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 そのまま深夜を越えてもマベルは目を覚まさなかった。深すぎる眠りは逆に気遣わしいが、最近はまとまった睡眠を取れていないようだったと聞かされれば納得は出来た。結局莉央が自室に戻ることが出来たのは日が変わってからだった。


 ヤンナはマベルの部屋を出る前に、側仕えのゆったりとした服をシンプルな黒の上下に着替えていた。軍人とはいえそれほど筋肉が目立つ訳ではなく、着痩せもするのかスラリとした背中のラインが目立つ。身長が高いうえに姿勢が良く、また単純に顔立ちも整っているので、装飾がないほうが逆に美しさは際立つ。


 少なくはない雑誌の企画取材などで芸術に造詣が深いらしい男性芸能人と対談をしたことがある。中には海外のアーティストもいた。立場上莉央は人よりそういった特別な人間に会う機会が多いかった。しかしその中でもヤンナの容姿は飛び抜けている。


 個人的な好みはともかく、見目だけならばヤンナはエルヴィラとも引けを取らない。ただ二人には決定的な違いがある。立場と立ち居振る舞い、つまり前に出る人間、出ない人間の差だ。自身を物事の中心に据え置く者は、控える立場の人間よりも際だってみえる。それでなくてもヤンナは存在感を消すのが上手い。ネルといるときも必要不可欠なことのみ発言し、後は黙すばかりだ。


 うまく聞き出せるのか、長い会話は続けられるのだろうかと不安を持ちながら廊下を抜け王族の私室に近い自室へ足を進める。時間帯は遅いが一人ではないので警備の兵を警戒する必要はなく、その点でいえば多少気が楽だった。


 およそ軍人らしからぬ風貌の男を部屋に通すと莉央はソファを勧め茶を入れた。以前はヤンナにしてもらったが、今では自室にすっかり馴染み、この程度のことならば自分で出来るようになった。


 ネルと一緒に来た時には随分と莉央を立ててくれたが、上司がいないせいか特に遠慮もせずヤンナは椅子に掛け、出された茶に口をつける。引っ込み思案な莉央としては遠慮をされるとかえって気を遣うのでそのくらいの方がやりやすい。


 自分の分の茶を入れて、さほど大きくはないローテーブルでヤンナと向かい合う。とはいえ、視線は随分上を向いた。百五十センチそこそこの身長の莉央にとって、その顔の位置は近い距離とも相まって一層高くなる。


「あの、ヤンナさんって昼間は軍のお仕事をされているんですよね。それで夜はマベル様のお世話もなさっているんですか」


 聞きたいことを切り出せずに、まずは世間話をふる。それでも知りたいことのうちの一つだ。ヤンナの立ち位置が今ひとつ掴めない。優雅な仕草で茶を口に含み、ゆっくりと嚥下するさまは随分とリラックスしているように見え新鮮だった。


「私は統轄する立場ですので、現場よりは内務が主となります。会議が多く時間は取られますが、書類作成は専門の部下の仕事ですから内容の把握だけならばそれほど手数ではありません。軍の訓練についても私が一日就くことは稀です。アオイが入隊したばかりのころはチャルやショウナもおりましたからしばらく様子を見ましたが、今ではその必要もないので多少時間に余裕があります」


 上の立場の人間であればそれも当然かと納得する。何故か軍では上下なく皆で体を鍛えているというイメージを持っていたが、ヤンナは近衛師団の師団長である。指揮系統のトップが一般兵と一緒に汗水を流す必要はない。


「以前ルイトカ様からも話があったと思いますが、近衛の中でも第一師団は王族のための部隊との位置づけが大きく、表には出せない業務についても執り行います。マベル様についているのもそれです。マベル様がリオ様のご訪問を受けていることは公に出来ないものですから、そのときには他の者を下がらせ私が小間使いのようなこともいたしましたが」


「でも私、いつもなんの連絡もなくお邪魔していますよ」


 突然の訪問に対してはずいぶん周到な気がした。訪れる日にちや時間は一定ではない。もちろん莉央の訪問は毎回夕食後と言う括りがあるので毎日マベルの側に控えているのならばそれほど不都合は無いのかもしれないが、すれ違う可能性だってないとは言い切れないだろう。


「私はマベル様のいらっしゃる西南棟に私室をいただいております。リオ様が外出される際にはシイナ殿から連絡がありますからすぐに応対できるのです。監視というほどのものではありませんが、何かあった場合に備えて必要な行為だとご理解ください」


 行動を把握されているのはシイナに外出が知られていると分かった時からある程度予想はしていたので驚きはしなかった。莉央の立場を考えれば当たり前だ。鍵もない部屋に閉じ込めているだけでは簡単に逃げ出すことが出来る。希少なバロックの中でも稀なインタージャーを野放しにするはずがない。しかしそもそも葵と離れてまで一人城から逃げ出すなどという選択は思いつきもしなかったので、必要のない労力を掛けてしまったなどと却って申し訳ない気になり、そんな性分に我が事ながら嫌気がさした莉央は隠れてため息を吐いた。


「マベル様と時を同じくしてエルヴィラ様もご体調を崩されています。その影響でルイトカ様の様子も芳しくはないようです」


「影響?」


 どういった類のものなのか、全く想像がつかない。伝染病にでも揃って罹患したということだろうか。目立った症状がないとはいえマベルは辛そうだった。心配そうに眉尻を下げた莉央に、ヤンナは静かに微笑む。


