」

「……なに、シズク」


 僕は小走りにルイを追い越して彼女の前に立つ。びくり、とルイが怯えるような反応を見せる。

 彼女の目と視線を合わせると明後日の方向に移動する。

 全部が夢だったらよかったのに。

 でも、やっぱり現実だ。

 でも、ルイの首元にまだ赤い痣が残ってるように見えた。僕にだけは見えている。


「ルイ、ごめんね……僕のこと嫌いになった?」

「きらい……だいっきらい!」

「そっか。うん、ごめんね……」


 だよね。わかってたけどね。

 ここまで拒絶されるのは初めてだ。大っ嫌いなんて喧嘩するたびによく言われたけど、今回のは今までとは異質なものに感じてしまった。

 これは本気で拒絶されたかもしれない。

 睨みつけるルイの視線から目を逸らして、僕は前を向いて歩きはじめる……。


「……けどっ!」


 僕の足は止まった。

 ルイが後ろから僕に抱きついてきたからだ。


「だいすき! ぼくはシズクがだいすき! けど、だいっきらい!」

「……どっちなの?」

「うるさい! ぼくはシズクなんてだいっきらい! でも!」

「でも?」

「……シズクはぼくのものなんだからね!」


 ぷっと吹き出してしまう。

 ああ、嬉しい。色々と悲しみとか戸惑いの色を含んだ声質なのに、いつものルイを久々に見れた気がして、僕の心が悦んでいるのがわかるんだ。


「なにがおかしいの!?」

「ううん、ごめんごめん。じゃあさ」


 僕はそのまま背後から抱きつかれた状態で聞いてみる。


「ルイは誰のもの?」

「う……」


 びくり、とルイが体を震わせる。

 あ、馬鹿だ。ついやっちゃった……。

 なんでこんなこと言っちゃったんだろう。あんなにも反省してたのに、わざわざほじかえすような真似をした。

 あの晩のことはルイにとって恐れでしかないのに。いつもの調子で聞いちゃったんだ。

 本当に僕は馬鹿だ、けど――。


「……のもの」

「え?」

「ぼくはシズクのもの!!」


 そう叫んでルイは僕を置いて走り出し、僕たちの部屋へと飛び込むみたいに入っていく。扉を開けて部屋の中に入る時に見せた彼女は、今まで見たことないほど耳を真っ赤にしていた。

 後ろ姿からでもわかるよ。ルイの真っ赤な耳は青色の髪から飛び出ているんだから。

 それがとてもかわいくて仕方ない。思わず、微笑んでしまう。


 ……でも、反省だ。

 今回の件は、彼女を傷つけてしまった。あんな丸まって泣きじゃくる彼女なんてもう見たくない。

 そして、この時からふと……僕は思うようになっていくんだ。

 ルイは今の僕にとって生きる意味である。ルイがいたから僕は立ち直れた。この何もない世界で唯一の拠り所がこの幼い少女でもある。

 けれど、それにしたって依存し過ぎているような気がする。

 だから。


 僕はルイから少し距離を取った方がいいんじゃないだろうか。

 少しずつ手を放していかないといけないんじゃないだろうか。


 お互いのためによくない。これから先、どちらかが先に購入され別れを迎える時、僕が、ルイがいなくなって独りになった後のことも考えないといけない。本当ならルイといつまでも一緒にいたいと思う。

 でも、一緒にいたいなんて淡い願いが許されないのがこの世界での僕らの立場なんだ。


「ちょっと寂しいな……」


 ぽつり、つぶやく。

 この世界で生まれた時から一緒だった存在だ。片割れとも言うべきものと別れを迎える日はそう遅い未来じゃない。明日にも、いや昨日にだって別れが訪れていたんだ。


(ルイとの別れを迎える時、僕は他の子供たちの時みたいに同じ態度でいられるんだろうか……)


 頭を振り、ルイの後を追って部屋に入る。

 今の僕に出せる結論なんて無理ってことだけなんだから。





 ――もしも。


 もしも、この時、僕がこの場所にあと数秒でも留まっていたら違った未来が待っていたのかもしれない。

 もしも、数秒この場所にいて周囲を警戒していたら、あの嫌な臭いが漏れていたことに気が付けたかもしれない。

 もしも、警戒を強めることができたら、もしかしたら別の結果が訪れていたのかもしれない。


 でも、もしもなんて言葉は終わった後でしか言えないんだ。

 自分の部屋の扉を少しだけ開けて、先ほどまでの僕らのやり取りを見ていたなんてこと、数秒前の僕らが知る由もなかったし、


「……今夜だな」


 口元を歪めて笑う男の声も届かなかったんだから。

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