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 以前本人から直接言われている。だがまさか他の人間にまでふれ回っているとは思わなかった。羞恥からディノに対して小さな憤りを覚え、また脈絡無く話題にしたヤンナに対してもその感情を隠す事は出来なかった。意味の分からないまま他人の素肌に触れさせられている状況に対する照れもある。普段当たり障りなくその場を濁して終わらせる莉央が食って掛かるという状況は至極珍しいことだった。


「確かに私、鈍いかもしれません。でもそもそもディノ様やヤンナさんが私なんかを相手にそんなこと考えるはずないじゃないですか。そんな方々に言われたって」


 相手の手を添えられた左手がその頬から軽く浮く。僅かにできた隙間にヤンナが顔を向け、今度は掌に唇が触れる。強張るだけだった手を思わず引き寄せようとしたが、しっかりと握られたまま、動かすことができない。そこにくすぐるような動きを感じ、莉央はようやく自分がどう扱われているのかをしっかりと意識する。


「体の一部を相手に預け、情熱的な瞳で見つめるというのは相手を惑わすのではありませんか」


「私、そんなつもりじゃ」


「リオ様が何を考えているかなど相手には伝わりません。現に今、私はあなたに女性を感じているのですから」


 この世界に来たばかりの頃、怪我をした身体を診たのはヤンナだった。服をたくし上げる行為は羞恥を促すものであったが、仕方ないと割り切れたのはそれが必要な行為であったこと、そしてヤンナがそれを大したことのないことのように淡々とこなしていたからだ。逆に言えばそれ以降ヤンナを男性として意識したことはない。


 それなのに何を今更。莉央にしてみればそんな感覚だった。だがそんなことを悠長に考える時間はない。力強く手を引かれたせいで立ち上がりテーブルに膝をついた莉央はそのままの勢いでヤンナの体に顔をぶつけそうになり、思わずぎゅっと目を瞑った。


 勢いは軽かった。直前に掴んでいた手が離れ、代わりに肩を支えてくれたためだ。それでも殺しきれなかったスピードのせいでヤンナの胸元に鼻が軽く当たる。


「異性の前で、不用意に目を閉じてはいけません」


 強く閉じた目を開く前に顎をすくわれ、静かに嗜めるような言葉を耳にする。慌てて自由になった手を突っ張り目の前の男との距離を取る。騙されるような形になったことに不満を抱き鋭くヤンナを睨もうとしたが、開いた目に飛び込んできた相手の顔が思いのほか近くにあってまた動けなくなってしまう。


「目を閉じれば、それは相手の行為を許す行いとなります。あなたがそのまま目を開かなければ、私はあなたの唇を奪っていたことでしょう。そうすればもうあなたは私に抵抗することすら考えられなくなります」


 大きな身長差は、ヤンナが膝をかがめ背を丸めることによってぐっと狭まっている。鼻先が触れる位置に他人の顔がある。普段ならばまず考えられない距離だ。


 だがそうしているヤンナに、そんな気などないことは分かっていた。ディノが言っていたではないか。誰がわざわざ好き好んで王子の愛妾に手を出すものかと。これは莉央に危機感を抱かせるための芝居だ。だが、実際に自分に行われれば、こんなに動揺し、振り回されてしまう。


 そこで蘇るのは、昼間の葵との時間。


 髪を撫でられ子供の頃を思い出した。勝手に懐かしさに浸り、感触を確かめたいと目を閉じた。葵に対して莉央がしたその動作は、相手の行為を許す行い。だとしたら、葵からのキスは嫌がらせなどではなかったのかも知れない。それは無意識だったとはいえ莉央から了承のサインを出していたということ。ヤンナが言っているのはそういうことだ。


(……嘘でしょう)


 まだヤンナの手が顎にあり互いの距離は全く変わらないままだというのに、そんなことは瞬時に頭から飛んでしまった。


 葵は莉央を嫌っているはずだ。たまに優しくされるのは単なる気紛れ、もしくは特異な環境に置かれた者同士の連帯感からに違いない。そうでなければ結衣との決別を強いられた後の四年強、自分自身を慰めてくれていた仮説が意味を持たなくなってしまう。


 葵君は私を嫌い。だけど私だって葵君のことなんか大嫌い。だから無視されたって平気。私からは絶対、葵君に話しかけたりなんかしない。


 葵に渡すはずだったお守りを手に、泣きながら何度も唱えていた。結衣にどちらかを選べと迫られ、どうしても選べずに親友から突き放された日。余りにもみじめで辛くて苦しくて、消えてなくなってしまいたいとさえ思った。


(私が葵君に許したって何? 嫌っているくせに許されたって思ったらそういうことを平気でするの? それって私のことなんかどうだっていいってこと? 目の前で女の子が目を閉じたら誰とだってするってことだよね。でもそれって……!)