「建国神話をご存知でしょう。風を鳴らし、水を裂き、炎をけぶらせ地を這い回る忌まわしきマベルの力。この一節はとても有名なものです。この国の人間であれば、学は無くとも暗唱出来るくらいに。それを手に入れた男とはどんな人間だったと思いますか。そんな力を手に入れて、まともでいられるものでしょうか」


 突然の話題転換はこの国の人間の独特な言い回しなのかも知れない。婉曲に話を切り出し、相手の答えを待つ。ネルもそうだった。そして教師であるディノも。すでに慣れている莉央にとって戸惑うようなものではないため真意を探ることもしない。少々回りくどいがすぐに分かる。話の腰を折らないのが結論への一番の近道なのだ。


 建国神話についてはこの国の出身ではない莉央も何度か聞いている。エルヴィラから、ネルから、ディノの講義の中にも出てきたし、魔法施設長カイトとのやり取りの中でも何度か取り上げられている。


 男は強大な力を以って大陸を薙払い死地とした。しかし強大な力は徐々に手に余るものになり、そして。


「人の体を手に入れたマベルは、それを手放すことをしなかったと聞きました。その時点でもう、受け入れた男に自我はなかったんじゃないですか。その力に本当に意思があったのかは分かりません。でも少なくとも最初の思惑とは離れた場所を目指し始めた時点で、もう正気ではなかったんだと思います。元々自分たちから戦争を起こしたわけじゃないんですよね。豊かな土地を奪い合う人々を収めるために起こした行動だったから、癒しと再生の力を持つインタージャーは、その力を超える破壊を行うマベルを……、神と呼ばれた男を封じるしかなかったんだと思います」


 建国神話を勉強しながら自分だったらどうしただろうと何度か考えた。他人を統率する才能や魅力を持った優れた人間と二人、共に命を懸け争いの中心に向かう。恐らくそのカリスマ性に気圧され畏怖していたことだろう。けれども自分に自信を持てない莉央ならば同時にその指導力に心酔しているはずだ。そんな相手に望まれるなら、どんな場所にもついていったに違いない。だが、同じ場所を目指していたはずの相手が、よりによって最悪の選択をしたのならば。


「……辛い決断だったでしょうね」


 無意識に近く口をついた。先程ヤンナに言われた言葉が尾を引いている。


 ーーアオイは受け入れています。


 同じ道を選んだはずの者が違う先を見ている。どちらが正しいのか莉央にはわからない。わからないが、感情はただ帰りたいとだけ訴えかけてくる。莉央はこの世界を受け入れられない。けれど葵は受け入れている。遠くから見ていても分かる。葵は環境を受け入れ、自分の力で変えてゆく。縁を紡ぎ、味方を得、心底楽しそうに笑っていた。どこにいても自分を見失わず、居場所を作る。与えられるものを拒絶しながらも受け入れるしかない莉央とは違う。


「よく学ばれていますね。そしてあなたは自分できちんと考えることをされている。素晴らしいことです」


「そうでしょうか」


 きっかけは不意に訪れ、そのたびに泥底を這うような思考に陥る後向きな性格にうんざりしている莉央は苦笑いを浮かべるしかない。自分の考えは常に暗く、重く、全く建設的ではなくて嫌悪感しか持てない。褒められる要素などどこにもない。


「エルヴィラ様がなぜインタージャーを呼び出すことに固執していたかお考えになったことはありますか」


「インタージャーは神話の代から伝わる繁国の象徴なんですよね。エルヴィラ様は何かに不安があって、自分の地位をさらに固めたいと思っていた……?」


 建国の神と祖の契約よりも強い結びつきを得るため。この国をより繁栄させるため。そう言われたのは初めて二人での対面の時、リオが王子の支配を受けた日である。


「リオ様、ルイトカ様はエルヴィラ様に完全に名を奪われています。エルヴィラ様の体調はそのままルイトカ様にも共有されます。ルイトカ様だけではなく、マベル様にも」


「それって、マベル様も名を奪われているってことですか。だとしたらマベル様も私と同じ他の世界から呼び出された人なんでしょうか。あ、でもネルさんはこの国で生まれたって言われてたからそうとは限らないのかな……」


 ヤンナは掛けられた問いに口を噤んだ。ゆっくりと部屋の入り口に視線をやり、その後莉央を真っ直ぐに見つめる。


 言葉を待つ間、その視線を受け見返していたが、生来気の弱い莉央は続く沈黙に耐えられなくなった。話す気がないのだろうか。なんとなく居心地の悪い雰囲気を感じ目を逸らすと、そのタイミングを待っていたかのようにヤンナは「手を」と囁いた。


 言われるまま膝の上に置いていた両手をテーブルの上に持ち上げ差し出す。掌を下に向けたまま、すくい上げるように左手だけを引かれ体全体が前のめりになる。狭いテーブルを挟んで二人の顔の距離が縮まったが、意図の分からない莉央はヤンナに視線を戻し、されるがままになっていた。


「大法官府長補佐殿から、あなたの教育について苦言を頂いたことがあります」


「ディノ様から、ですか」


「ええ」


 莉央を見下ろす緑の瞳は透き通っている。こんな風に間近で見るのは初めてで、まるでビー玉のようだと感心した。透明感があり、遠目で見ると確かに緑色ではあるが、近づけば黄色をベースに細く青い線が幾重にも重なっていることが分かる。単純に美しい。


 と、見惚れていたせいで反応が遅れた。取られた手の指先に温かいものが触れている。莉央はドキマギとして目を移した。温もりの正体はヤンナの唇で、驚いて強張った手はされるがまま、今度はその滑らかな頬に流れていく。


「男女の機微についてあまりにも疎いと。一国の王子の側に仕えるものとしてこのままではよろしくなかろうと叱咤されました」

 


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