「マベル様?」


 思わぬ一連の行動に再びその名を口にした莉央は「もう一度」と言われ、何を乞われたのか分からずきょとんとした。


「もう一度、手を」


「え、あ、はい。どうぞ」


 変に間の抜けたやりとりだったが、それでも素直に差し出した手にマベルが触れた。今までにそんなふうに触れたことのない相手なので、その距離感が落ち着かない。そんな莉央の内心など全く気づく様子のないマベルは今度は指を絡めしっかりと握りしめ、そのまま別の部屋に誘う。


 普段は中庭のガゼボに落ち着き蒔田の画があしらわれたテーブルで話すので、入り口すぐの待機部屋以外の部屋に入るのは初めてだった。


「申し訳ありません。未婚の女性を自室に招くのは良くないと分かっておりますが、本日はあまり気分が優れなくて。先程まで休んでいたのです」


 広い室内には低いテーブルと大きなソファがある。調度品はエルヴィラの私室と似たものが揃えられていた。確かに体調の優れない時に屋外の固い椅子は辛いだろう。ゆったりとしたものに身を預けたくなるのは当然で、それならば当然ベッドに横たわる方が楽なはずだった。それにも関わらずベッドルームに連れ込まないのは妙齢の女性への配慮である。それが分かるので莉央は退室を申し出たが、マベルは緩やかに首を振りそれを拒絶した。


「しばらくこのままでいてください」


 手を離さないまま二人がけのソファに並んで座る。莉央は背をつけなかったが、マベルは背もたれに体を沈めた。そして大きく息を吐く。随分と辛そうな仕草に莉央は目を向けるが、その気遣わしい視線にマベルは軽く笑みを見せた。だが強がりだったのだろう。


「目を閉じる非礼をお許しいただけますか」


 返事を待つこともなく瞼が落ち、間もなく穏やかな寝息を立て始めた。


 主が眠る私室に取り残された莉央は所在なく目を泳がせた。退室するべきなのだろうが、手だけはしっかり繋がれており離れる様子もない。仕方なく繋がれたままの手を見つめる。


 間も無く側仕えの男がやってきて、自由の効かない莉央でも取りやすい位置にティーカップをセットし始めた。


 ちょうど目線より下に流れるその薄い色素の金の髪を見下ろす。その角度からでも特徴的な形の鉤鼻が見てとれる。これだけ似ているのにこの男は莉央を見知らぬ他人のように扱う。あくまで主人の客人に対する距離を貫こうとする。だがまじまじと見ればやはり他人だとは思えない。けれども、もうそれを追求しても仕方がないのだろう。するのならば初対面でヤンナの名を呼んでも返事を返さなかったときにすべきだったのだ。


 単純に聞こえなかっただけかもしれない。あるいはマベルの前で同一人物であることを隠さなければならない理由があったのかもしれない。また、莉央を知っていることは秘密だったのかもしれない。どちらにせよこの男がヤンナであったならば、莉央の問いに不都合があれば後から何かしらの対応もあっただろう。


 もちろん今莉央が考えているように赤の他人、もしくはただ似ているだけの可能性もある。それならばそれでも問題はない。

 

 どちらにせよタイミングを外しさえしなければこんなもやもやした気持ちを引きずることはなかった。そんなの今更だけど、と莉央は心の中でごちる。そしてマベルの側仕えに対して口を開く。


「マベル様、具合が悪そうですけれども、どうかなさったんですか。私、部屋に戻ったほうがいいですよね。マベル様をきちんとベッドで寝かせて差し上げた方が……」


 ごく小さな声で目の前の男に話しかける。以前は声をかけても答えをくれなかった。主の客人との会話自体を禁じられているのかもしれない。けれども世間話ではないので答えてくれるのではないだろうか。


