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 自室に戻った女王はベッドサイドに配されていた三人掛けのソファの前まで歩み寄ると思い切りよく腰を下ろした。反動で体が弾む。その勢いで再び立ち上がり、一瞬その姿勢を維持してはいたが、思い直し今度はゆっくりと腰を落ち着ける。固いバネのたわみはそれでも二度、三度と体を揺らし、それに身を任せながら、アレシアはようやく深く息をついた。


 気ばかりが急いている。思っていたよりも時間が足りない。隣国の王子が新たなバロックを手に入れた後どう動くかは想定していたはずだった。だからこそ腹心のエリアスへの危険は承知で強硬手段を取ったのだ。だが連れてこられるはずのバロックは結局フォルスブルグエンドの手に落ちた。しかもそれはインタージャーと呼ばれる存在だった。


 ーーエルヴィラが望んでいるのは建国神話の再現です。


 一つの迷いもない断定的な口調。それが発言主の自信を物語っていた。長い髪を後ろにぎっちりと余裕なく一つにまとめ、痩せぎすな体はともすれば虚弱に見える。しかし関心のあるものに対する執着や情熱は自身の乏しい体力などあてにもせず、ただ意思力に任せて動き回るために研究が佳境に差しかかれば目に見えて疲弊する。


 元々学者の家系に生まれ、女性を軽視する国柄の中でも父の研究を補助し、自身もまたそれを掘り下げ仮説に根拠を加えていく。幸いなことにその業績を正しく理解する男を伴侶とする事が出来た、フォルスブルグエンド出身の古代神学者ヴェラルディ・トルーティカ。


 二年前ほど前、イルデブランドに迎え入れた亡命客である。


 バロック、またはインタージャーをエルヴィラが求める理由、その先の計略。それを土産に保護を求めてやってきたこの女をイルデブランド側が迎え入れるのは苦渋の選択だった。


 まず陸続きにありながら、隣国に伝わる古代神話に対する知識が乏しい。ましてや数百年も前の異能神の人外の力の再現をするという荒唐無稽な話をただ信じろと迫られ受け入れられるだけの非常識もない。もちろんヴェラルディは学者であるから資料から何から説得準備は万端に整えての来訪ではあったが、提示された資料は難解なもので、その説明も決して分かりやすいものではなかった。それはこの女の話術のまずさで、研究にかまけ対人能力を磨くことを怠った同じ研究者の父親のせいだ、とこれは説明下手を自覚している本人の弁であるが、大方その通りなのだろうと納得いくレベルで酷い。


 ただ彼女は国家公認で学問を修めることを許されている優秀な家系の一員であり、また中枢に近しい立場の人間の元奥方と言う社会的地位もあった。大人しく隣国に居れば、何不自由なく好きな研究に打ち込めたはずだ。側から見れば亡命をする必要などない。


 周りの者に迷惑をかけないため、夫とは離縁し生家には研究資料の収集のためにと伝え家を立ち、その先で事故を装う。そこまでして姿をくらましてきたと言う。


 事故の現場と設定された場所はイルデブランド側でも確認した。なだらかなはずの山道は雨季の豪雨で土砂崩れを起こし、見るも無残な状態になっており、いまだに復旧の見通しも立たない。


 ヴェラルディは真顔で「崖下の川沿いに私のズタズタに裂けた下着が埋めてあります」と視察する者に伝えた。外套や靴ではいかにも偽装したように見えて良くないだろう、下着ならば使用済みのものを自ら置き残すことなど、まずありえない。だからこそ不慮の事故であることにリアリティーが出るのではないかとは本人の弁であるが、もちろん話を聞いたものは一様に首を振った。血痕などは流されたと考えられたとしても、他の痕跡もなくただ下着だけ埋めてある状況などどう考えても異常である。


 だがいかにも研究者然としたヴェラルディのこの常識外れの発想は、逆に小細工のできない愚直な人柄を物語っているように思われた。本人がどんなに真面目に策を講じようとも相手を騙すにはどうにも片手落ちだ。つまりイルデブランドを騙すつもりで亡命の体を装ってきたにしてもすぐに判明するだろう。


 だから、受け入れた。亡命とは言うが、本人に追跡が及ばないような工作もしてある。イルデブランドで何か事を起こさない限り、この女に対する動きはないだろう。それほど危険がないのであれば、フォルスブルグエンドの弱みを握ることが出来る可能性を得られることは悪くない。


「フォルスブルグエンドの建国神話は、まだ周囲一帯の国が一つであった頃の話になります。ですから宗教的に価値のある建造物、伝わる話、経典などは様々な形で近隣の国にも引き継がれています。もちろん諸国の都合の良いように改編されたり手を加えられているものも多く、そのまま解釈をすることはできません」