「リオ様」


 気遣わし気な声を耳にし、自分の状況を思い出す。咄嗟に触れている手を払い落し後ろに身を引こうとして、先ほどまで腰かけていたソファに足を取られひっくり返る。だが必死にもがき体を起こすと、肘掛けを飛び越え廊下に面するドアまで走り男との距離を稼ぐ。その間、ヤンナは一歩も動かなかった。


 もちろんもうこれ以上のことはされない。それは分かっている。ただ感情がついていかない。


「怖がらせてしまいましたか」


「そんなんじゃありません!」


 いつもの自分が保てない。事を荒立てないように、曖昧に笑って流すのは難しくなかったはずなのに。心臓がバクバクと、まるで耳元で打ち付けているように感じる。手が小刻みに震えて止まらないし、指先は氷のように体温を失っている。


(私、今初めて本気で怒っているんだ)


 今まで知らなかった体の反応にそれだけは自覚した。だが自覚したからといってうまく立ち回れるかはまた別の話で、動かないままのヤンナに対し何を言えばいいのか、どうすればいいのかなど全く思いつかない。結局飽和状態の感情を溢れださせる手段は、昼間と同じように涙にのせ落ちるに任せることになった。


 普段控えめで小さな声しか出さず、意に沿わないことがあっても曖昧に笑って流してしまう印象の莉央が幼い子供のように床に蹲り大泣きを始めたのでヤンナも面食らっていた。


 成年してすぐに入隊したヤンナは、並外れて整い、またこの地域では少々珍しい容姿のお陰ですぐに貴族の夫人の手付きになった後、誘われるがまま数々の浮名を流した。つまり相手は皆世間擦れした相手ばかりで、故にこんな幼い反応をする娘を相手にしたのは初めてだった。城内の女性になら通じて期待に頬を染める殺し文句に無反応だったのも頷ける。そもそも理解をしていない。


 教育係の懸念を取り違えて解釈していたことに思い至ったヤンナは、ゆっくりと怖がらせないよう静かに歩み寄り、泣き続ける莉央の頭をそっと撫で始めた。泣くのに必死なせいか大した抵抗はない。


 男女の機微どころの話ではない。これではまるで庇護を求める子供のようだ。


 だがそうと分かればそれに合う対応をすればいいだけで、莉央の興奮が収まりしゃくりあげるのを止めるまでヤンナは黙って目の前に座り、襟足近くで緩く結った室内用の髪型のなるべく乱れにくい位置を撫で続けた。幼い子どもならば眠ってしまうくらいに柔らかく、そっとぬくもりだけを伝えるように。


 やがて細く頼りないため息を最後に顔を上げた莉央は、掠れた声を絞り出し心底申し訳なさそうにヤンナに詫びた。ヤンナはやんわりと頷くと「私こそ」と深く頭を下げる。


「大法官府長補佐殿はリオ様がエルヴィラ様以外の男性に求められたとき適切な対応が出来ないことを危惧されているのだと思っていました。すでに王子のお側にいらっしゃる方に対して随分過保護なことをと思っていたのですが、そうではなく、あなたがこういった形で傷つかれることを恐れていたのですね」


「違うんです」


 否定の言葉が口を突く。葵のことがなければ、こんな過剰な反応はしなかった。


「ご心配ありがとうございました。私、今日ちょっとおかしいんです。ヤンナさんにされたことに傷つくとかそんなことじゃなくて、なんか、ちょっと色々考えることがあって疲れていたんだと思います。驚かせてしまって本当にごめんなさい」


 涙の名残で目元から頬にかけて赤くなっているが、表情はいつものものに戻っていた。相手を伺い、不快な思いをさせないような気遣いを浮かべる。そんな仕草は大人びて見えるのにと直前との落差に内心驚きつつもヤンナは莉央の手を取り立ち上がらせる。