 莉央の思惑通り、マベルの側仕えは少しの間を置いた後、静かに口を開いた。


「リオ様の訪れが途絶えてからですから、もうひと月ほどにもなるでしょうか。ひどく状態が悪いわけではありませんが、倦怠感のようなものが続いているようです」


「そんなに長い間……」


 イルデブランドの高官をもてなした日、シイナに夜の外出を知られているかもしれないと考えたあの日から、莉央はマベルの元を訪れてはいない。


「けれども今のマベル様はとても穏やかなご様子です。リオ様がよろしければ、しばらくそのままでいていだだければよろしいかと。なかなか人とお会いになる機会がない方なので、人の気配に安心されたのかも知れませんね」

 

 目の前の男の、目を細めた慈しむような眼差しを知っている。口を開かねば他人の空似かもしれないと収めていただろう。だが穏やかに相手をいたわるその声を莉央自身も掛けられたことがある。与えられた視線に気づいたかのように目の前の金髪がサラリと揺れ、伏せていた瞳が持ち上がり、しっかりと莉央に向けられた。逡巡するように唇が揺れ、そして開く。


「……アオイとの面会が叶わず申し訳ありません」


 主人を起こさないようにだろうか。囁くような言葉に応じて莉央も無声音でこたえる。


「……やっぱりヤンナさんなんですね。マベル様とエルヴィラ様がとても似ていらしたから、あなたもヤンナさんにそっくりなご兄弟の方なのかなって思ったりしていたんです」


 違ってなくて良かった、と続ければ「ご無礼をお許しください」と丁寧に詫びられ慌ててしまう。


「私にはわからない事情もおありだと思うのでそれは良いんです。あの、初めてここに来たときはヤンナさんを追いかけていたんです。あれはもしかして、わざとでしたか」


 ずっと気になっていたことである。詰めようにもつかず離れず保たれた距離は意図的に作られていたのだろう。でなければ出来すぎだ。ヤンナは恐らくこの部屋に莉央を導くためにわざとそうした。そしてネルもまた、そのつもりで外出の話を持ち出した。世間話のついでのように、あくまでも軽く、臆病な異世界の少女の警戒心を多少でも弱めようと考えて。


 はっきりとしない笑みを浮かべたヤンナだったが、その曖昧さに確信を得る。コクリとつばを飲み込みマベルを見ると胸が静かにゆっくりと上下している。深い睡眠に入っているのだろう。意を決する。ここを逃せばもう答えては貰えないだろうという危機感があった。


「教えて下さい。マベル様とエルヴィラ様のご関係とか、ヤンナさんとネルさんの目的とか。本当の意味で私はどうするべきなのか、どうさせたいのか」


 ゆっくりと自分の唇に指を当てる仕草をして莉央の言葉を遮ると、


「もう少しだけお待ちください」


「でも……」


 誰に面会の申請を出してもまともに通らないことは分かっている。この機会を逃したくない莉央は食い下がったが、相手の視線はマベルに落とされている。


「せっかくお休みになられたので、少しの時間だけでも静かにして差し上げたいのです」


 そう言われれば口を噤むしかなかった。体調の悪い人間の隣で自分本位に騒げるほどの図々しさは流石にない。しかし莉央にしてはかなりの勇気を振り絞り食い下がったのだ。ここで簡単に引くことは出来ない。そうした不満を目に浮かべていると、ヤンナが口元を緩めた。


「あなたはこのままこの世界を受け入れていかれるのかと思っていました。多少の抵抗はあれど、与えられるままに」


「……帰れるものなら帰りたいです。親切にしていただいてますし、面倒を見てもらっているのにこんなことを言うのは我儘だって思われるかも知れないですけど」


「アオイは受け入れています」


 幼馴染の名が出たことに動揺し黙り込んだ莉央に見せるようもう一度唇に指を当てたヤンナは顔を莉央に近づけると「その話は後ほど」と耳元で囁いた。


「もう少しだけ、そのままでいていただけますか。しばらく待っていただいてもマベル様の目が覚めないようでしたらベッドにお運びします。遅くなるかも知れませんが、部屋に戻られるときにはお送りしますので」


 そのときに、とまた小さく囁かれれば頷くしかなかった。

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