いつの間にか消沈したいらだちに気づかなかった葵はふと考えた。莉央にとっての蒔田の存在の大きさはよく知っている。雑誌の記事やメディアでのインタビューはほとんど見たことが無いが、そこは幼なじみだからこそである。いつも下を向いて歩いていた莉央が、蒔田の教室に通いはじめて明らかに変わっていくのをすぐ近くで見ていた。だからこそ


(蒔田先生と晃流の代わりをみつけたんだ。別に戻る必要なんか無い)


 幼なじみとはいえ二人の男と同時期に姿を眩ましていた少女が戻ればメディアにとって恰好の取材対象となるだろう。悪い噂は千里を走る。きっと莉央にとって今までよりも辛い環境になる。師である蒔田だってそうだった。その後の境遇は酷いものだった。今の穏やかな環境に戻るまで数年かかっている。


 と、そこまで考えてふと気づく。


(蒔田先生も、失踪していた)


 どんな経緯で戻ってきたのかは知らない。失踪中のことは記憶にないと言っていたらしいし、そこに特別に興味を持ったことはなかったけれど。と、不意にある映像が脳裏に浮かんだ。


(あの、蔦のレリーフ……!)


 王子と謁見したあの日、通された室内の奥の壁に置かれた建国神話のレリーフ。それ自体も立派だったが葵の印象に残ったのはその角に刻まれたサインと蔦同士が絡み合う独特なデザイン。見たことがある気がしていたが、その後いろいろあったせいですっかり頭から抜け落ちていた。


(ミスターバロックのカードだ)


 ここ数年で急に知名度を上げた外国人マジシャン、ミスターバロック。それまでの経歴は一切が謎に包まれている。得意なのはカードマジック。何もない空間で指を鳴らすだけでその指先から大量のカードがわき出すのだ。


 常に青々とした葉をたたえるフユヅタをモチーフにミスターバロック自身がデザインしたというオフィシャルカードが小学生の間で爆発的に流行した。葵の弟橙基もショッピングセンターの売場の前で親との一時間以上の根比べの末買ってもらったと自慢していた。もっとも販売していたものは種も仕掛けもない単なるトランプだったので一週間もしないうちに飽きてしまい、それっきり机の引き出しに仕舞いっきりになっているようなのだが。


 そう考えるとミスターバロックなんて名前が何のひねりもない単純なものとしか思えなくなる。けれどもそれも計算なのかもしれない。自分が異世界でバロックとして生きた期間があったことを同じ境遇の人間に知らせるための分かりやすいサイン。


 魔力を持つという黒真珠、莉央は七色に見えると言った。ネルはバロックを人とは違う色を見る人間だという。蒔田はどうなのだろう。莉央と似た色使いを好むこの画家は、実は目に見えるままを描いているだけだったのかもしれない。人には感じられない色を知覚している莉央と同じように。


(莉央……!)


 ヤンナから釘を刺されていたことも忘れて葵は笑顔を浮かべる莉央を見つめた。話したい。今、切実にそう思う。こんな手も届かない場所ではなく、面と向かいきちんと言葉を交わしたい。蒔田のことを教えたら少しは安心するのではないか。莉央の不安を和らげることが出来るのではないか。


 先ほどまで莉央がどうしようが関係ないと考えていたにも関わらず今はこんなにも伝えたくて仕方がない。その矛盾に葵は全く気づいていない。


 相変わらず莉央はテーブルに添えられる花と同様にただ顔をほころばせているだけだった。



※※※



 部屋を一歩出た途端膝が揺れた。後ろに続いてきていたディノに支えられる。


「上々だったぞ。今更府抜けてどうする」


 そう言われてもただ無我夢中だっただけだ。まさか自分が外国の官僚をもてなさなければならない状況になるなどとは想像もしていなかった。


 数歩前を宮内府長官のユーセイと歩いていたエルヴィラがゆったりと振り返り薄い笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。


