10


 何の話かわからなくてきょとんとしていると、ディノは失言だったかと苦笑を浮かべた。


「この前チラッと聞いたガスコンロというものの仕組みが気になってな。詳しく聞きたいと思ったらいても立ってもいられなくなり、その、未婚の娘の部屋を訪れるのは不作法だとは思いつつも、我慢できず何度か君の部屋を訪ねたのだ。空振りを見かねたシイナ殿が教えてくれた」


 夕食後の不在をシイナが知っていた。その事実に莉央は固まった。部屋にいるときにシイナが訪ねてきたことはなかったし、今までも不在に気づいているそぶりを見せなかった。確かに接待の指導というか、アドバイスを受けにはいっていた。しかし相手はネルではない。マベルである。


 ネルの名前が出たということはネルも知っているのだろうか。散歩か何かで外出していると思われているならまだいいが、マベルの元に通っていたことも知られていたらどうすればいいのだろう。そもそもマベルが莉央と会っていても構わない立場の人物なのかすらわかっていない。


「王子からの褒美を考えておけ。ガスコンロについてはまた次回聞かせてもらおう」


 無言になった莉央に深くは聞かずディノは高く足音を響かせて去っていった。探求心溢れる男は、しかし答えにくい内容だと悟るとあっさり追求を終わらせる。それに感謝をしつつもシイナがいる以上安心するわけにはいかない。


「お部屋に参りましょう」


 立場を弁えた年上の女性は目の前で交わされた会話についてはまるで耳に入らなかったような素振りをするから莉央も口を開かなかった。確かめてもよかったが、下手にこちらから切り出して逆に問い返されてしまえば困るのは莉央自身だ。


(マベル様のところに行くのは少し控えなきゃ)


 特に何を言われることもなく自室に連れて行かれ、シイナはそのまま退室していった。「ごゆっくりお休みください」と夜の挨拶をされたので、もう明日の朝まで来ないだろう。一人きりの時間となる。


(葵くんがいた)


 入室してすぐにわかった。知らない髪型、知らない服装、かっちりした服の上からでも一回り太くなった腕の形が見て取れた。だから莉央は焦点をずらした。どうしてもまじまじと見てしまいそうになったからだ。王子は葵の顔を覚えていないだろう。莉央を従わせる為の盾にとってはいるが葵自身に関心がないことは今までの会話でわかっている。ならば絶対にあれが葵だと悟られてはいけない。こちらの弱みをエルヴィラは聡く利用する。あんな場でなければ駆け寄って無事を確かめたかった。半分隔離されているような状況でネルに会う機会も少なく情報がなかったから、よけいに離れていた幼なじみへの気持ちが大きくなっている。言葉を交わしたら泣いてしまったかもしれない。視線をずらすだけでは駄目だった。何かの折りに葵の姿が視界に入れば絶対にそこからそらせなくなる。だから焦点をはずした。それでも近くにいる人間のことはわかるし、ぼやけた視界でもどうせ他国の官僚など再び会う機会もない。その顔を覚えていなくてもさほどの問題はないのだから。


 葵は莉央だと分かっただろうか。過度に着飾った姿を見られていると思えば気恥ずかしかったが、そもそもあまり莉央に興味もないだろうしもしかしたら分からなかったかもしれないなどと不安になる。あの場では王子に付き添う女性、ディーバという役職名の紹介しかなかった。バロックやインタージャーの呼称はそもそも使わないように釘を刺されていたし葵には分からなかったかもしれないと考えた。


 服を脱ぎ、見た目よりは簡単に外すことのできる装飾をすべて取ると風呂に向かい、濃いめにされていた化粧を丁寧に落とした。湯を浴び寝間着に着替え寝室にある鏡に自分を映す。いつもの顔がそこに覗く。先ほどまではまるで別人の顔を見ているようだった。


(ご褒美、何がいいかな。晃流くんのこと、もっと詳しく教えてもらえないかな。でもイルデブランドの偉い人たちが知らない秘密なのにエルヴィラ様が詳しく分かるのかな。うやむやにされて終わっちゃうかも)


 水差しの中のレモン水をカップに移しゆっくりと口に含んだ。さわやかな酸味が舌をくすぐる。ふ、と息をつき目を閉じると先ほどの葵の姿が浮かび上がる。


(葵くんとちゃんと会いたい。話したいな。でもエルヴィラ様にお願いする訳にはいかないよね)


 もう三ヶ月も会っていない。その間に何があったか、話したいことはたくさんある。大変だった話は言っても弱音になってしまうからしたくはないけれど、とっておきの知らせはある。


