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※※※
一体何が起きたのかさっぱり分からなかった。気がつくと唇に触れている。そうすると何時間も前の話だというのに、鮮やかに感触が蘇る。だがまだ信じられない。自分の身に起こったことが。
莉央は部屋で夕食を摂りながらも、ずっと考えていた。
キスとは恋人同士がするものではないのだろうか。少なくともただの幼馴染がするものではないはずだ。ましてや相手はあの葵である。
再会した葵の様子はどこか違っていた。今まで晃流がしてくれたように、莉央を優しく包み込んだ。思い起こせばもう随分前から態度は軟化していた。莉央が一人、勝手に劣等感をつのらせていただけだ。
だが優しくしたからといってキスの理由にはならないし、そもそも自分がそういった対象にされるような人間だと思えないのは相変わらずだ。
ドラマや小説の中の唐突なキスは愛情表現の一手段であることが多い。愛しさに想いが膨れ、思わずしてしまう。或いは嫌がらせの場合もある。好きではないが、相手の嫌がる様を見るために無理やりことに至る。
葵の場合後者のように思われた。グズグズと泣き続けた莉央をなんとかあやしてはみたものの、いい加減にうんざりして、というパターンだ。
それならばなんとなく納得がいった。嫌がらせとしては最上級だ。何せ初めてのキスだったのだ。これ以上はなく効果的である。
結局食欲は無く用意された半分以上を残してしまった。片付けに来たシイナはそんな事には気づかなかったように食器を下げたが、食後用のティーセットに厚めに切ったパウンドケーキのような菓子を添えてきた。心配をかけてしまっただろうかと申し訳なさに身を縮こませる。
まだ明日会おうと葵は言ったが、とても顔を見る気にはならなかった。
両親と、芝形、曾根崎の家族。蒔田や小西。大人達の顔が浮かぶ。
--あ、彼氏でもできたとか。
小西の軽口を思い出した途端、羞恥と居た堪れなさに体が震えた。
周りの大人達は莉央を子供だとみているはずだ。莉央自身、旧知の大人達の中にいれば、小さい頃と同じ感覚で振る舞う。つまり、同級生達には見せない甘えを遠慮なくぶつけている。そこには明らかな境界線が引かれている。
莉央は大人達にとっては、まだ何も知らない子供。彼氏ができたかだとか、お嫁においでだとか、そんな言葉は子供に対する大人のからかいに過ぎない。
それを葵は台無しにした。キスという男女の行為は莉央にとっては信頼する、または信頼してくれている大人達に対する裏切り行為のように思われた。ましてや付き合ってもいない相手だ。建前だけとはいえ、彼氏であると公言している晃流が相手だったとしたら、まだ納得はできた。
(考えすぎなのかな)
自問しても答えは出ない。今時の高校生ならば普通なのかもしれない。だが莉央にはそんな話をする友人がいなかった。何が普通で何が普通でないのかは主観で判断するしかない。
結局のところ、見つけた落とし所はといえば、
(あれは私からしたんじゃない)
不可抗力である。そうすれば幾分かは楽になり、また余裕も出てくる。
(嫌がらせだとしたら、何回もはされない。私が泣いたりしなければする理由は出来ないもの)
確かに今日は冷静ではなかった。感情の昂りはあったが、あれもイレギュラーな出来事のせいだ。普通に会うだけなら、普通に話も出来るし、普通の態度でいられるだろう。
深呼吸をする。そうすると昼間の出来事など大した事ではなかったと思えてくる。
(せっかく葵君に会えるんだもの。この機会は大切にしなきゃ。一緒にいる私達がちゃんとしなきゃ、晃流君とみんなで帰ることなんかできない)
晃流と会うために、どう行動したらいいのか。隣国に働きかけ、会合の場を設ける。もしくは城から脱走してイルデブランドに保護を求める。ただ、イルデブランドがどんな国なのか、なんの目的で晃流を連れ去ったのかを莉央は知らない。晃流は無事であると聞かされてはいるものの、莉央が訪ねて行ったところで簡単に会えるものかも分からない。
結局何もわからない現状で何かしらをすることはリスクしか生まない。ならば知る努力を積み重ねるしかない。
部屋を廊下と区切る大きな扉の前に立つ。脇に、女性の手に収まりの良いサイズのベルが置かれている。それを持ち上げ、軽く振ると、チリリンと澄んだ高い音が響いた。
「シイナさん」
莉央はここにきて初めて自らの意思で側仕えの女を呼んだ。
「エルヴィラ様としばらくお会いしていないので、お時間が合えばまたお話をさせていただきたいとお願いして貰えませんか」
シイナ緩やかに首を振る。
「陛下はしばらくの間リオ様にお会いすることは出来ません」
「そう、ですか」
ここしばらくはこんな状態が続いていた。そのためそれほど消沈することはなかった。
「ではネルさんとヤンナさんにはお会いできますか」
「そちらは可能でしょう。ただお時間はかかるかもしれません」
「構いません」
葵との面会の申請はもうするつもりがなかった。今日のように簡単に会えるのならば、わざわざ時間と手間を掛けてまでて手配する必要はない。どちらかといえばこれから乞う面会の方が重要だった。