「リオ様、これほどお心を乱すことをしておきながら申し訳ないのですが、先ほどの話は本題ではありません。あなたのお手を預かった本来の理由は」


 お気づきではないでしょうが、と前置きをした後深刻な顔で


「インタージャーの持つ癒しの力が漏れているようです」


 え、とヤンナに握られたままの両手に目を落とす。見る限りでは特に変わった様子はない。


「マベル様のご様子を見てもしやと思いました。実際目に見えるものではありませんのでこういった形での確認になってしまったことは申し訳ありません。そのうえ余計なことまで」


「いえ、余計じゃないですから。あの、出来ればもう忘れていただけると嬉しいです。高校生にもなってあんな大泣きとか、本当に恥ずかしいので」


 耳まで赤く染めた莉央だったが、「あ、だったら」と顔を上げた。


「どのくらい効くのか分からないけど、もっと続けていたら、マベル様、お元気になりますか。エルヴィラ様やネルさんも元気に」


「リオ様」


 本当に分かっていないようだと苦笑を浮かべるが、莉央は素晴らしい閃きだと言わんばかりにヤンナを見つめてる。褒めてもらえるのを期待しているかのように目を輝かせている。


「体の一部を相手に預け、情熱的な瞳で見つめるというのは……」


 まだ手はヤンナと繋がっていた。「あ」と声を上げそっと視線を逸らした莉央の耳がさらに赤くなっているのを目にしたヤンナは堪らず大きく破顔した。


 ふと気付けば窓の外の景色はうっすらと白み始めている。


 これ以上の話は無理だった。深刻な話に入るには莉央は疲れすぎている。莉央としてもこの機会に疑問の全てをぶつけるつもりだったのだが、こちらも自身の疲れに抗いきれないことを自覚していた。まもなく夜が明ける。


 ローテーブルに乗り上がったせいでひっくり返ってしまったカップの片付けや少し汚れてしまった衣服の染み抜き、そんな地味な作業を二人で行う間、莉央はずっと黙ったままだった。ヤンナもそれに倣うように静かに動いていた。


「ほっとしました」


 片付け終わり、時間切れを理由に暇を告げたヤンナに莉央は笑った。


「私には何もないと思っていたので。いろいろ教えていただいても、話に聞いていたような力はほとんど使えないし、やっぱり私なんかがそんな大それたものなはずないよねってずっと考えていたんです。自分の知らない力が自分の中にあるなんていわれても信じられなかったし不安だし。そんなの無くたっていいって何回も思ったけれど、ちゃんと役に立てるってわかって、やっぱり私嬉しいんです」


 疲れと、眠気もあるせいかややおっとりした口調で、それでも静かに微笑む。


「夜またマベル様のお部屋に伺います。マベル様がお元気になったらエルヴィラ様のところにも。エルヴィラ様の体調が良くなればネルさんの調子も良くなるんですよね」


「ええ」


「さっきのお話の続き、聞かせていただくことはできますか」


「またマベル様のお部屋からこちらへお送りします。今日は早めに切り上げるようにしてもう少しゆっくり話せるようにしましょう。シイナ殿がまもなく来られるでしょうから、体調がすぐれないとおっしゃってください。本日のご予定の調整は承りますので一日ゆっくりなさってください」


「ありがとうございます。ヤンナさんもお忙しいでしょうけど、無理はなさらないでくださいね」


 会釈を返し部屋を出るヤンナの表情は随分と柔らかいものになっていた。初めの頃の感情の読めない表情とは違っていてまた目を惹かれる。ついまじまじと見てしまったが、もうそれを窘められることはなかったので構わず見送った。


 一方で部屋を後にしたヤンナは一転難しい表情に変わる。


(気付かれたかもしれない)


 魔法省から莉央の力についての報告が上がってこなかったため後手に回ったことが悔やまれた。本当ならば、少しでも兆しが見えたところで対応をするはずだったのだ。


(担当者は誰だったか、意図的に隠していたのか単に間に合わなかっただけか。それとも気付いていないのか)


 なんにせよその者をどうするかを考えなければならない。事によれば、一人の処分では済まないだろう。


 莉央に掛けられた言葉とは全く逆の一日になるだろうこと覚悟したヤンナは表情を消す。自分の仕事に個人的な感情など必要でないことは長年の経験から分かっていることだった。


 


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