(マベル様に教えてもらったこと。蒔田先生がこの世界にいたこと。私たちもきっと帰ることができる。早く、葵くんに教えてあげたい)


 ネルに会えない理由は分かっている。おそらく王子は警戒している。莉央の名を奪いきれなかった理由がネルにあることを察しているためだ。けれども排除は出来ない。バロックであるネルがいなければ異世界からの人間と話を出来る者がいなくなってしまう。未だに莉央は何の力も発揮してはいないし、必要とあれば再び異世界からインタージャーを呼び出さなければならない可能性もあるのだから手元に置いておかなければならないことは莉央にも分かった。


(あ、ディノ様だったら)


 葵のことを覚えていたし、城内でそこそこ融通の利く立場らしいのは奔放な行動からも見て取れた。例えばディノとの外出を褒美として頼んでみてはどうだろうか。外出先で葵と落ち合えるよう取りはからってもらうことは、エルヴィラに葵との面会を頼むより早そうだ。


(次に葵くんと会うときはちゃんといつもの私がいい。ディーバなんて名乗ってお化粧をした私じゃなくて、ちゃんといつも通りの私で)


 葵は久しぶりの莉央と対面したとき何を言うだろうか。


(なにも変わってないって怒られちゃうかも)


 自分でも嫌になる、消極的でネガティブな性格は生活の場が変わり、環境が変化しても変わらない。ただ場にあったやり方を覚えただけだ。今回のことも幾度も繰り返した会話の練習のお陰で何とか乗り切ることが出来ただけの話である。


(葵くん変わってた)


 この世界に来たのは十二月だった。真冬である。けれどもそのときこの地は既に春。今はまさに夏の盛りといった陽気だ。三ヶ月というのは自分で作ったカレンダーから計算した日数であった。こちらの暦とは違うが、元の世界で莉央は明日十六の誕生日を迎える。


 フォルスブルグエンドの王都は海に近い。この時期には塩気のあるべたついた空気が流れ込んでくる。そのためか日差しも強い。久しぶりに見た葵は真っ黒に日焼けしていた。城の中から出ることを許されていない莉央とは正反対だ。元々白い肌は紫外線を浴びないためにさらに透明感を増している。それもきっとエルヴィラが望むインタージャーとしての資質なのだろう。最初に会ったときに髪や肌の質に触れていたことを思い出す。


 瞼の裏に浮かぶ葵の姿は見知っていたより精悍だった。堂々としていて自分の立ち位置に迷うことなどなさそうだった。


(でも変わってたのはきっと見た目だけ。葵くんはどこでも同じ。違う場所でも立場でも、いつでも自分をちゃんと持ってる人だから)


 人の意見に左右されない芯の強さ。時にそれが悪く働くこともあるが、ぶれない信念があるからこそ自分の意志を曲げることはない。


 この世界に来て莉央自身は何か得たのだろうか。自問しても答えは見つからない。


(私は流されているばっかり。エルヴィラ様の言うことを聞いて、魔法省の方の嫌みを聞いて、嫌だなって思っても何も言えないままただその時間が過ぎていくことだけを願ってるだけ)


 エルヴィラの態度は当初よりも軟化しているが、それでも威圧感は大きい。莉央をインタージャーだと決めつけ、またインタージャーを敬っているような振りをするが実際には振り回されることもしばしばだ。魔法省の人間はそもそも何も出来ない莉央を馬鹿にしているので打ち解けようとも思わない。しかしディノやマベルは違う。莉央は二人を信頼しているし、二人も莉央を一人の人間として尊重してくれる。二人の期待には応えたいと思う。


(インタージャーとしてするべきこと。王子様の側で、建国神話の再現をする? でも、別に何かを求められている訳じゃない。今日みたいな席に同席させたのだって、私自身に何かをさせたいのではないみたいだった)


 ーー必要以上には口を開くな、しかし笑え。私を信頼し心底酔心している様子を演じてみよ。


 迎賓室に向かう前、二人だけのときエルヴィラは念を押すように言った。それが女性として求められた意味なのだと莉央には分かった。ディノや他の者たちが想像する王子に仕える女性のあり方とは違う。エルヴィラは男女としての関係を求めているわけではなく、男女としての関係を演じられる相手を求めているのだ。それが国益をもたらす存在であればなおのこといい。


(私に出来ることってなんなのかな。私がすべきことって? 私、この世界にいる意味がわからないよ)


 もう何度も繰り返している自問自答に答えは依然見いだせなかった。





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