 入国の諸手続きを終え、貴賓客としての扱いを決め、王城内に部屋と研究室を与えた。正式に自分の居場所を確保したヴェラルディは話し下手なくせに饒舌だった。遠慮もなくアレシアに面会を申し立て、建国神話について飽きもせずに語り続ける。


 大した利もない会話を繰り返していく中、この女を引き受けたのは間違いだったかと思い始めた頃、騒動が起こった。


 ある朝ヴェラルディの不在を警護の者から報告された。亡命客という立場的に、申請もせず外出させられない事はすでに説明済みだったにも関わらず、その姿が見えない。味のない会話を繰り返すのにもう飽き飽きだった女王としてはもう放っておけと言いたいのはやまやまだったが、そういうわけにもいかず、大事になる前にとエリアスに捜索を託した。


 研究馬鹿なあの女のいる場所は古代神話に関係する場所に違いないと指示すれば、単独での捜索でも案外簡単に見つけることはできた。


 はたしてヴェラルディはナジモ湖にいた。その一帯は通常ならば立ち入ることの出来ない場所だ。陽の光を返し輝く水面は、一歩足を踏み出せば逃れようもなく身にまとわりつき、徐々に体を引き込んでいく。


 だが、ヴェラルディは湖の中央近くにいた。湖面にしゃがみ込み、中央に盛り上がる何かを熱心に調べていた。


 エリアスはまず正気を疑ったという。ヴェラルディだけではなく、自分自身についてもだ。船を出すことも出来ない湖に入る女。死を得ようとでもいうのか、それともいるはずのない場所にいる女を知覚している自分がおかしいのか。


 エリアスの姿に気づいたヴェラルディは相手の混乱をよそにごく普通に立ち上がり湖上を歩いて戻ってきた。


 森の木々が茂る。湖面には薄暗く影を落とし、その分差し込む陽光がコントラストの強い景色として浮かび上がる。真っ黒い水面、所々鏡面のように木々の姿を映し返し、その中を人が歩く。天と地が表裏一体になったかのような摩訶不思議な光景。


「これは、間に合わないのではないかなあ」


 そんな神秘的な景色の中から出てきたヴェラルディはのんびりと呟くと、エリアスの姿が目に入らぬ様子でさっさと王城への帰路に着いた。


 さすがに与えられた自由を逸脱しているヴェラルディの行為を看過するわけにはいかない。そのまま城に返すわけにもいかず、自分を無視して通り過ぎたヴェラルディを追ったエリアスだったが、この細身の女は自分の体力の限界というものをわかっておらず、数歩先で行き倒れていた。


「ああ、エリアス殿。ちょうど良いところに。私、どうやら腹が減っているようです。急に動くのが億劫になりました。大変申し訳ないが城まで運んでいただくわけにはいくまいか」


 前日の夕食は研究室で摂ったらしい。大方書物を手にしながらのながら食べだったのだろう。朝食の給餌の際には姿を眩ませていたようだから、きちんとした食事は昨日の昼以降摂っていなかったに違いない。呆れながらもエリアスは枯れ木のような女を背負い森を抜け、そこから繋いでいた馬に跨がり城へ戻った。


 呆れるのはアレシアも同様だった。この女の振る舞いに客人としての待遇を改めようかと面会を申し出れば、それを待ち切れぬかのように時間を守らず謁見室に押し入る。予定より二刻も早くそれを知らされたアレシアは少々苛つきを覚えながらもヴェラルディの元へ向かった。


 部屋の扉を付き人が開ける。目に入ったのはテーブルに手をつきピョンピョンと跳ねるいい歳の女。幼い子供のような動向に絶句したアレシアの姿を見るなり、ヴェラルディは興奮した様子を隠さず「待ちわびました!」と大声を出した。


「早くご入室ください。それから人払いを。ああもう、何故もっと早くいらっしゃらないのですか」


 一国の女王に対して不敬甚だしい物言いに付き人は気色ばんだが、逆にアレシアは毒気を抜かれ、エリアスの同席だけ認めさせると子供のように気を昂らせるヴェラルディに着座を促した。甘い菓子と果実の絞ったものを用意させ、完全に幼子を相手にする覚悟で自身も腰を落ち着ける。その対応は間違いではなかったようで、キラキラした目で並べられた菓子を見つめたヴェラルディは、小さな咳払いをすると、そこからは学者然とした態度で話を始めた。


「今の時点で私に分かることは、王子エルヴィラによる建国神話の再現性とその段階です」


 それからの話は、うんざりするほどに長かった。


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