「君の身分をはっきりとは告げておらぬが彼らはうまい具合に解釈したことだろう。確かに上々だった」


 珍しく分かりやすい誉め言葉をもらい莉央は大きく息をついた。そしてぽろっと言葉を漏らす。


「よかった」


 しかしそれは目上の者への言葉遣いではない。一斉に寄せられた周囲の目線に気づき急いで言葉を添えた。


「お役に立てたのでしたら」


 後は微笑んでごまかす。


「ああ役に立った。褒美を考えようか」


 エルヴィラは僅かに見える口元を緩め頷いた。莉央の態度は意に介す様子もなく「下がってよい」と言ったきり執務室の方へと足を進める。会談が終わってもまだイルデブランドからの使者は滞在する。王が臥せる今、国政は実質王子の手腕にかかっている。休む暇もなさそうで少し気の毒な気がするが、そもそもエルヴィラは莉央ほどプレッシャーを感じている様子がないし大したことでもないのかもしれない。


 客人はすでに部屋に案内されているし、そのうえエルヴィラが去ったことで一気に周囲はリラックスした雰囲気に包まれた。


「リオ様、城での生活には慣れたようですな。エルヴィラ様ともうまくいっている様子でなによりです」


 相好を崩したユーセイが声をかけてくる。この方も緊張していたのかなと思うと莉央もつられて笑顔になった。もちろん先ほどまでの迎賓室での笑みとは全く違う笑顔である。しかしすぐに目の前が真っ暗になった。


「王子だけでなく私とも大変うまくいっております。長官殿に心配していただく必要はございませんぞ」


「ディノ様」


 顔を覆うディノの手を何とか引き剥がして非難めいた声を上げたがすでにユーセイの機嫌を損ねた後だったようで


「学者肌の昼行灯に見初められるとはリオ様もつくづく運がない。残念なことです」


 そう言い捨てて去ってしまった。それを皮切りに他の人間もそれぞれに散り、扉の前にはディノと莉央、それから付き人として部屋の前にいたシイナだけになった。


「使いどころを誤るな。あんな役立たずに愛想を振りまいたところで何の得もないだろう」


「ただの世間話ですよ」


「向こうはそうは思っておらん。王子に取り入るための手段として君を欲しているのはわかりきったことだ。宮内府は最近不明瞭な金銭の流れが見つかったとして予算を削られたらしい。私服を肥やしていたに決まっているあの男が何の意味も無く君に働きかけるはずがないだろう。長官殿は元々王子のバロック保護政策に強く反発していた」


「でも……」


 世間話くらいはしてもいいはずだ。わざわざ喧嘩を売る必要は無い。しかしディノのはっきりと割り切りたがる性格はわかっている。これはもうどうしようも無いのだろう。


 今日のこの会談に莉央が列席させられた意味を知らされてはいない。ただ数日前に突然出席するように言われただけだ。もちろん荷が重いと即座に辞退した。だがエルヴィラがそれで引くわけがない。


「彼の国に囚われる友人のことを知りたくはないのか」


 晃流のことを口にされれば断ることなど出来はしない。結局つきあわされる羽目になった。


 わかったことはこれほどの重圧の中もてなしたあの高官たちは晃流のことを全く知らないということだけだった。エルヴィラはおそらくそれを知っていたに違いない。こちらからもはっきりと切り出せるような話題ではなかったので幾重ものオブラートに包んだような聞き方になってしまったが、それを莉央が知ることが出来たのは収穫だった。晃流のことは王子と対等の立場かそれ以上の、しかもごく一部の人間しか知らない。


「そういえば近衛の中に見覚えのある人間がいたな」


 急に切り出された話題に思わずディノを見上げた。


「君の知り合いだったな。たしか君よりも政治に精通していた少年だ。あれもバロックなのだろう?」


 言葉に詰まる。バロックでなければ価値はないと思っているこの国の人々。それが頭にあったせいでどう答えるべきかがわからない。目を泳がせていると


「先ほどまでの堂々とした態度はどうした」


 呆れたような声をかけられる。


「あれが素で出来ていたらディノ様に支えていただかなくても大丈夫だったと思います」


「同感だな。そのくらいは知っている」


 肩をトンと叩かれた。


「まあよかろう。上々だと言ったはずだ。王子の狙うところは達成できたようだし、君はゆっくり休むといい。知っているぞ。毎夕食後女狐の元で接待の指導を受けていたのだろう」


「え?」


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