「あと、ディノ様とのお時間を頂ければ嬉しいです。私のせいでご迷惑を掛けてしまいましたから、きちんとお詫びをしたいのです」
「あれは大法官府長補佐殿の過失です。リオ様に責任はございませんので不要です」
「でも」
「あの方は子供のような方、リオ様から謝罪など受ければさらに立場を勘違いなさるでしょう。ただでさえ、目に余るのです。あちらから謝罪に来ない以上、リオ様からは何もしてはなりません」
普段愛想の欠片もないシイナだが、思いのほか王子の側に仕える莉央の存在を立てているのだと気づく。こんな状況ではあったが胸が熱くなった。だがディノとの面会が叶わないのは困る。
「ディノ様からはお詫びの品を沢山いただきましたし、お礼もしたいのです。私のせいで執務室から出ることもできないそうですし、ディノ様からこちらに面会を申し込むことは難しいのではないでしょうか」
「それはそうでしょう。執務室の扉の前には常に衛兵が構えていて、あの方の勝手な行動を制限しているそうです」
勝手な行動というのは、もちろん莉央を城下に連れ出した日のことを指している。シイナには告げてあるはずだったが、蓋を開けてみれば非常にわかりにくい場所に書き置きが一枚置いてあっただけだったらしい。どうやらディノは優秀な側仕えに反対されることを恐れ、書き置きは外出が明らかになったときの言い訳に使うつもりでいたようだ。
それにしても普段から引きこもりがちな男が、たった一回の失態だけで自由を奪われるとは随分と気の毒な話である。
「だったら私からきっかけを差し上げなければならないのではないでしょうか。ディノ様にお会いできないと、教えていただいていた知識が中途半端なままになってしまいます。それに今更他の方にご教授いただくのは緊張してしまうので」
引っ込み思案な莉央の性格はシイナももう把握している。少し思案した後、優秀な側仕えは「分かりました」と了承の意を見せた。
「リオ様の体調も問題ありませんし、魔法省の方のお相手だけでは不足もございましょう。ディノ殿にはしっかりお話をさせていただいた後、リオ様とのご面会を手配いたします」
なんにせよ、すぐに面会が叶うことはなさそうだった。
シイナが下がった後、ゆっくり時間を数え、廊下に出る。夜の不在をシイナが知っているのではと疑ってからはマベルの元へ行くのを控えていた。けれども不在に気付いていたところで何かを言われた訳ではない。知られたらどうなるかとビクビクして身動きが取れなくなるくらいなら、良いように解釈したほうがいい。つまり何も言われないのは何の問題もないからだと。
久しぶりの夜の外出は緊張を伴った。初めて部屋を出たときはヤンナを追わねばという使命感のようなものが助けてくれた。回を重ねるにつれ慣れはしたが、期間が空けばまた悪いことをしているような気になってしまう。
道順は複雑だったがまだ覚えていた。静かに廊下の扉を開き、中にある扉に向かい声を掛ける。
「マベル様、莉央です。お久しぶりです。あの、突然で申し訳ありませんがご都合はよろしいですか」
通達もしない不躾な訪問である。ここまできて今更都合を聞くのは遅い気がするが、マベルに来訪を咎められたことはない。
今回も扉はすんなり開き、そこからは穏やかな笑みが覗いていた。
「リオ様、お元気でしたか」
久しぶりに見たマベルは随分と怠惰な空気を纏っていた。普段がきちんとしている印象だったので余計にそう感じたのかもしれない。服は緩く着崩し、髪も自然に流している。そうしていると、自室にいるときの王子と重なった。双子のように見目が似ている二人を見分る点は、その雰囲気と居場所であり、エルヴィラと同じような空気や表情を出せばもう見分けがつかない、そんな妙な自信がある。つい、
「マベル様……?」
疑問形でその名を口にし、その目が僅かに見開かれたのをみて失言に気づく。だがマベルは不愉快な様子を見せない。
「どなたかとお間違いですか」
うっすらと微笑み尋ねてくる。
「申し訳ありません。今日のマベル様はエルヴィラ様に似ているように見えてしまって」
「リオ様にそう言われるのは久しぶりですね」
初めての邂逅の際、思わず漏らしてしまった言葉。そのときは光栄だと笑ってみせたマベルが、今日は目を逸らす。
「マベル様?」
普段まっすぐ莉央を見るマベルに視線を外されると言い知れぬ不安が湧き上がった。
「あの、今日は何だかいつもと雰囲気が違うように見えます。もしかして具合が悪いのではありませんか。そうでしたら私、また日を改めて伺います」
「ああ、いえ、それほどのことはないのです」
マベルが莉央の手を取る。何度も会っているのにそうされたのは初めてで、思わず取られた手を見つめた。快も不快もなく、ただ普段とは違うという一点のみに対する反応であったが、マベルは視線に気づくとそっと手を下ろし「申し訳ありません」と詫びた。触れていた肌が離れる。
だがその途端、弾かれたように顔をあげ莉央を見つめた。
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